昭和の初期、「東京行進曲」Click!(作詞:西條八十)に「♪かわる新宿あの武蔵野の~ 月もデパートの屋根に出る~」と唄われた、きょうはその「武蔵野」について少し書いてみたい。国木田独歩Click!が、1901年(明治34)に『武蔵野』(民友社)を出版したとき、彼の頭の中で形成されていた武蔵野のイメージは、戸山から大久保、新宿、渋谷にかけての情景だったろう。でも今日、新宿や渋谷のことを、誰も「武蔵野」の風情が残る街などとは呼ばない。
 東京の西部を走る、山手線の内外地域が一般的に「武蔵野」と意識されていたのは、せいぜい昭和初期ぐらいまでだろうか。あるいは、神田や日本橋、京橋、銀座、本所、深川など江戸期からつづく市街地の“町殺し”Click!でへそを曲げた(城)下町人Click!たちが、1960~70年代ぐらいまで意図的にそう呼んでいたぐらいだ。戦後10年以上たって生まれたわたしの世代では、新宿や渋谷が「武蔵野」だとは到底思えないし、まったく感じられない。わたしの「武蔵野」感覚は、中央線沿線を中心にもっと西へ西へと移動している。
 先日、多摩湖Click!へ散歩に出かけたけれど、もはや多摩湖周辺も「武蔵野」と呼ぶには無理があるような状況になっていた。つまり、東京の人口が増え住宅街が西へ西へと拡がるにつれ、「武蔵野」の概念もそれにつれて西へと移動していった・・・ということなのだ。これは落合地域において、いつか書いた「バッケが原」Click!の西への移動にも似ている。西武電鉄Click!の開通とともに、住宅街が東から西へと押し寄せてくると、バッケが原は上落合から上高田へと少しずつ移動していった。「武蔵野」の概念もまったく同様に、若山牧水Click!が東京西郊を散歩して『東京の郊外を想ふ』を著したころから、おそらく30~40kmはゆうに西へズレているのではないか?
 
 
 
 1950年(昭和25)に書かれた大岡昇平『武蔵野夫人』(新潮社)では、すでに「武蔵野」は東京の23区を抜けて小金井Click!や国分寺が意識されている。今日、小金井市や国分寺市、あるいはそのものズバリの名称である武蔵野市の現代的でおシャレな街並みを、はたして本来の「武蔵野」というイメージで語れるかどうか、大いに疑問だ。もはや、街中から武蔵野原生林を探すのさえ、目的をもって意識的に散歩をしないとむずかしくなりつつある。ずいぶんあとまで、「武蔵野」の自然の面影を宿していた世田谷区の西部でさえ、いまや緑地を自治体が買収・保護して公園化しないと、雑木林が後世まで継承できない状況にまでなっている。
 先日、アルバムを整理していたら、たくさんの「武蔵野」写真が出てきた。ひとつは、親父のアルバムに挿みこまれていた1950年代の「武蔵野」の姿。もうひとつは、わたしが高校時代に歩きまわった1970年代半ばの「武蔵野」の写真類だ。1950年代の写真は、現在の小金井市から日野、世田谷あたりの情景であり、わたしが買ったばかりの一眼レフで撮影した写真は小金井市から国分寺市あたりの情景が多い。つまり、親父世代の「武蔵野」は同地域が意識されていたのであり、わたしの世代ではすでに「武蔵野」の“面影”を求めた散歩になっている・・・というちがいがある。
 
 

 現在、同じようなことをしようとすれば、親父はもっと東京西部へ出かけることになるのだろうし、わたしもせいぜい「武蔵野」の“面影”を探すには、電車を1時間以上は乗り継がなければならないのだろう。そのうち、車窓からの視界は多摩丘陵へと突き当り、結局は昔ながらの「武蔵野」らしい「武蔵野」を探し出せないまま、引き返すことになるのかもしれない。
 つまり、なだらかな丘陵地帯に拡がる見わたす限りの草地や雑木林の風情は、もはやとっくの昔に滅び幻影と化していて、行けども行けども住宅街が拡がる東京郊外の景色を眺めるだけに終わるのかもしれない。知らないうちに、「武蔵野」の実景はとっくのとうに滅びてしまい、冷んやりと静謐でさびしく、またどこか懐かしくてあたたかな焚き火の匂いが漂う「武蔵野」の風情は、いつまでも頭の中だけに活きつづけるイメージとして残っていくのかもしれない。
 目をつぶると、ときおりヒヨドリやショウビタキ、ツグミなどが鳴きかわし、こずえを晩秋から初冬の風がわたって落ち葉を散らす「武蔵野」の“音”を、いまでも東京のあちこちで聞くことができるのだが、目を開ければ公園や緑化保存区画の屋敷林跡、神社の境内杜だったりする。落葉樹の落ち葉焚きが、防火と有害物質の発生を理由に自治体の条例で禁止されてから久しい。
 
 
 いつだったか、五日市街道を化石採集しながら歩いた子どものころ、雑木林で遊んでいた地元の子たちと仲よくなり、親たちが「そろそろ帰ろうか」というのに聞こえないふりをして、2時間ぐらい遊んでいたことがあった。わたしが帰りかけると、いつまでも雑木林の樹上で手をふっていた子どもたちの姿を思い出す。そのときも、どこかで落ち葉を燃やす焚き火の匂いがしていた。

◆写真上:小金井のハケ下から畑地へと通う、「武蔵野」の典型的な雑木林の道。
◆写真中上:いずれも親父のアルバムから出てきた1955年(昭和30)ごろの「武蔵野」写真。上は、五日市街道(左)と武蔵小金井駅の北側にある小金井橋(右)。中は、小金井の桜橋付近(左)と小金井浄水場(右)。下は、府中の大国魂神社(左)と調布の深大寺近くに拡がる雑木林(右)。
◆写真中下:いずれも、1974年(昭和49)にわたしが撮影した小金井風景。上は、当時は未舗装だったハケの道。中左は、崖線沿いにつづくハケの風情。中右は、当時は生活排水による悪臭が問題化しはじめていた野川。下は、ハケの道沿いの典型的な雑木林風景。
◆写真下:上は、1955年(昭和30)ごろの小金井貫井弁天社(左)と現在の同社(右)。下は、同じく1955年ごろに撮られた世田谷にある徳冨蘆花の旧居跡(左)と現在の蘆花恒春園(右)。