昭和初期になると、下落合から新たに開発された現・杉並区各地の文化住宅街へと引っ越す画家や美術家の一群がいる。そのまま杉並へ落ち着いた画家もいれば、そこで死去した画家、あるいは落合地域が恋しくなったものか再びもどってくる人々もいた。そんな彼らが杉並で残した暮らしの痕跡を、散歩をしながらめぐってきたのでご紹介したい。
 1928年(昭和3)5月に、長崎町大和田1942番地から杉並町天沼287番地(現・杉並区天沼2丁目)へと引っ越して研究所を開いた画家に、1930年協会Click!の前田寛治Click!がいる。研究所の弟子たち(前田はモテたので女弟子が多かったようだ)は、中央線を荻窪駅で下車すると、北へ5~6分ほどダラダラ坂を上りながら前田のアトリエを訪れていた。天沼八幡社の境内へ突きあたると、右手(東側)の路地を入って右折した先の南西角地が天沼の前田写実研究所だった。敷地は広く、現在でも大きな邸が建っているので、前田の研究所も比較的大きな建物だったと思われる。前田寛治はこの地で病に倒れ、1930年(昭和5)4月に33歳の若さで急死している。特高警察Click!による顔面の殴打が、急速な病状悪化の遠因になっているのかもしれない。
 同じころ、1930年協会の里見勝蔵Click!と、同協会スポークスマンで哲学者であり美術評論家でもある外山卯三郎Click!は、ほとんどふたり同時に家を建てて引っ越している。里見勝蔵は、森田亀之助Click!邸の隣りにあった下落合630番地のアトリエClick!から井荻町下井草1091番地(現・杉並区下井草5丁目)へ、外山卯三郎は下落合1146番地の実家・外山秋作邸Click!から井荻町下井草1100番地(同)へ、新築の家を建てて引っ越している。ふたりの家の設計者は、F.L.ライトClick!の弟子である田上義也であり、ともに西武鉄道が造成した住宅地へ隣りの区画同士で家を建てて住んだ。この新興住宅地については、1927年(昭和2)3月に発行された貴重なパンフレット「西武鉄道沿線御案内」Click!(初版)にも、井荻駅のすぐ南側に収録されている。ゆるやかな南東斜面に建つライト風の両邸は、まだ田畑が多かった井荻町界隈ではよく目立ったことだろう。この新築邸に引っ越した外山卯三郎は、結婚したばかりの新婚家庭Click!だった。
 西武新宿線を井荻駅で下り、整然と区画整理された三間道路のダラダラ坂を南へ3分ほど歩くと、すぐに里見邸と外山邸にたどり着く。十字路はすべてスミ切りClick!がなされ、昭和初期の住宅地らしく築垣や縁石には大谷石が用いられている。すでに両邸とも存在していないが、現在でも閑静な住宅街の雰囲気はそのままだ。里見邸と外山邸のあたりが、ちょうど等高線が張り出した南向きの尾根上となっており、両邸から南へ500mほど下った谷間には、妙正寺川の湧水源である妙正寺池Click!が豊富な水量をたたえ、流れの源には「落合橋」が架かっている。
 里見邸と外山邸は、厳密には隣り同士ではなかったことが、1932年(昭和7)に杉並区が成立して、新しい町名や地番がふられたことから明らかになっている。『美術年鑑』によれば里見は杉並区神戸町116番地で、外山は杉並区神戸町114番地と、三間道路をはさんだ区画は確かに隣り同士なのだが、里見邸は東側区画の東角地、外山邸は西側区画の東角地と、両邸の間に別の敷地が1軒分はさまっている。ただし、初期のころは両邸の間に家がなく空き地だったせいで、「隣り同士」のような感覚だったと思われる。
★その後、外山卯三郎のご子孫でる次作様より、外山邸は空襲で全焼していることをうかがい改めて調べなおしたところ、1930年(昭和5)現在の井荻地図における地番表記の“誤り”と、外山邸および里見邸の位置が北へ数軒ずれていることが判明した。詳細は、こちらの記事Click!で。
 
 
 また、中央線の阿佐ヶ谷駅で下車し、線路に沿って北西へ5~6分ほど歩いたところに、第一文化村Click!北側の下落合1385番地のアトリエClick!から引っ越した、新婚時代の松下春雄Click!が住んでいた。扇状に拡がった道筋の杉並町阿佐ヶ谷520番地(現・杉並区阿佐ヶ谷北2丁目)、いまだ緑の多い路地の東北角に松下アトリエは建っていた。当時の地図を参照すると、520番地の敷地には家が3~4軒(おそらく借家)が建てられているのが見えるが、現在では1軒の大きな邸敷地となっている。阿佐ヶ谷駅の北側は、昭和初期から住宅街が形成されているのだが、すでにほとんどが新しい家に建て替えられており、当時の古い家屋はあまり見かけなかった。
 松下春雄は、阿佐ヶ谷520番地で1929年(昭和4)6月から、落合町葛ヶ谷306番地へアトリエを新築する1932年(昭和7)4月までの3年間をすごしている。阿佐ヶ谷時代のアルバム写真Click!を見ると、生まれたばかりの二女・苓子様が写り、隣家には大きな西洋館が写っているのが確認できる。ひょっとすると、写真にとらえられた隣接する西洋館が大家の住まいだったのかもしれない。このときの松下邸は和風だったらしく、縁側で撮影された家族写真も残されている。
 さて、落合と杉並を往還した画家ではないが、杉並町から落合地域へと引っ越してきた画家がいた。1932年(昭和7)の暮れに杉並町の自宅で特高に逮捕され、翌1933年(昭和8)暮れに市ヶ谷刑務所を出所すると、小林勇Click!の世話で上落合2丁目602番地へと転居した柳瀬正夢Click!だ。柳瀬の住居は、高円寺駅を降り南へ7~8分歩いたところ、杉並町馬橋229番地(現・杉並区高円寺南2丁目)のアパートにあった。アパートといっても、かなり狭く粗末な造りだったようで、柳瀬はイーゼルも立てられない暮らしをしていた。馬橋での暮らしの様子を、1996年(平成8)に出版された井出孫六『ねじ釘の如く 画家・柳瀬正夢の軌跡』(岩波書店)から引用してみよう。
 
 
 
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 大震災の難をさけて門司にもどっていた柳瀬は、帰京するとまもなく、下宿の娘青木梅子と馬橋のアパートに世帯をもった。/如是閑の義妹の山本きよ子がわけてくれた二個の茶碗と数枚の皿が、しばらくのあいだの主な家財であった。/柳瀬は本名の正六を嫌って自ら正夢と名を改めたが、なぜか妻の梅子という名も気に入らず、小夜子と呼ぶことにし、彼の友人知己は、それが妻の本名だと思っていた。(中略) 小夜子はまだ少女のおもかげを残してはいたけれども、貧乏生活を耐えることのできる姉さん女房のようなところをもっていた。/マヴォ第二回展が終ってみると、柳瀬はめったにパレットを手にしなくなったのを、小夜子は自分のせいかと気にやんだことがあった。六畳間にはイーゼルにカンバスをたてかけるような空間はなく、柳瀬は卓袱台にケント紙をひろげて、本の装幀ばかりするようになっている。(中略) 柳瀬の家計はつねに貧しく、ときに電灯代もとどこおって明りがつかない夜もあったが、小夜子の口からぐちのこぼれることはなかった。
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 柳瀬正夢が住んでいた場所は、ご紹介した5人の旧居跡の中でも、いちばん大きくさま変わりしている一画だ。高円寺駅の南口から、アーケード付きの商店街が南へ長く伸びているが、その延長線上に柳瀬の旧居跡は包含されてしまっている。いまでは住宅街ではなく、同一の石畳が敷かれ同じデザインの街灯が設置された、にぎやかな商店街(のつづき)になってしまっているのだ。だから、借家やアパートが散在していた、当時の様子を想像することがむずかしい。ちなみに、引用文で紹介されている小夜子(梅子)夫人は、このアパートで結核の病状が悪化し、柳瀬が服役中の1933年(昭和8)8月に帝大病院で死去している。
 ご紹介した5人の画家のうち、外山卯三郎は井荻の家から下落合1146番地の実家へともどり、松下春雄は1932年(昭和7)に落合町葛ヶ谷306番地にアトリエを新築Click!し、家族を連れてもどった。また、柳瀬正夢は1934年(昭和9)の早春より、松下春雄が建てたClick!(当時の地名・地番は西落合1丁目303番地)を松下の死後に借り受けて、上落合から転居することになる。ちなみに、外山卯三郎と松下春雄のご遺族は、現在でも同地を離れずに住まわれている。
 
 
 
 昭和初期、画家たちが落合地域から杉並へ転居したのには、いろいろな理由が想定できるけれど、落合地域から田園風景ののどかな文化村という風情が消え、東京の市街地とあまり変わらない繁華な住宅街へと変貌していったのも理由のひとつだろうか。借家住まいの画家たちは、家賃の急激な値上がりに耐え切れなくなったのかもしれない。また、1927年(昭和2)4月に西武電鉄Click!が開通したことで、沿線に西武鉄道による宅地開発Click!が進み、中央線沿線の新興住宅地ともあいまって、一種の「杉並ブーム」とでもいうべき現象も起きているようだ。画家たちは、安い家賃(地代)やより落ち着ける環境を求めて、杉並地域へ転居していったと思われる。

◆写真上:井荻町下井草1091番地(のち杉並区神戸町116番地)の、里見勝蔵邸跡の現状。
◆写真中上:上左は、1929年(昭和4)作成の「杉並町全図」にみる杉並町天沼287番地。上右は、同番地にあった前田寛治の前田写実研究所跡。下左は、前田邸のすぐ西側にある天沼八幡社の拝殿。下右は、天沼で見つけた昭和初期に建てられたとみられる和洋折衷住宅。
◆写真中下:上左は、1930年(昭和5)作成の「井荻町全図」にみる井荻町下井草1091番地と同1100番地。上右は、井荻町下井草1100番地の外山卯三郎邸跡。中左は、西武鉄道が開発した井荻駅前住宅地の大谷石によるスミ切り。中右は、同住宅地から南へ500mほどのところにある妙正寺池。下左は、1927年(昭和2)に西武鉄道が発行した「西武鉄道沿線御案内」にみる井荻駅南側の西武住宅地。下右は、1936年(昭和11)の「杉並区市街図」にみる神戸町の両邸。
◆写真下:上左は、「荻窪」1/10,000地形図にみる杉並町阿佐ヶ谷520番地。上右は、同地の松下春雄邸跡。中は、松下春雄アルバムから阿佐ヶ谷時代を写したもの。赤ちゃんは二女・苓子様で、隣家には大きな西洋館がとらえられている。下左は、1929年(昭和4)作成の「杉並町全図」にみる杉並町馬橋229番地。下右は、同地の柳瀬正夢が住んだアパート跡の界隈。