敗戦の翌年、1946年(昭和21)6月4日(水)に東中野駅と大久保駅間の神田川鉄橋で、大きな事故が発生した。いまでは、とうてい考えられない事故だ。この鉄橋は、下落合駅から南へ1,200mほどの旧・神田上水に架かっており、結婚式場・日本閣のすぐ東側に位置している。
 同日午前8時25分ごろ満員の通勤客を乗せて、たまたま鉄橋上にさしかかっていた中央線急行電車の前から4両目、進行方向(新宿駅方面)に向かって左側後部ドアの窓ガラスが、カーブの遠心力による乗客の圧力で窓ガラスごと吹き飛び、ドア付近にいた乗客たちがいっせいに旧・神田上水へ投げ出されるという惨事が起きた。運転士と車掌はこれに気づかず、電車が新宿駅に到着してから目撃した乗客たちの報告で初めて事故を知った。
 この事故で、いったい何人の乗客が外へ投げ出されたものか、目撃証言もまちまちで一定せずわからなかった。午前9時すぎに連絡を受けた東中野駅では、捜索隊を神田川(当時は旧・神田上水)へ派遣しているが、2時間後に学生服姿の中央大生(18歳)の遺体を、かなり下流にあたる下落合の清水川橋付近で収容している。でも、4日じゅうにはこれ以上の墜落者は発見できず、事態は深刻さを増していった。翌6月5日には、中央線の各駅員と保線要員40名を動員し、川面にモーターボートを浮かべて本格的な捜索活動が行われている。
 でも、同日も東中野から上落合、下落合あたりまでの流域で、墜落者の手がかりはまったく得られなかった。1946年(昭和21)6月5日に発行された、朝日新聞の記事から引用してみよう。
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 四日朝八時二十五分ごろ中央線吉祥寺発東京行の急行省線電車が超満員で東中野、大久保間の神田川橋上にさしかゝつた際、前から四両目の車両の後端左側のドアがカーブの遠心力で中側から圧されたゝめ羽目板とガラスが枠だけ残して飛び出し、乗客数名が河中に墜落、電車が新宿駅に着いたのち乗客の目撃者から車掌に報告された。東中野駅員保線区員が神田川沿岸を捜索したところ、十時ごろ高田馬場駅付近で学生服の死体一つを発見、(中略) ほかに行方不明の男女は二、三名ある模様で、目撃者の一人は男二、女一計三名といひ、他の目撃者は男三、女二計五名といひつきとめられないので河川筋を捜索中である。
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 戦前からコンクリートで護岸工事が行われ、水深も浅く流量もそれほど多くはない旧・神田上水にもかかわらず、墜落者が発見できないのはなぜか? あいにく、この年は梅雨入りが早く、降りつづいた雨により数日前から川は増水気味だった。東京鉄道管理局では、捜索範囲を思いきって下流域にまで拡げるとともに、警察へとどけられる中央線の利用者で、4日以降に行方不明になっている人物の特定を急いだ。すると、吉祥寺の女学生(18歳)と三鷹在住のOL(24歳)のふたりが4日に家を出たまま帰宅せず、家族が警察へ捜索願いを出していることがわかった。
 東中野駅の駅員を中心に、鉄橋から下流域で大がかりな捜索が行われていたのと同日、山手線・高田馬場駅では下落合の橋下で学生の遺体が見つかったことを受け、駅員を動員して川面を橋上から見張らせていた。すると、下落合方面から若い女性の遺体が流れてくるのを発見し、戸塚警察署の署員も加わって川沿いを必死で追跡している。でも、江戸川Click!(現・神田川)の始点にあたる旧・大洗堰Click!跡までくると流れが急に速くなり、遺体をついに見失ってしまった。
 当時、ドアが壊れるか開くかして、乗客が電車から振り落とされる事故はそれほどめずらしくはなかった。中央線の事故から2日後の6月6日、今度は満員の都電からふたりの女学生が振り落とされて死傷している。また、1946年(昭和21)には、すでに14名の乗客が電車から墜落して死傷していた。いずれも通勤通学時の満員電車で起きており、同年2月4日には総武線の錦糸町駅と両国駅の間で、2月23日には中央線のお茶の水駅で墜落による死傷事故が発生している。

 だが、中央線の事故が大ごとになったのは、墜落した乗客たち全員が増水した神田川へのまれており、なかなか遺体が見つからなかったからだ。翌6月6日の続報では、まだ中央大生ひとりの遺体しか収容されていない。また、墜落した人数もいまだ特定できず、車内に残された遺留品から4名~6名ぐらいと、曖昧な報道がつづいていた。同日の朝日新聞記事から引用してみよう。
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 四日朝満員省電の扉が破れ、東中野駅近くの神田川へふり落された乗客数名の死体は、二時間後に小関勉君(一八)が発見されただけで、東鉄では五日も中央線沿線の各駅員、保線員四十名を動員、日通のモーターボートも繰り出し、捜査中だが、同日夕刻までには依然他の死体はみつからない。(中略) 婦人一名の死体は駅員が引揚げそこなつてゐるので、結局、被害者は合計四名ないしは六名とみられてゐる。
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 結局、この事故で神田川へ墜落して死亡した乗客は、男性3人女性2人の計5名であることが判明したのは、さらに数日後のことだった。女性の遺体は、江戸川の大曲Click!まで流されて見つかっている。この遺体が、高田馬場駅近くの橋上から追跡された三鷹在住のOLだった。
 
 敗戦直後の電車は、戦争をくぐり抜けた古い車両も混じり、構造自体が木製で脆弱なため事故率が高かったせいもあるのだろうが、なによりもラッシュ時の混み方が並みではなかったのだ。「すし詰め」という言葉がピッタリなほど、通勤通学時間帯の電車は超満員だった。少しでも乗れる人数を増やすため、この時期の省線電車は車内に設置されていた手すりさえ外して運行されていた。だが、この事故を契機に、戦前と同様に車両の中央へ「つかまり棒」の列を復活させることと、ジュラルミン製の板を張って壊れやすいドアや、ガラスの窓枠を補強することが決定されている。

◆写真上:上流の万亀橋から見る、事故があった中央線の東中野-大久保間の神田川鉄橋。
◆写真中上:1946年(昭和21)6月5日に発行された、事故の様子を報じる朝日新聞。
◆写真中下:同年6月7日に事故の続報を伝える朝日新聞だが、中央線の事故があった2日後に、今度は満員の都電から女学生ふたりが転落して死傷する事故が発生している。
◆写真下:左は、東中野の鉄橋から流されてきた学生の遺体が見つかった、下落合の清水川橋から1955年(昭和30)に撮影された山手線の神田川鉄橋。右は、戸塚側の神田川水面から見た同鉄橋だが雨が降るとあらゆるものを押し流す滝のような急流Click!となる。