先に、1944年(昭和19)ごろに作成されたとみられる、防護団の落合第二分団名簿Click!をある方からいただいたが、その中に上落合1丁目443番地に「大熊友右衛門」という名前を見つけていた。もちろん、国会議事堂Click!の設計にたずさわった大熊喜邦Click!が一時期住んでいた場所を探していたので大熊姓には敏感になっていた。大熊喜邦は、おそらく昭和初期に麹町区へと引っ越しているが、その実家ないしは姻戚の家が上落合に残っていた可能性がある。
 わたしは、吉武東里Click!の子女でありいまもご健在の靄子様が、庭で採れた「落合柿」を近所に住む大熊喜邦Click!の家へとどけていたという証言を、長谷川香様Click!を通じてうかがっていたので、当時は落合第二小学校Click!(現・落合第五小学校の位置)へ通っていた小学生が、重たい柿を入れた包みを抱えながら出かけられる場所、すなわち吉武東里邸Click!から半径200m以内に大熊邸があったと想定していた。上落合1丁目443番地の大熊友右衛門邸は、上落合1丁目470番地の吉武邸から北へ50m足らずのところにあって、上記の条件に合致する。
 防護団名簿の警護班項目にある大熊友右衛門邸は、古川ロッパ邸Click!のすぐ北東側(現・上落合公園に隣接)で、鈴木文四郎邸の斜向かいにあたる家だ。小学生の幼い女の子をひとりで行かせても、往復に10分とかからない安心してお遣いに出せる、きわめて近所の家ということになる。吉武邸の西側にある接道へ出てから、北東へとカーブする道筋を20mほど歩けば、おそらく上落合1丁目443番地の大熊邸の屋根はすぐそこに見えていただろう。
 念のために、いまの住民明細地図を取り出して確認してみたところ、大熊様は現在でもそのままお住まいで、当主のお名前に「喜」の字がつけられていることも知った。さっそく、上落合へ日曜日にお訪ねしてみたのだが、主婦らしい方から「大熊友右衛門なんて人は知らない」といわれてしまった。おそらく、なにかのまちがいだろう。1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!の被害についてお訊ねしても、まったくご存じではないようだった。
 
 現存する大熊家から、防護団名簿に名前の載る同地番の「大熊友右衛門」さんのことをご教示いただけそうもないので、そちらからの直接取材をあきらめ、大熊喜邦関連の資料から名前をたどるしかなさそうだ。大熊家は、江戸時代に旗本をつとめていた家柄で、大熊喜邦が(もちろん親兄弟ないしは親戚もいっしょだったかもしれないが)上落合へ引っ越してきたのは、おそらく吉武東里が邸を建設する1920~1921年(大正9~10)ごろのことだったと思われる。
 それ以前の上落合は、妙正寺川に架かる寺斉橋Click!とその周辺に家並みClick!が見られるだけで、1921年(大正10)に吉武東里邸が竣工する、妙正寺川へと下る北向き斜面は一面、麦などの畑地Click!だった。同地周辺に家々の姿が見られるようになるのは、おそらく畑の地主が宅地造成をスタートしたとみられる大正中期以降のことだ。したがって、大熊喜邦が吉武邸の近くに越してきたものか、逆に大熊が住んでいたので吉武東里が近くに家を建てたものか、あるいは両人が相談してほとんど同時に住んだものか、その経緯は定かではないのだけれど、少なくともふたりが下落合2095番地の島津源吉邸Click!の設計をコラボレーションで手がける1920~1921年(大正9~10)の時期には、吉武東里だけでなく大熊喜邦も上落合にいたと思われるのだ。
 さて、なぜ大熊喜邦は上落合から、麹町区六番町へと引っ越しているのだろうか? 江戸末期の旗本・大熊家は、1858年(安政5)に発行された尾張屋清七版の江戸切絵図「東都番町絵図」(再版)によれば、裏六番町通りの南側に位置した角地に屋敷をかまえている。

 
 明治維新からしばらくすると、幕臣だった大熊家はおそらく土地家屋を明治政府に没収され、住みなれた屋敷からの立ち退きを命じられているだろう。明治後期には、住所表記が麹町区下六番町4番地と変更され、軍人で華族の小澤武雄邸、あるいは実業家の有島武邸の敷地の一部になっている。ちなみに、有島武の息子が小説家の有島武郎や里見弴、画家の有島生馬Click!だ。
 幕末に住んでいた当主の名前は、尾張屋清七の切絵図によれば「大熊鐸之助」という旗本だが、この人物が大熊喜邦の祖父にあたる人物だ。大熊鐸之助は、幕末に和宮付広敷番之頭をつとめた旗本であり、その役目の装束が江戸東京博物館に収蔵されている。大熊鐸之助の子息が大熊喜知であり、そのまた息子が大熊喜邦だ。
 もともと自邸が建っていた土地で、自身が生まれた屋敷でもあるので、大熊喜邦は当該の敷地を改めて買いもどしているとみられ、上落合から麹町区下六番町(現・千代田区六番町1番地)へと転居したときには、まさに幕末に大熊鐸之助の屋敷があった裏六番町通りの角の敷地、または同一の区画内にある近接した土地を入手して、新たな自邸を建設している。つまり、上落合へ住んでいたのは、彼にとっては最初から一時的な生活として位置づけられており、いずれは自身が生まれた故郷の地である、麹町区下六番町へもどるつもりでいた・・・ということなのだろう。
 
 大熊喜邦が上落合で暮らしていたとき、祖父・大熊鐸之助の兄弟、あるいは父・大熊喜知の兄弟、姻戚の人々ははたしてどこで暮らしていたのだろうか? そして、大熊喜邦とかなり年上のように思われる大熊友右衛門とは、なんらかの関係があったのだろうか。もし関係があるとすれば、大熊鐸之助と大熊友右衛門とはどのような関係だったものだろう? 大熊喜邦の資料に少しずつあたりながら、これからもぜひ追いかけていきたいテーマだ。

◆写真上:上落合1丁目443~44番地界隈の現状で、大熊友右衛門邸跡は左手の一画。
◆写真中上:1944年(昭和19)ごろに作成されたとみられる、「淀橋区防護団・落合第二分団名簿」の表紙(左)と、大熊友右衛門の名前が掲載された警護班のページ(右)。
◆写真中下:上は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる吉武東里邸(上落合1丁目470番地)と、50mほど離れた大熊友右衛門邸(上落合1丁目443番地)の位置関係。下左は、いまでは公園となっている上落合1丁目444番地。下右は、同公園前から吉武邸の方角を眺めたところ。
◆写真下:左は、1858年(安政5)に発行された尾張屋清七版の江戸切絵図「東都番町絵図」(再版)にみる六番町の旗本・大熊鐸之助邸。右は、大熊鐸之助の孫にあたる大熊喜邦。