房総半島(千葉県)の白浜や布良(めら)は、明治時代より多くの画家たちを集めた写生地として有名だ。下落合でいえば、たった一度ないしは数度しか出かけなかった佐伯祐三Click!や中村彝Click!のような画家もいれば、曾宮一念Click!や安井曾太郎Click!のように繰り返し毎年のように訪れては、いつも宿泊する定宿Click!を決めていた画家たちもいる。きょうは、それほど足しげく訪れていたわけではないが、初期代表作である1909年(明治42)に白浜で描いた『巌』(1909年)や、1910年(明治43)に布良(めら)で制作した『海辺の村(白壁の家)』Click!を残している中村彝と、いつも彝とは“ニアミス”を繰り返した歌人・若山牧水Click!について書いてみたい。ちなみに、中村彝と若山牧水は房総ばかりでなく戸山や大久保町、淀橋でも比較的近くに住み、戸山ヶ原Click!などの周辺域を散策していたと思われるのだ。
 若山牧水が早大英文科時代に下宿していたのは、穴八幡Click!(高田八幡)社に隣接した下宿だった。牧水は、そこから戸山ヶ原や落合地域を散策しては、武蔵野の風情を楽しんでいた。明治末の戸山ヶ原や落合地域での散策について書かれた『東京の郊外を想ふ』では、当時は近衛邸Click!の敷地内に設置されていた、御留山Click!の北側に切れこんだ谷戸の「落合遊園地」(のち林泉園Click!)や藤稲荷Click!、氷川明神社Click!などを訪れているのがわかる。彼の著作を読むと、ひとりで東京郊外を散歩しながら、武蔵野の面影とともに寂寥感にひたっていたように感じるのだけれど、牧水の散歩は多くの場合、実は美しいガールフレンドを同行していた。
 下落合を歩いたときも、『東京の郊外を想ふ』ではあたかもひとりで、もの哀しく寂しい風情を残した武蔵野を逍遥しているように書かれてはいるが、実はガールフレンドを同行しており、藤稲荷下や下落合氷川社の境内、あるいは蘭塔坂Click!(二ノ坂)を上がったところの小上Click!にあった水茶屋(喫茶店)で、団子でも食べながら休憩しているのかもしれない。
 園田小枝子と若山牧水との出逢いは、牧水が大学の夏休みに宮崎県の実家へ帰省し、そのついでに神戸の親戚の家へ一時的に滞在した、1906年(明治39)の夏のことらしい。そして、小枝子がいきなり牧水の下宿を訪れたのは、翌1907年(明治40)4月6日のことだった。小枝子は、東京で自活するために牧水を頼ってきたのだ。このときから、牧水と小枝子の武蔵野歩きがスタートする。おそらく、ふたりの武蔵野散策は、牧水が早大を卒業する前後までつづいていたのだろう。
 

 同年暮れから翌1908(明治41)の正月にかけ、牧水と小枝子は霊岸島から船で房総半島の尖端にある館山へとわたり、安房郡長尾村根本(現・南房総市白浜町根本)に滞在した。このとき、牧水と小枝子とは初めて結ばれるのだが、のちに歌集『別離』所収の作品を数多く詠んでいる。
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 ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま
 山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
 白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
 かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける
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 ふたりは連れ立って戸山ヶ原や落合地域、遠出をするときは荻窪や吉祥寺、日野あたりまで出かけているようだ。牧水は2つ年上の小枝子に夢中になり、結婚を申しこむが意外にも拒否されて愕然となる。世間的な常識の中で育った小枝子は、牧水の生活力のなさや頼りなさに結婚など考えられなかったのだろう。また、ふたりの関係が小枝子の東京にいる親戚に知られることとなり、彼女は自由に出歩けない環境に置かれるようになった。1909年(明治42)の夏、牧水はひとりで傷心を抱えながら、安房郡豊崎村布良(現・館山市布良)へと出かけている。すでに牧水も、自分を理解してくれない彼女に幻滅を感じはじめていたのかもしれない。
 一方、中村彝は結核の初期症状を治すため、療養を兼ねた写生旅行で1905年(明治38)から翌1906年(明治39)にかけて、頻繁に布良をはじめとする房総半島の海辺の町に滞在している。1908年(明治41)には、渋谷村豊沢の寺から大久保百人町に開店していた時計屋の2階へ転居し、付近の戸山ヶ原を散策しながら写生を繰り返していたようだ。ちょうど、牧水と小枝子が戸山ヶ原を起点に、あちこちを散策していた時期と重なる。
 
 1909年(明治42)の夏、日暮里1054番地(ほどなく日暮里1067番地へ転居)に下宿先を変えていた中村彝は、房総の白浜へ出かけ『曇れる朝』Click!や『巌』などを制作し、同年秋の上野公園竹之台陳列館で開かれた第3回文展に入選している。このとき、なじみ深い布良に滞在していた若い歌人のウワサを、彝は房総を海岸沿いに移動する画家仲間や、地元の話好きな住民から耳にしていたかもしれない。また、翌1910年(明治43)の春には、鶴田吾郎Click!とともに再び房総白浜を訪れており、鶴田から日本画家の川端龍子を紹介されている。
 同年の夏、中村彝は何度めかの布良を訪れ『海辺の村(白壁の家)』を制作し、その年の秋の第4回文展に入選している。同じ1910年(明治43)、若山牧水は園田小枝子との恋を詠った処女歌集『別離』を東雲堂から出版し、前田夕暮Click!の歌集『収穫』と並んで評判になった。文学界では、いわゆる「牧水夕暮時代」の幕開けだと讃えられている。ちなみに、結婚したばかりの前田夕暮もこの時期、西大久保201番地へ新居をかまえていた。
 彝と牧水のふたりが、明治末にすごした動線を地図に描いてみると、そのラインが非常に近似しているのに気がつく。ふたりは東京の、そして房総半島のあちこちで“ニアミス”を繰り返しているのだが、それは彝と牧水のみの共通線にとどまらず、当時の画家や文学など芸術家をめざす青年たちが、なにかを必死で求め行動した「青春の動線」とでもいうべき近似ラインなのだろう。
 
 ほどなく、牧水は淀橋町柏木54番地に住まいを移し、彝は淀橋町角筈12番地の新宿中村屋へ転居している。牧水が小枝子とともに憩いのときをすごしたと思われる落合遊園地(林泉園)の真ん前、下落合464番地へ彝がアトリエを建てて引っ越してくる6~7年ほど前の出来事だ。

◆写真上:1909年(明治42)制作の、白浜あたりを描いたとみられる中村彝『木立風景』。
◆写真中上:上は、若山牧水(左)と園田小枝子(右)。下は、1907年(明治40)の暮れから1908(明治41)の正月にかけて牧水と小枝子が滞在した長尾村根本(現・白浜町根本)の海岸線。
◆写真中下:左は、1906年(明治39)に戸山ヶ原を描いた中村彝『春の戸山』(水彩)。右は、1909年(明治42)に撮影された戸山ヶ原。彝と牧水は、ともにこの風景の中を散策していた。
◆写真下:左は、1909年(明治42)に白浜で描いた中村彝『巌』。右は、同年の『自画像』。

★中村彝アトリエ復元工事2012年12月14日