先日、みずから発明した「笠原手織機」Click!を使って、笠原美寿Click!が編んだニットのワンピースをお見せいただいた。写真で見るだけでは、織りの手ざわりや質感がわからないでしょう・・・と、わざわざ貴重な作品を孫の山中典子様Click!がお送りくださったのだ。美寿夫人が、下落合の晩年まで実際に着用していたもので、前裾にはストーブによる焦げ跡まで残っている。
 わたしは一度もお会いしたことがないのだが、どこか手織りの温かさとぬくもり感がこもり、美寿夫人の体温がじかに感じとれるような気がする作品だ。手織機で編んだニットの生地を、ワンピース(美寿夫人は「ホームスパン」と呼んでいたらしい)に縫い上げたもの。手織機というと、細い絹や木綿、麻の糸を織りこんでいく布を想像しがちだが、笠原手織機はセーターやマフラー、じゅうたんなども織ることができる汎用性の高い織機だった。1994年(平成6)に出版された、星野達雄『からし種一粒から』(ドメス出版)所収の、笠原美寿「笠原の手織機と基礎織」から引用してみよう。
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 織ってみると願い通り、ホームスパンはじめ、絹、木綿、麻、古いきれ、化学繊維、じゅうたんなど織りこなせます。織巾は六十センチ~九十センチまで織れる機台があります。以来木工所にこの見本通りのものを作らせ今日に至ったわけです。それは(昭和)三十二年頃でした。/以来、手織の希望者がありますので、私はお座敷教室を始め皆さんに大変よろこばれました。老人の孤独などよくいわれますが、私は孤独どころか毎日楽しく愉快でそして忙しく、いつの間にか十余年の月日が流れ、上から読んでも下から読んでも八十八という米の年を迎えました。(カッコ引用者註)
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 このあと、笠原美寿は身体が不自由な車イス生活を送る人たち向け、あるいは片手が不自由な人向けの、「レール式手織機」の開発にも成功している。足を使わず、手だけで織れる織機はいろいろあるが、より簡便で労力のいらない笠原手職機は当時、かなり人気が高かったようだ。
 
 星野美寿(笠原吉太郎Click!と結婚して笠原美寿)は、1882年(明治15)に群馬県利根郡利南村大字戸鹿野において、名主で沼田銀行頭取でもあった父・星野銀治と母・はまの間に長女として生まれた。兄弟姉妹は、美寿のほかに6人生まれている。母・はまは、美寿が16歳のとき36歳の若さで急死している。少女時代の美寿の様子を、笠原豊『笠原美寿の生涯』から引用してみよう。
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 小学校時代の美寿はお転婆で、強情な子で時々母にしかられて蔵に入れられたこともあった。小学4年頃から本好きになり、家にある本は手当たり次第に読み耽った。沼田市の升形高等小学校を卒業後、裁縫、機織りの稽古など娘としての修業に励んでいた。恵まれた少女時代であったが、突如不幸が襲った。それは美寿が16才の夏、母が突然の急病で、アッという間に帰らぬ人となってしまったのである。(中略) それからは、習い事どころではなく、母の身替りとなってキリキリ舞いで働いた。父の身の回りの世話、作男や女中を相手に養蚕の仕事など休む間もなかった。幸い2年後に父に後妻がが来て、やっと自分をとりもどすことができた。
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 美寿は18歳になると、東京の青山学院にあった女子手芸学校へ入学し、同学院でキリスト教教育を学んで洗礼を受けた。このあと、一度沼田へともどり家事を手伝いながら、桐生出身で当時は農商務省の技師だった笠原吉太郎Click!と見合いし、1904年(明治37)に結婚している。
 
 山中様から、お貸しいただいたものの中に、笠原吉太郎Click!が1942年(昭和17)5月の端午の節句に描いた「鐘馗像」があった。初めて実物を間近で観る、笠原吉太郎の描画の様子だ。墨と筆で、色紙へ一気に鐘馗像を描き、水彩絵の具か岩絵の具で顔に肌色をさしている。裏には、山中典子様の弟である常昭様にあてて、「贈/常昭節句を祝ひて/昭和十七年五月/笠原祖父」とある。初めて目にする、笠原吉太郎の肉筆だった。
 太平洋戦争がはじまったころから、笠原吉太郎は絵筆をとらなくなっていた。いや、“絵筆”ではなく笠原の場合はパレットナイフのみで描いていたようなので、ことさら筆を握るのはめずらしかったにちがいない。戦後は、ほとんどまったく絵を描くことなく、空いたアトリエをシュルレアリズムの画家・阿部展也などに貸していたようだ。だから、家族への記念作品とはいえ、笠原吉太郎が晩年近くに描いた“最後”のころの作品ということになりそうだ。
 もうひとつ、笠原吉太郎は油彩の洋画が専門であり、水彩画や墨を用いた日本画を残していない。にもかかわらず、「鐘馗像」は墨と水彩(顔料?)を使って描かれている。戦前のどこかの時点で、油彩画ばかりでなく日本画への魅力を感じ、さまざまな試作を行なっていたのではないか?・・・という想定も成り立ちそうだ。もっとも、フランスのリヨン国立美術学校意匠図案科では、油彩とともに水彩の勉強もしていたのかもしれないが・・・。それにしても、ずいぶん手馴れた筆致なので、この時期、ふだんから墨や筆を扱いなれていたと想定することができる。
 
 1954年(昭和29)に笠原吉太郎が死去すると、美寿夫人はそれまで温めていた企画を一気に展開しはじめている。「笠原手織り会」をはじめ、朝日新聞社の「草の実会」、地元下落合の「落合木の実婦人会」をはじめ、さまざまな工夫をこらした道具や製品を発明している。そこに通底する勤勉さや社会観、人間観は、実家の星野家に代々伝わるキリスト教の影響が色濃いと思われる。

◆写真上:笠原美寿が笠原手織機で織った、ニットのワンピース(ホームスパン)。
◆写真中上:左は、コンパクトな笠原手織機。右は、笠原美寿(右)と叔母の星野あい(左)。落合の南・東中野に住んだ星野あいは、1948年(昭和23)から長く津田塾大学学長をつとめた。
◆写真中下:美寿夫人のワンピース(ホームスパン)の、襟のリボンと織り目の拡大。
◆写真下:1942年(昭和17)に色紙へ描かれた笠原吉太郎「鐘馗像」(左)と裏面のサイン(右)。