日本鉄道の品川~赤羽線が1885年(明治18)3月1日に開業したあと、1906年(明治39)に同鉄道が政府により国有化されると、1909年(明治42)12月16日には山手線Click!としては初の電車が走っている。もっとも、当時はいまだ環状線ではなかった。
 電車で郊外をグルリと走る山手線は、当初は通勤通学などに利用する乗客も少なく、むしろ東京市街地の住民には思いがけない“趣味”で人気があった。武蔵野Click!の面影を色濃く残した郊外をめぐる、静かな「月見電車」だ。電車の車窓から眺める新東京風景として、さっそく「東京電車八景」の名所選びまで登場している。当時、山手線の乗車賃は、かなりの区間を乗っても10銭余で済んだため、安く手軽に出かけられる郊外散策に人気が集まった。
 特に山手線で人気があったのは、神田停車場あたりを通過する車窓から遠望できる月夜のニコライ堂と、目白停車場Click!より新宿停車場Click!へと向かう車窓から眺める、明るくて冴えた月影だったようだ。当時は市街地にも高い建物や強い灯りが少なく、ニコライ堂の尖塔やドームのシルエットが月光に映え、美しく目立っていたのだろう。明治末の目白から新宿にかけては、これといった建築物はほとんどなにもない。上戸塚から諏訪ノ森、そして戸山ヶ原にいたるまでつづく雑木林が線路際まで拡がり、その樹間から見え隠れする月がことにキレイだったようだ。神田上水をわたる鉄橋上からは、川面にゆれる澄んだ月明かりが美しかっただろう。
 当時の山手線は1両運転のシンプルな電車で、座席数が52席、定員が96名のコンパクトな車両だった。月見ばかりでなく、雪が降ると市街地からの乗客数が急増し、「雪見電車」としても人気を集めたようだ。当然、車内には酒が持ちこまれ、まるで今日の“お座敷電車”か“宴会電車”のような様相をていしたらしい。また、当時の電車は、今日の山手線とは比較にならないほどゆっくりしたスピードで走っていただろうから、車窓からの風景もじっくり眺められたのだろう。
 落合地域から戸塚地域、戸山ヶ原Click!、大久保百人町Click!あたりにかけての月見は、なにも明治期に限った風流ではなく、江戸期の大田蜀山人(南畝)Click!が仲間うちで散策を楽しんだ時代から、すでに月見の名所として有名だった。でも、大正期に入り山手線沿線の宅地化が進むと、風流な山手線ブームは姿を消していった。今日の山手線からは、沿線に高層ビルが林立しているので夜空に月を見つけるのもむずかしい。ましてや、ビルの灯りやネオンサインが邪魔をして、月がまったく目立たなくなっているから、視線はしばらく夜空をさまようことになる。

 戸塚村からの請願で、1910年(明治43)に目白停車場と新宿停車場の間にもうひとつ駅が計画された。この駅の勧請も、あながち交通の便の向上ばかりでなく、大勢の「風流」客を想定した諏訪町や上戸塚の人々が、商業的な繁栄をあてこんでの企図も含まれたかもしれない。そのあたりの状況を、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)から引用してみよう。
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 当時新宿、目白間には停車場の設け無く、里人は専ら目白駅を利用する外に余儀なかつたが、明治四十三年九月十五日に至り、町民一致の請願と地主有志の献身的運動により、初めて開駅せられたのが現在駅の発祥である、之より先駅名を戸塚里民は上戸塚駅と欲し、然らざる者は諏訪之森と申請して、こゝにも地方意識を暴露したが、遂に天降りて高田馬場と名づけられ、本町の存在が爾来著しくユモアーさるゝに至つた。
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 ・・・と皮肉っぽく書いているが、駅名をめぐる地元と鉄道院の確執Click!を意識してのことだろう。
 実際に駅の設置が具体化してくると、地元では駅名をめぐる問題が持ちあがった。駅の位置は、戸塚村上戸塚にあるので「上戸塚停車場」あるいは「戸塚停車場」、ないしは駅の南に拡がる「諏訪ノ森停車場」が有力だった。でも、鉄道院が提案したのがなんと「高田馬場停車場」だったので紛糾したのだ。幕府の練兵場である高田馬場(たか<た>のばば)は、計画されている駅から東へ1km以上も離れた位置にある、まったく場ちがい筋ちがいの名称だったからだ。
 駅名に対する住民の反対はなかなか収まらず、ついに鉄道院は「高田馬場」は地名ではなく、鉄道院が構想した架空の駅名であり、幕府の「高田馬場(たかたのばば)」とはまったく縁もゆかりもない「たかだのばば停車場」だと逃げ、この駅名を強引に「天降りて」押しとおしてしまった。その余韻は、いまだに戸塚地域(特に名前をさらわれた下戸塚地域)の人々に残っており、地元資料の駅名に対するルビのふり方ひとつにも、当時の混乱や地元の怒りの名残りが感じられる。


 この駅名に関するいい加減なつけ方は、既設の目白駅にもいえていて、江戸期の関口近くにあった目白の地名位置と目白駅は、1.5kmも離れてしまっている。また、のちに高田馬場と新宿間の百人町に設置される駅名も、地元では当然「百人町停車場」を主張しているが、最終的には「新大久保停車場」という名称になった。大久保の中心地(西大久保・東大久保地域)から、やはり数百メートル西へずれている。しかし、「百人町停車場」に決まりかけていた時期もあったらしく、当時の地図を精査すると同駅を当初、「百人町」としているものを見つけることができる。
 「たか<だ>のばば駅」の設置について、1977年(昭和52)に出版された国友温太『新宿回り舞台―歴史余話―』の「駅名と地名」から引用してみよう。ちなみに、国友は戸塚地域のみならず新宿区各地をきめ細かに取材して歩き、緻密な調べと記録で同書を自費出版している。
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 駅の開設は住民の請願によるものだが、駅名を「上戸塚」、もしくは「諏訪之森」にしてほしいと申し出た。駅付近の地名である上戸塚、近くの諏訪神社(現存)の森にちなんだものである。だが、この案は通らず、国鉄は高田馬場と命名した。高田馬場とは江戸時代現戸塚一丁目にあった馬術練習場だが、明治以降は旧観を失い、しかも駅から一キロ以上も離れている。高田馬場は堀部安兵衛の仇討で有名だが、この仇討物語全くのデタラメだから、駅名のつけ方はちょっとピントがはずれた。しかしともかく、山手線の駅名中、地名を採用しない唯一の駅が誕生したのである。
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 少し前に、日本橋の蠣殻町にある地下鉄半蔵門線「水天宮前駅」が、水天宮の日本橋浜町への遷座後にどのような駅名に変わるのか?・・・と書いたけれど、駅名は絶対の存在ではない。山手線では、地元の社(やしろ)の名称をつけた烏森駅が、新橋駅へと変わった例がある。先の百人町停車場が、開業前後に急きょ新大久保停車場へと変更されたケースもある。山手線ではないけれど、中央線の柏木駅Click!が11年後に東中野駅へと変更された事例もある。
 
 
 万が一、架空でピント外れな駅名「高田馬場」が変更される機会があれば、ぜひ本来の地名を反映した「上戸塚」か「諏訪ノ森」にしてほしいと思う。それにしても、地名由来の駅名だと神田川(旧・平川=ピラ川Click!)沿いに展開する無数の古墳(百八塚Click!)がらみの富塚=「十塚・戸塚」への気づき、または出雲神の中でも特に勇猛なタケミナカタの諏訪社Click!にちなむことになるから、明治政府はひそかに怖れて懸念し、意図的に両地名を忌避したものだろうか?

◆写真上:月見客で、山手線がにぎわったと思われる満月の夜。
◆写真中上:目白駅と高田馬場駅の間にある、山手線と西武新宿線の神田川鉄橋あたり。
◆写真中下:上は、1965年(昭和40)撮影の高田馬場駅。下は、駅前広場が完成して間もない1971年(昭和46)6月23日に行われた山本豊市・作「平和の女神」像の除幕式。先日、豊島区の「としまアートプログラム」のトークイベントに参加したら、山本豊市の曾孫さんにお会いした。
◆写真下:上は、都電が廃止される1968年(昭和43)に撮影された高田馬場駅。駅前広場はなく、諏訪町の住宅や商店が建ち並んでいた。下左は、1970年(昭和45)の同駅で駅前広場ができかかっている。下右は、高田馬場駅を出て月見にはもってこいだった土手上を走る山手線。