平安期ぐらいまで高田(たかた)村は、豊多摩郡と(北)豊島郡とにまたがる大きな村だったらしい。人口や耕地が増えたのだろう、鎌倉末期から室町初期ぐらいまでに、上高田村と下高田村に分離している。そして、室町期を通じてさらに住民が増えつづけ、上高田村は野方村(上高田:中野区)と落合村(上落合村/下落合村:新宿区)、そして葛ヶ谷村(西落合:新宿区)とに分岐し、下高田村は高田村(豊島区/文京区)と戸塚(十塚)村(上戸塚村/下戸塚村:新宿区)とに分かれたとの伝承が残っている。さらに、江戸末期または明治初期になると下落合村は葛ヶ谷村を合併(下落合村葛ヶ谷)し、また東に隣接する高田村と下落合村との入会地(金久保沢Click!)へ境界の線引きClick!を行ない、ほぼ今日に近い姿ができあがったと思われる。
 この中で江戸初期に、高田村がさらに高田村と雑司ヶ谷村(町)とに分かれてもいるようだが、これは雑司ヶ谷が幕府直轄領に指定されたことに関連しているのだろう。また、東西に広い下落合村が同様に一時期、下落合村と中井村に分かれた・・・という伝承も聞いているが、わたしは江戸期にさかのぼるといわれるその具体的な規定資料を、いまだ一度も目にしたことがない。いずれにしても、少し前の行政区分では豊島郡、北豊島郡、豊多摩郡という行政区画で、また現在では新宿区、豊島区、文京区、中野区と区域が分かれてしまっているこの地域は、古来から「高田」という地名をベースに、連続する地域性を備えていたことがわかる。
 少し余談めくけれど、以前に高田馬場Click!(たかたのばば)や高田八幡Click!(現・穴八幡Click!)、水稲荷の高田富士Click!などが戸塚村にあり、高田村の飛び地Click!となっている経緯をご紹介した。社は神域なので、高田村(町)が戦後まで手放さなかったのであり、馬場は幕府直轄の練兵場だった関係から、後世まで高田村に帰属していたのだろう。戸塚村(町)に存在しながら、「高田」と名がつくエリアや記念物は、探せばもっといろいろありそうだ。それらは室町期から鎌倉期、さらにそれ以前までさかのぼる高田村(ないしは下高田村)の名残りだと思われる。
 
 
 さて、明治以降の高田村(町)には1919年(大正8)に出版された『高田村誌』Click!(高田村誌編纂所)と、1933年(昭和8)に制作された『高田町史』Click!(高田町教育会)が残っている。両誌史の間には、大正中期から昭和初期へと14年の歳月が流れているのだが、改めて両者を比較するとたいへん興味深いことがわかる。掲載されている写真には、高田村(町)の同一箇所を撮影したものがいくつかあり、そのちがいを観察するだけでも面白いのだが、『高田村誌』と『高田町史』とを比べて、その編集方針や表現のちがいを見るのも面白い。
 おしなべて、『高田村誌』(1919年)は表現も平明でわかりやすく、誰が読んでも楽しめる村誌となっているのだが、『高田町史』(1933年)は表現がいかめしく、かなり気どった文体や権威的な文語調のいいまわしを多用する内容となっている。通常、このような地域誌史では、古い資料ほどもってまわって大げさにかまえた表現が多く、現代に近い新しい資料ほど平易で一般的な表現を採用している事例が多いのだが、『高田村誌』と『高田町史』はまったく逆のケースとなっている。そのちがいは、『高田村誌』が数多くの地元の企業や商店、住民たちの出資によって編集されたのに対し、『高田町史』は高田町教育会が編纂主体であることにもよるのだろう。
 『高田村誌』には、巻末に多くの企業や商店、工場、医院、弁護士事務所、研究所、牧場などの広告がみられ、また住民の中で普通選挙権を持つ納税者「衆議院議員並府会議員選挙人名」が付属しており、いかにも村民あげてのボトムアップ型村誌となっている。一方、『高田町史』のほうには広告がまったくなく、住民の紹介もほとんどないに等しい。歴史や旧跡、名所、伝承などを紹介する編集方針は同じなのだが、『高田村誌』は村民の“顔”が具体的に見えるのに対し、『高田町史』のほうは公式発表然としていて、町民の“顔”がいかめしい文章の間に隠れ、教育会のトップダウン型町史のおもむきを感じるのだ。ただし、歴史や伝承、名所・旧跡などの紹介は、『高田村誌』に比べてより充実していることは、付記しておかなければならない。


 
 このちがいは、先述の編集主体のちがいによるところが大きいのだろうが、もうひとつ、両誌史を比べると大きなちがいを感じとることができる。すなわち、『高田町史』では学習院Click!や日本女子大学Click!など教育機関の占める比重が、『高田村誌』に比べ圧倒的に増えていることだ。これは、高田町教育会が編纂しているから教育関連の紹介が手厚く、写真やページ数も増えているというレベルにとどまらず、高田町そのものを東京府の郊外文教地区として発展させていきたいという、町役場を含めた自治体全体の意向がハッキリ感じとれる内容となっている。
 また、別の側面としては、『高田町史』の巻頭グラビアに複数枚登場している学習院Click!の存在感が、大正期の『高田村誌』の時代に比べ、さらに大きくなっていたことがうかがわれる。皇族・華族の子弟が通う学習院の位置づけが、高田町においては昭和初期の時代背景とともに重要さを増し、それに付随して町史も“高尚”でいかめしく、『高田村誌』の方向性とは正反対の、どこか権威主義的な内容や表現へと変わっていったのではないか。
 ほぼ同時期に出版された周辺地域の町誌史、たとえば『戸塚町誌』(1931年)や『落合町誌』(1932年)の編集方針は、いずれも『高田村誌』の方向性に近似しており、むしろ『高田町史』が本の装丁や紙質なども含め、他の町誌史よりも高級感や“高尚”感を追求しているとみることもできる。
 
 
 これまで落合地域と、その周辺域の町誌史を眺めてきたのだけれど、もうひとつ下落合の北隣りに位置する長崎地域で、1929年(昭和4)に出版された『長崎町誌』を入手した。『長崎町誌』は、このあたりの地域では昭和期のもっとも早い時期に出版された、古書市場でも払底している町誌であり、他の町誌史との比較もまた興味深いのだが、それはまた、別の物語。

◆写真上:1919年(大正8)に出版された『高田村誌』(左)と、1933年(昭和8)の『高田町史』(右)。
◆写真中上:上は、『高田村誌』(左)と『高田町史』(右)に収録された雑司ヶ谷鬼子母神。下は、『高田村誌』(左)と『高田町史』(右)に掲載された旧・神田上水に架かる面影橋。
◆写真中下:上は、『高田村誌』掲載の四家(四谷Click!)町通り(現・目白通り)。中は、『高田町史』掲載の目白通り沿い空中写真で町役場や消防署などが見える。下は、『高田村誌』に紹介された日本女子大学の校舎(左)と田岡メリヤス工場(右)。『高田村誌』では、川沿いの地域性からか各種工場や研究所の紹介が多く、どこか高田町をあげて産業誘致をしているような趣きさえ漂う。
◆写真下:『高田村誌』に掲載された媒体広告で、小田鳥類実験所(上左)と日本養蜂場(上右)、澤藤電機工業所(下左)と北辰牧場の北辰社(下右)。



★鬼子母神会館(雑司ヶ谷3丁目512番地=現・南池袋3-4-5)