さて、お盆も終わり墓参りも済んで、精進落としの大川花火大会が開かれる同日、朝顔市が終わったばかりの入谷鬼子母神Click!へ出かけてきた。猛暑日で、境内に並べられた鉢のアサガオは、花はおろか葉までがしおれ気味だったのだが、実に久しぶりに訪れた鬼子母神(きしもじん)は、昔に比べさらにひとまわり小さくなったように感じる。戦災により、街並みがほとんど焼けた一帯なので、緑が少なく古い住宅を見かけることも稀だ。
 入谷から根岸Click!は、江戸期から上野や谷中の山麓に展開した静寂かつ緑が濃い地域で、典型的な別荘地あるいは静養地として拓けてきた。ウグイスの里とも呼ばれ、その鳴き声を競ったClick!のもこの一帯だ。澄んだ空気に清流が流れ、身体を悪くして静養していた正岡子規の子規庵Click!も近いのだが、当時の面影はまったくもって皆無となっている。ちょっと涼しげな、吊りしのぶでも買おうかと歩いたのだが、市のあとなので風流なものはもはや売っていなかった。
 鬼子母神(真源寺)では、面白い光景を目にした。住職がクルマを相手に、除霊(浄霊)と結界張りを行なっていたのだ。クルマのボンネットの前で経文を唱え、その合い間に盛んに火打石で“切り火”を施す。4ドアをひとつひとつ開けながら、同様に経文と切り火の施術を繰り返している。約15分ほどで施術は終わったのだが、なにかの事故にでも遭ったクルマなのだろうか? それとも、運転をしているとバックミラーに血の気のない髪をふり乱した、知らない女性の顔でもチラチラのぞくのだろうか? かなり力の入った異様な法要だったので、最初から最後まで見とれてしまった。なにか憑いているクルマだとしたら、これで成仏できたのだろうか。
 入谷というと、すぐにも蕎麦屋Click!が思い浮かぶ。もちろん、河竹黙阿弥Click!の『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』、いわゆる“天保六佳撰”Click!の「河内山と直侍」の名場面だ。お尋ね者の幕府御家人・片岡直次郎が、恋人を訪ねて入谷の寮(別荘)を訪ねたあと地元の“二八蕎麦”へ寄り、そこで恋人の遊女・三千歳あてに手紙を書いて按摩・丈賀へ託すシーンだ。この芝居が特異なのは、舞台の上で役者がほんとうに蕎麦をすすって食べてみせるからだ。その食べ方が、江戸東京の蕎麦食いには、もっとも美しい食べ方の規範とされている。
 この芝居で、片岡直次郎こと“直侍(なおざむらい)”を得意としていた5代目・尾上菊五郎は、前段に登場する岡っ引き役の役者に、「蕎麦をもぐもぐと、わざと噛んでまずそうに野暮ったく食ってくれ」と注文し、そのあとで登場した菊五郎はいかにもイキで美しくサラッと食って見せていた・・・というエピソードが、いまだに東京では語り草になっている。舞台では、蕎麦屋に扮した役者が蕎麦をほんとうにゆでて直侍に出すので、戦時中から戦後にかけて食糧事情が悪い時期、芝居の関係者は蕎麦を求めて全国を走りまわっていた・・・という逸話も残っている。これらの話は、直侍が登場する芝居を観るたびに、親父からさんざん聞かされた話だ。
 
 
 さて、鬼子母神へと出かけたあと、昼飯はもちろん入谷に多い蕎麦屋で・・・となりそうだが、今回はちがった。入谷に蕎麦屋が昔から多いのは、蕎麦を茹でたり晒したりする水がキレイだったせいもあるのだろう。そんな蕎麦屋の暖簾を横目で見つつ、昼飯に入った見世は根岸の「う」Click!だ。散歩に出かけた日が、土用の丑の翌日だったことにもよるのだが・・・。上野から根岸にかけては、江戸期には武家屋敷や寮(別荘)が散在していた、いわゆる旧山手に属するエリアだ。だから、いまや雑然とした街中にあるうなぎ屋でも、きっと乃手風味Click!のうな重を食わせてくれるのだろうと想定していた。そして、そのとおり予想は的中した。
 出かけたのは、根岸の「宮川」だ。焼きではなく、蒸しを優先する典型的な乃手うなぎの代表店だった。味つけも、下町の「う」に比べて淡泊かつ薄味で、上品な仕上がりになっていてうまい。わたしは、もちろん下町の香ばしい風味のほうが好きなのだけれど、乃手の「う」もキライではないので美味しく食べられた。「宮川」と共通する風味の店は、同じ乃手にある麻布の「野田岩」Click!と、神田川沿いは小日向の「石ばし」Click!の2店だろう。店の雰囲気や対応もよく、久しぶりに乃手らしいうな重を堪能してきた。おしんこは、やはり下町舌のわたしの口に合わなかったけれど、誰にでも乃手の味として推薦できる「う」だと思う。ただし、ウナギが稀少になっているせいか、値段はそれなりに(いや、かなり)高かった。入谷の北東の南千住に、蒲焼きと川魚料理で有名な「尾花」があるのだけれど、近ごろあまり芳しい評判を聞かないので寄らないことにしている。

 
 
 新吉原Click!を右手に、三ノ輪Click!から南千住へと散歩をつづけたのだが、小塚原(こづかっぱら)にある回向院分院の延命寺へ近づいても近づいても、さらに近づいても、大きな“首切り地蔵”が見えてこないのには愕然としてしまった。南千住駅前の歩道橋まで上っても、巨大な地蔵がちっとも見えてこない。まさか、街の再開発が小塚原の首斬り処刑場跡までおよび、霊の鎮めである地蔵が撤去されてしまったのか?・・・と、一瞬疑ってしまった。寺の前にきて境内を見わたすと、やはり地蔵尊が影もかたちもなく工事中となっている。怪訝に思い処刑場跡の境内へ入ると、ようやく事情が判明した。先年の東日本大震災Click!で、巨大な“首切り地蔵”が一部倒壊してしまったのだ。石像自体が大きくゆがんでしまったので、もう一度組み立て直すために各部が分解され、クレーン車を使って再度組み立てられる日を待っている状態だった。
 この大きな石製の地蔵座像は、まるでダルマ落としのような構造で組み立てられ、表面に彫刻が施されているのがわかる。蓮弁から台座、脚部、胴部、胸部、肩部と各部が輪切り状に分かれていて、頭部および両腕は寄せ木造りならぬ“寄せ石造り”のように組まれている。境内のあちこちに大きな身体の部位が置かれ、工事中の囲いがなされているのは、それぞれの“部品”を保護するためのものだった。巨大な首は、同寺にある墓地に接して安置されているのだが、ほんとうに首を斬られてしまった地蔵のようで、以前にも増して一種異様な雰囲気を漂わせている。
 
 
 
 処刑された人々を鎮魂するために建立された地蔵尊なのだが、いまその鎮めのために設置されたかんじんの“要石”が存在しない状態がつづいている。入谷の鬼子母神で見た、あまり気味(きび)のよくないクルマの浄霊供養といい、小塚原の倒壊した“首切り地蔵”の不在といい、霊的な雰囲気が色濃いゾクゾクする散歩となるはずだったのだが、36℃の陽射しではまったく暑気払いにもならなかった。幽霊のみなさんも熱中症には注意し、くれぐれも身体にはお気をつけください。

◆写真上:蕎麦ならぬ「う」を味わいに訪れた、クルマ浄霊に怖れ入谷の鬼子母神。
◆写真中上:上は、入谷鬼子母神の本堂と境内。下左は、クルマに浄霊(除霊)と思われる供養を行なう様子。下右は、空襲にも焼け残ったものか現存する風流な造りの住宅。
◆写真中下:上は、1950年代に上演された河竹黙阿弥・作の『天衣紛上野初花』(河内山と直侍)の場面で、直次郎は15代目・市村羽左衛門だが丈賀はうしろ向きで顔が見えない。中は、1953年(昭和28)に撮影された入谷のけんどん蕎麦屋(左)と現在の蕎麦屋(右)。下左は、入谷にある料亭風の蕎麦屋。下右は、根岸「宮川」の典型的な乃手風味のうな重。
◆写真下:上は、2007年(平成19)に撮影した“首切り地蔵”(左)と倒壊後の現状(右)。中は、延命寺が撮影した震災直後の“首切り地蔵”。下は、境内に置かれた組み立てを待つ各部位。
★下落合の環境サウンド(夏)
前回の「春」Click!と同様に、家のベランダから収録した下落合のサウンドをおとどけします。真夏の午後、樹木の枝葉をわたる風の音とともに、セミたちの合唱が聞こえています。アブラゼミ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、ヒグラシですが、8月下旬になるとツクツクボウシのにぎやかな声が加わります。下落合をしばらく留守にしているみなさん、どうぞお楽しみください。
下落合サウンド(夏).mp3