昭和初期に、東京郊外を散策するちょっとしたブームが起きた。それは、いつか黒田初子Click!のところで書いた東京郊外(この時期の「郊外」はさらに外周域へと拡大していた)の山歩きハイキングClick!だったり、景観地や温泉地、名所などをめぐる“小さな旅”のような、ちょっとした手近で気軽な観光だった。そのためのサークルやクラブが、東京の街中にもいくつかできている。このようなブームが起きたのは、東京郊外に新興住宅街が増え、同時に、さらに外周域へと走る電車や乗合自動車の交通網が急速に整備されたからだ。
 先日、親父の書籍を整理したら、東京市大森区馬込町東2丁目1099番地に結成された、「旅の趣味会」の機関誌「旅の趣味」と、同編集部が1937年(昭和12)に発行した『東京探墓案内』が出てきた。年会費が50銭で、機関誌「旅の趣味」を毎月とどけてくれる、同好会的なゆるい組織だったようだが、機関誌および発行物ともにガリ版刷りの簡易なものだ。機関誌の用紙は薄く、まるで昔の花紙のような粗末な紙に印刷されている。
 また、出版されている本類もわら半紙にガリ版刷りで、昔ながらの和綴じの仕様をしている。価格も、送料込みで1円50銭とわりあい安価だ。いかにも、仲間うちでこしらえた手づくりの資料という感触がし、書店では手に入らないマニアックな情報誌となっている。
 昭和に入ると、東京郊外や関東各地への行楽が、一部の特権階級やおカネ持ちの趣味だけでなく、庶民の楽しみにまで普及しだしたことを示している。大正期は、いまだ郊外の行楽地や別荘地へと出かけるのは、華族を中心とする「上流階級」か、あるいはごく少数の資産家のみに限られていたのが、昭和に入ると大量に生まれたいわゆるサラリーマン層の形成とともに、「中流階級」と呼ばれた一般市民の間にも趣味が浸透してきたのがわかる。
 機関誌「旅の趣味」の誌面から、同会の結成の経緯やコンセプトの文章を引用してみよう。
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 「旅の趣味会」は毎月会報を発行し登山、ハイキング、温泉遊覧、ドライブ、見学、集会、出版等を催し趣味道に精進しております。会費一ヶ年五拾銭。振替東京四二四四四番「旅の趣味会」宛送付のこと。/誰人でも御旅行の場合には本会に特別の連絡のある機関を利用し、コース、旅館、費用其の他一切プランを無料で斡旋に応じますれば御照会を乞ふ。御報あれば参上して委細御相談に応じます。/旅の趣味会の行事は(ママ)集合目標はT・S・Kのバツヂによれば御購入を乞ふ。一個送料共金七拾銭/貴下の御尽力により一人でも我等の新しき同志の加名(ママ)を是非共御勧誘下さいまし
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 注目すべきは、昭和10年代ともなると「ドライブ」が行楽の中に登場している点だ。おカネをがんばって貯めれば、一般市民でも自家用車が手に入る時代になりつつあった。

 
 「旅の趣味」に掲載されている記事は、近々催される郊外旅行やハイキングなどの案内や、前回の催しに対する参加者の感想が多いのだが、中には郊外の住宅分譲地の案内までが載っている。たとえば、1938年(昭和13)9月1日に発行された「旅の趣味」43号では、板橋区(わたしは練馬区の誤りだろうと思ったのだが、コメント欄へ練馬区民さんからの情報が寄せられ、「板橋区」が正しいことをご教示いただいた)の武蔵野電車(武蔵野鉄道Click!=現・西武池袋線)桜台駅近くの不動産物件が紹介されている。駅からほど近く、坪単価が16円で330坪と土地もかなり広く、住宅にも商店にも向く物件として紹介されている。
 また、観光地の記念品や物品の販売も行なわれていたようで、同誌43号には「事変一週(ママ)年駅弁・二〇銭」と「事変一週(ママ)年エハガキ(陸軍省発行)・三〇銭」などと書かれている。「事変」とは1937年(昭和12)に起きた日中全面戦争(日華事変)のことだが、その1周年に発売された記念弁当を販売していた・・・とはとうてい思えない。当時の物流環境では、注文宅へ配達する前に中身が腐ってしまっただろう。おそらく、弁当の包み紙を頒布していたと思われ、当時から各地の駅弁に使われていたパッケージを集めるコレクターがいたのだろう。
 機関誌「旅の趣味」に掲載された散策へ、会員ならいつでも自由に参加できた。会員には専用のバッチが配布され、そのバッチを胸につけて催事の集合場所へ出かけていくのだ。もちろん、交通費も食費(弁当)も参加者の各自負担だった。
 

 同誌が発行されていたころ、親父はまだ千代田小学校Click!へ通学していた時分で、「旅の趣味」の会員になっていたとはとても思えない。おそらく、祖父母が同会の会員になっていて、東京ばかりでなく関東各地の“小さな旅”を楽しんでいたと思われる。ひょっとすると、その物見遊山に親父も参加しているのかもしれない。なぜ親父が、このような資料を保存していたのかといえば、おそらく同会が発行する『東京探墓案内』に惹かれたからだろう。
 『東京探墓案内』は、東京35区とその外周域に存在している、江戸期からの著名人たちの墓を総合索引付きで細かく網羅した、当時でもめずらしい書籍だ。1937年(昭和12)現在の墓と、所在地である寺院が紹介されているのだが、墓は早々に引っ越さないので親父はのちのちまで活用していたのだろう。わたしも同書で、いろいろとめずらしい情報を知ることができたのだが、中にはすでに改葬されて、記録されている当時の寺には存在しない墓もある。
 たとえば、落合地域の周辺でいうと1937年(昭和12)現在、南町奉行だった大岡越前守忠相Click!の墓は上落合にある落合斎場Click!の西側、上高田の功運寺Click!にあることになっているが、戦後の1960年代の初めに子孫が茅ヶ崎市堤の菩提寺・浄見寺へと改装してしまっている。同書を読んだ当初、功運寺で大岡の墓を見落としたものかと、もう一度出かけそうになった。
 
 「旅の趣味会」が、大森区馬込Click!に結成されたのも興味深い。大正期まで、大森は海岸の海水浴場とともに別荘地として拓けた土地柄だが、昭和期に入ると郊外住宅地として急速に開発され、いわゆる「中流階級」の住宅が建設されつづけることになる。おそらく、当初はそんな大森の住宅街で形成された散歩クラブかサークルが徐々に大きくなり、昭和10年代に入ると東京市全域をカバーする郊外散歩や、ハイキングを中心とする趣味の会へと発展していったものだろう。

◆写真上:1937年(昭和12)に撮影された、自家用車の広告用カラーフィルム。湘南のユーホー道路(湘南道路=国道134号線)でロケが行われ、遠景に高麗山と湘南平(千畳敷山)が見える。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)発行の「旅の趣味」第43号の表1と2ページで、ガリ版2色刷りなのがめずらしい。下左は、1937年(昭和12)に出版された佐々木庄蔵『東京探墓案内』の表紙。下右は、旅の趣味会が出した本の出版目録(1938年現在)。
◆写真中下:上は、冒頭写真と同じく1937年(昭和12)に撮影された広告カラーフィルムの1シーン。下は、江戸後期の物見遊山でも超人気スポットだった江ノ島(1934年撮影)。
◆写真下:左は、小旅行・ハイキングブームの中で1936年(昭和11)に地人社から出版された『大東京史蹟名勝地誌』の表紙。右は、ブームを背景にした地人社の出版目録(1936年現在)。