早稲田大学Click!の会津八一記念博物館Click!で、「早稲田をめぐる画家たちの物語」展が開催されている。会津八一Click!を支点に、下落合の中村彝Click!と曾宮一念Click!、そして小泉八雲Click!の三男であり里見勝蔵Click!や佐伯祐三Click!らとともに、ヴァイオリンのパートで“池袋シンフォニー”Click!にも参加していた小泉清などを紹介したものだ。そしてもうひとつ、取り上げられた画家たちは、会津八一が教師をしていた早稲田中学校Click!に在籍した共通項を持っている。
 会場は、同記念博物館の1階と常設展示のある2階の一部を使い、画家たちの作品やデッサン、書簡類などを展示していた。残念ながら、展示会場の撮影許可はいただけなかったが、非常に面白い視点からの展覧会だと興味深く拝見した。また、画家たちの軌跡が街に眠る「ものがたり」として紹介されている点でも、同博物館にはわたしと同様の感覚や視線をお持ちらしい学芸員の方々がおられそうで、とても親しみをおぼえる企画だった。
 早稲田や戸山ヶ原Click!の界隈で画家や美術家をテーマにすえれば、必然的に彼らが集中的に居住していた落合地域と長崎地域が大きくクローズアップされてくる。特に、会津八一がらみなので今回は落合地域が目立って大きく扱われており、下落合東部の近衛町Click!や中央部の目白文化村Click!に加え、下落合西部のアビラ村(芸術村)Click!が大きく取り上げられたのがとてもうれしい。しかも、落合地域全域を描きこんだ二つ折りのマップを、図録の最初に挿入していただいており、同図録やマップを手に落合地域とその周辺を散策するには最適で、ますますうれしい。
 
 佐伯祐三の制作メモClick!に残る「アビラ村の道」Click!や金山平三Click!の転居通知「アヴィラ村二十四号」Click!、そして、なによりも島津家Click!と東京土地住宅Click!が1922年(大正11)ごろ、おそらく共同で計画していたと思われる開発図面「阿比良村平面図」Click!に残るアビラ村(芸術村)の名称は、現在の地元・下落合でさえ限りなく影が薄くなっている。そういう意味で、下落合西部(現・中井2丁目)の街の成り立ち、地域のアイデンティティ的な基盤の底部を確認する意味からも、この名称が改めて取り上げられるのはとても意味深いと思う。
 先のマップで、ひとつ残念な箇所がある。それは、参考文献として挙げられているわたしの「目白文化村」サイトClick!のサエキくんマップ記事や、新宿歴史博物館の「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録(第2刷)Click!の修正直後に判明した、林武Click!の長崎地域における居住地の位置だ。きっかけは、南長崎でテーラー双葉を経営されている中沼伸一様Click!のお宅で2010年(平成22)9月、1925年(大正14)4月に作成された「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)の西部版Click!を発見し、その詳細な検討を通じて、長崎町における林武の住居Click!がハッキリしたからだ。
 長崎地域では、大正期から昭和期にかけ、短いサイクルで大規模な地番変更Click!がたてつづけに行われており、わたしも「佐伯祐三―下落合の風景―」展でご一緒した美術家の方も、すっかり地番変更の“ワナ”にひっかかってしまったのだ。造形美術研究所が建てられた、長崎町1938番地の300m北への移動ほどではないけれど、長崎村4095番地は1925年(大正14)から大正末にかけて150mほど移動していると思われる。「佐伯祐三-下落合の風景-」図録の第3刷では、ぜひ「ご近所マップ」(113ページ)を修正したい最優先の課題となっている。
 

 具体的には、「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録の012ページに掲載されている二つ折りマップ「目白・落合の地図」で、地図上部の「林武の家②(1925-26年)」と記載されている柿色の●ポイントだ。マップでは、現在の長崎バス通りと目白通りの二叉にある交番裏Click!あたりに林武の旧宅が収録されているけれど、実はバス通りをはさんだ反対側に拓けた住宅地、現・南長崎第二保育園の東側にあたるエリアが、1925年(大正14)4月現在の長崎4095番地だ。こちらでも、判明したあとすぐに報告記事Click!をアップしたのだが、あまり目立たなかったものか。
 「下落合及長崎一部案内図」の西部版には、同地番とともにすでに「林」の姓も採取されている。これにより、林武が上落合725番地界隈から長崎4095番地へ転居したのは、1925年(大正14)4月よりも前、かなり早い時期だったことがわかる。わたしのサイト、あるいは「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録に掲載の「佐伯祐三アトリエご近所マップ」に記載された林武旧宅は、大正末から昭和の最初期にかけて行なわれたとみられる、地番変更後の長崎4095番地だった。このあと、1930年(昭和5)にも再び大規模な地番変更が実施されており、長崎地域の地番表記は繰り返し大きく変わっていく。「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録でも、第2刷からぜひ修正していただければ幸いだ。
 余談だけれど、長崎地域の歴史を掘り下げて研究されている方は、数年ごとに大きく変わる地番表記に頭を抱えられているのではなかろうか。場合によっては、年単位ではなく月単位で目標物の地番を規定していかないと、同じ年でも途中からまったく異なる地番がふられているので、誤差を生じてしまう不安が常につきまとうことになる。わたしも、今後は大正初期から中期、大正末、昭和最初期、昭和5年前後、豊島区成立の昭和7年、「長崎南町」時代、そして「椎名町」時代と注意深く地番を観察していきたいと考えている。
 
 
 同展では、中村彝や曾宮一念と会津八一との交流について興味深いエピソード(ものがたり)が語られている。また、ここではいまだカバーできていない、曾宮一念と津田左右吉との深い交流など、興味深いテーマも取り上げられている。さらに、小泉清や内田巌についても同博物館秘蔵のめずらしい資料も含めて展示されていた。機会があれば、こちらでも改めてご紹介したい。「早稲田をめぐる画家たちの物語」展は、早大の会津八一記念博物館Click!にて11月10日(土)まで。

◆写真上:本学3号館が建て替え中なので、演劇博物館がめずらしい角度で眺められる。
◆写真中上:「早稲田をめぐる画家たちの物語」展の図録では、下落合が大きくクローズアップされている。特に、近衛町や目白文化村と並び、アビラ村(芸術村)の記載がうれしい。
◆写真中下:上左は、「佐伯祐三-下落合の風景-」展図録の「佐伯祐三アトリエご近所マップ」に記載の林武宅跡と正しい位置関係。上右は、「早稲田をめぐる画家たちの物語」展図録の「目白・落合の地図」に記載された林武宅跡と正しい位置関係。下は、1925年(大正14)4月11日作成の「下落合及長崎一部案内図」(出前地図)西部版に採取された長崎4095番地の林武邸。
◆写真下:上は、下落合にあった会津八一邸で下落合1296番地の霞坂秋艸堂Click!(左)と目白文化村の下落合1321番地にあった文化村秋艸堂Click!(右:旧・安食邸)。下左は、1953年(昭和28)に制作された小泉清『房総風景』。下右は、1960年(昭和35)におそらく常宿の江澤館Click!に滞在して描かれたとみられる曾宮一念『波太港沖の岩礁』。