代々の徳川家が、千代田城を出て江戸近郊で狩りをするのは、生類憐みの令Click!の5代将軍・綱吉の時代を除いては恒例行事化していた。将軍家に限らず、徳川御三家(紀伊・尾張・水戸)はもちろん、御三卿(一橋・清水・田安)も頻繁に近郊で狩りを催している。
 狩りは鷹狩りが中心だったが、田畑を避けてそこいらの野原や林で行われる狩場を、「放鷹」「御鷹野」「御鷹場」などと呼んでいた。これらの土地は、別に将軍家が直接管理している特別な場所ではなく、江戸郊外の村はずれだったり武蔵野の原野だったりと、狩りのとき以外は村人も自由に往来できるエリアだった。それに対して、将軍家直属の狩り場であり、付近の村人もいっさい立入禁止に指定されていた場所が、「御留山」「御留場」と呼ばれたエリアだ。
 下落合の「御留山」Click!は、下落合村の村民が立ち入るのはおろか、勝手に鳥や獣を獲ったり、樹木の枝葉を払ったり集めたりすることさえ禁止されていた。特に付近の村民たちが、小鳥を勝手に捕獲するのを禁じたお触れまでが残っているので、きっと将軍家による獲物が少なかった鷹狩りのあとに発令されたか、あるいは御留山に指定されているにもかかわらず、村人が入りこみ小鳥を獲っていくのが目に余るようになったからだろう。
 これに対して、一般の野原で行われた鷹狩りでは、村民たちがいろいろと気をつかい、獲物が少なくならないよう鷹狩りの前に鶉(うずら)を大量に放鳥したりしている。これは別に、村人の将軍家に対する忠誠心や親切心から出ているのではなく、将軍家が快適な狩りをすると村々へのギャランティも大きくふくらんだからだろう。大規模なイベントが開催されると、その地域に大きな現金収入があるのは、いまも昔も同じなのだ。
 でも、村々の農民たちは忙しい農作業の合い間をぬって、将軍家の鷹狩り準備や勢子(大勢の人間が一定の区画を包囲し、音を立てて獲物を追い出す役目)など、狩り当日の使役をしなければならず、鷹狩り開催のお触れが出ると名主や村人たちは、臨時の大きな現金収入に喜ぶと同時に、農作業のやりくりを心配しなければならず、痛しかゆしの思いをしただろう。では、将軍家が鷹狩りに村々を訪れることになると、どのような仕事が発生していたのだろうか?
 
 まず、「御場筋左右草刈」や「御道筋木之枝おろし」という仕事がある。これは、将軍家の鷹狩り一行が通過する道筋の両側を、見苦しくないように草刈りや樹木の枝払いをして、事前にきれいにする役目だ。また、同じような仕事で「御場古蘆刈」や「秡緑通草刈取」というのもあった。河川沿いに生えた蘆の枯葉を刈りとったり、狩り場の邪魔な小樹や草を払ったりする作業だと思われる。鷹狩り一行が道をまちがえたり、野原や雑木林で迷ったりしないよう案内板や標識、道しるべを建てる仕事もあった。「御伝板掛ヶ方梁杭打込御場拵」がそれで、将軍家の「御立場」Click!(展望台)があった御留山では、これらの作業に加えて御留山自体の手入れも発生しただろう。
 鷹狩り一行が、馬を休める場所も造らなければならず、「御馬繋杭仕立」や「諸色持送」がそれだ。馬の干し草や水、世話係などの仕事が発生している。さらに、一行を道案内するガイド役や、狩りに参加して獲物を追いたてる勢子役、一行にふるまう食事や茶菓などの手配と、近隣の寺院・名主宅での御膳所接待など、さまざまな雑役「諸案内向並勢子世話役」が発生している。狩りが夏であれば、焚いていぶす蚊やりの杉葉、汗を流す風呂には桃葉を用意するなど、村方は万事細かな気をつかっている。また、狩りのために臨時に設置した案内板や急ごしらえの厩場などは、一行が帰ったあとすべて撤去するのだが、その撤去作業費も幕府へすべて請求していた。


 こうして、とどこおりなく将軍家の鷹狩りが済むと、村々には少なからぬ現金が支払われる。御鷹野役所へ、狩りにかかった村の諸費用見積りを提出し、それに対して幕府勘定方から支払い日と支払い場所を指定する連絡が村へとどくことになる。
 落合地域では、御鷹野役所が設置されていた角筈村(現・新宿)まで、朝の五ツ半(午前9時ごろ)に受けとりに出かけることになる。下落合村の西隣り、上高田村の「堀江家文書」には、鷹狩りにかかった代金を角筈村へ受領しに出かけた、江戸後期の「請取証文」が保存されている。
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 御用急キ
 明後廿日角筈村において諸人足扶持米相渡候間触下町村 三渕持参同所ニ朝五半時相揃候様可申触候 不参の町村には渡方不相成候間不参無之様急度可申触候 萬一外御用等ニ而難罷出分も有之候ハバ右之書付ヲ以代請取之儀可申出候
 一、当朝五半時迄雨天小雨ニ而も同道之積ニ相心得事
 右の趣都而差支無之様可取計もの也
  十一月十八日   御鷹野/御役所(黒印)
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 大きな現金収入があるとはいえ、農閑期の冬場ならまだしも、農繁期の夏場に鷹狩りのお触れが出たりすると、村々では田畑の仕置きにアタマを抱えたにちがいない。待ったなしの農作業のやりくりに人を雇ったり、鷹狩り準備のために発生する準備作業は、使役が発生していない近隣の村々へ加勢を頼んだかもしれず、幕府からの支払金が丸ごと村人の臨時収入になったとは思えない。そのうちのいくらかは、臨時支出として村の外へ出ていったのではないだろうか?

◆写真上:御留山ピークにある四阿から、北側の急峻な谷戸方面を眺めたところ。
◆写真中上:左は、江戸後期に制作されたとみられる『鐘岱愛鷹之記』(部分)。右は、御留山の南側にあるバッケで右隅に見えているのは藤稲荷社Click!(別名・東山稲荷社)。
◆写真中下:上は、1786年(天明6)に駒場で催された巻狩りの様子を伝える『将軍家駒場鷹狩図』。下は、やはり江戸後期に板橋の徳丸ヶ原で行われた『鷹狩絵巻』(部分)。
◆写真下:財務省官舎が解体され、「おとめ山公園」の拡張工事が進む御留山の現状。