昨年、新宿歴史博物館へ画像データとして保存された、山本和男・彩子様Click!ご夫妻がお持ちの松下春雄Click!アルバム(計3冊)だが、その精細なスキャニングデータをいただいたので順次ご紹介していきたい。大正末から昭和初期まで豊多摩郡落合町(村)葛ヶ谷Click!と呼ばれ、東京府の風致地区にも指定されていた一帯が耕地整理され、新たに淀橋区落合町西落合としてスタートした昭和初期の貴重な風景がとらえられている。
 まず冒頭の写真①は、落合町葛ヶ谷306番地、のちに西落合1丁目306番地(さらに303番地)の松下春雄邸+アトリエClick!を、北側の畑地から撮影したものだ。1932年(昭和8)8月3日に松下自身によって撮影されたとみられ、手前の畑地では付近の農民が作物の手入れ作業している様子がとらえられている。ちょうど松下がカメラをかまえている地点は、1938年(昭和13)ごろに道路が拡幅されて貫通するあたりだが、当時はその気配すら感じられない。畑地の左手(東側)には雑木林が残り、また松下邸の右手(西側)にも、背の低い林が見えている。
 北側から松下邸を観察すると、面白いことがわかる。母屋の右手(西側)には、北側に大きな採光窓を備えた独立したアトリエが見えているけれど、母屋の左手(東側)にも採光窓が設置され、アトリエがあったことがわかる。山本様の証言によれば、当初、松下は仕事場として左手(東側)に自身のアトリエを設置している。しかし、盟友の鬼頭鍋三郎Click!が東京へ出てくることになり、西側の空いた敷地にアトリエを建てさせてあげた・・・という経緯らしい。つまり、短期間だが左手(東側)が松下アトリエで、右手(西側)の独立した建物が鬼頭アトリエだった時代があった。東京へやってきた鬼頭は、寝泊りもこのアトリエでしていた時期があったらしい。鬼頭鍋三郎が、松下邸のアトリエで「牛」の素描を描いて仕事をしている様子は、以前こちらの記事Click!でもご紹介している。
 鬼頭鍋三郎が、松下春雄アトリエから東へ歩いて1分以内の西落合1丁目293番地Click!にアトリエを建てると、おそらく松下邸のアトリエを利用することはなくなっただろう。その時点で、双方のアトリエは松下春雄が使用していたと思われる。また、松下春雄の急死後、柳瀬正夢Click!にアトリエを貸すことになった1934年(昭和9)以降も、建物はそのまま同様の意匠をしていたと思われ、松下邸にはアトリエがふたつ設けられていたことになる。柳瀬は、アトリエのひとつを自身の画家としての仕事場に使い、もうひとつを仲間を集めた本の装丁やデザインなどの仕事をする、“編集室”のような部屋として活用していたのではないか。
★鬼頭鍋三郎の長男・鬼頭伊佐郎様より、松下邸敷地の鬼頭アトリエは1945年(昭和20)まで鬼頭鍋三郎が使用していたことをご教示いただきました。詳細はこちらClick!で。
 アルバムには、松下邸の周辺を撮影したと思われる、1933年(昭和8)2月13日の西落合風景が記録されている。まず、近くの原っぱで遊ぶ彩子様と苓子様をとらえた写真②③。これも松下春雄が、娘たちを連れて散歩に出た途中で撮影したものだろう。当時の西落合は、耕地整理の面影がいまだ色濃く残っており、三間道路が規則正しく東西と南北に敷かれたものの、このような原っぱがあちこちに残っていた。太平洋戦争がはじまるころ、西落合にはずいぶん家々が建ち並びはじめているが、少し遅れて耕地整理がスタートした妙正寺川Click!をはさんだ下落合の西側、上高田地域Click!は戦後まで原っぱが拡がり、「バッケが原」Click!という通称が戦後もしばらくつづいていた。1945年(昭和20)4月13日の空襲で、目白文化村Click!の住民たちが逃げたのも中井御霊社Click!から、上高田のバッケが原にかけてだった。
★その後、第一文化村と第二文化村は4月13日夜半と、5月25日夜半の二度にわたる空襲により延焼していることが新たに判明Click!した。
 

 
 松下邸とその周辺も、ていねいに撮影されている。まず、写真④は松下邸の門(バラのアーチ)からエントランスをとらえたものだ。1932年(昭和7)6月2日の撮影で、阿佐ヶ谷のアトリエClick!から落合地域の新築アトリエへもどって1ヶ月ほどたったころだ。表札の「松下春雄」の文字も真新しい。この写真は、実は柳瀬正夢一家が門前で記念撮影をしている写真と、画角がほとんどピタリと一致している。柳瀬の写真では、アーチにはモッコウバラと思われる蔦状の緑が繁っていて、かなり落ち着いた風情を見せている。松下アトリエにおける柳瀬一家の写真類については、柳瀬正夢研究会の甲斐繁人様を通じて柳瀬正夢のご遺族から承諾がいただければ、改めてこちらでご紹介したい。
 写真⑤は、少しピンボケ気味だが門前に建つ彩子様(右)と苓子様(左)だ。また、写真⑥は母屋の居間に面したテラスに立つ彩子様(左)と苓子様(右)が写っている。いずれも、門前の写真と同様1932年(昭和7)6月2日の撮影で、このとき松下春雄は新築した邸をいろいろな角度から撮影している。写真⑦は、翌1933年(昭和8)4月19日にやはりテラスで撮影された、少し大きくなった彩子様(左)と苓子様(右)だ。居間のテラスは南に面しており、庭で遊ぶ姉妹の姿がよくとらえられている。写真⑧は、同年4月29日に庭で撮影された彩子様。この日、淑子夫人が長男・泰様を出産したあと、西落合の松下邸に赤ちゃんを抱いてもどってきた日で、母親をすっかり赤ちゃんに取られてちょっとおかんむりの表情だろうか。
 

 
 写真⑨は、アトリエの採光窓を開けて換気している様子で、1933年(昭和8)6月19日に撮影されている。撮影された様子から、300号前後の大型キャンパスを搬出する南側の扉が開けられて空気を通している松下春雄アトリエ(東側アトリエ)のように思えるが、建築から間もない松下邸にあったアトリエの採光窓を近くからとらえた写真はめずらしい。柳瀬正夢の写真にも見あたらず、ほとんどこの写真1点のみだ。写真から推察すると、窓の上部が斜めに開閉し、天井窓にはカーテンのような遮光布が開閉できるようになっていたと思われる。
 写真⑩は、1933年(昭和8)6月に撮影された庭で遊ぶ彩子様で、松下邸前の三間道路を背にしている。写真⑪は、同じく同年夏に撮影されたテラスの彩子様で、昭和初期に流行った大きなキューピー人形がとても印象的だ。写真⑫は、新築の松下邸の庭を西側のアトリエ南側から、東のテラスや玄関の方向を向いて、1932年(昭和7)6月2日に撮影されたもの。先の写真④⑤⑥と同時に、松下春雄自身が撮影していると思われる。
 写真⑬は、南を向いた居間から庭で遊ぶ淑子夫人と彩子様(右)、苓子様(左)を写したもの。阿佐ヶ谷のアトリエから引っ越してきて4ヶ月後の、1932年(昭和7)8月3日に撮影されている。現在でも、この位置から東側には庭が残っており、山本和男様(彩子様の夫)の陶芸作品などが配置されている。また、写真⑭は、同じくテラスの前で1933年(昭和8)5月1日に撮影された松下一家。おそらく、近くに住む大澤海蔵か鬼頭鍋三郎Click!、あるいは松下家の女中が撮影していると思われる。わずか8ヶ月後の12月31日に、突然の急性白血病で松下春雄が急死Click!することになるなど、想像だにしえない家族の笑顔あふれる記念写真だ。右から左へ、彩子様・松下春雄・苓子様、生まれて32日目の泰様、そして淑子夫人の順だ。その後、生涯独身を通した淑子夫人は亡くなるまで、このような無心で幸福の笑みを浮かべることは少なかっただろう。
 松下春雄アルバムは、主に3冊に分けられて記録されている。赤い柄の布表紙のものは、おもに西落合時代(1932年4月~1933年12月)と阿佐ヶ谷時代(1929年6月~1932年5月)が少し、女性と動物たちの絵が入ったグレーの布表紙は、下落合時代(1925年~1929年6月)と阿佐ヶ谷時代、黒い革表紙のアルバムは“通史”的な写真掲載で、松下春雄や渡辺淑子(結婚して松下淑子)の独身時代の写真も数多く含まれている。

 
 おそらく、上屋敷(現・西池袋)で渡辺医院Click!を開業していた親の反対を押し切り、生活が不安定な画家と結婚したと思われる渡辺淑子については、その筋をとおす毅然とした気性と強い性格から、落合地域に住んだ画家たちの妻の中では、松本竣介Click!の禎子夫人Click!とともに、もっとも惹かれる女性なので、改めてひとつの記事にまとめてみたい。次回は、松下春雄が詩人・春山行夫や洋画家・大澤海蔵と住んだ下落合1445番地Click!の鎌田方の様子、そして結婚後に目白文化村は第一文化村の北側、落合第二府営住宅Click!に接した下落合1385番地Click!のアトリエの様子を、貴重な写真類とともにご紹介したい。

◆写真上:新築間もない西落合の松下邸+アトリエだが、アトリエが東西にふたつあり左手(東)が松下春雄アトリエで、右手(西)が鬼頭鍋三郎アトリエ(一時)だった。
◆写真中・下:松下アルバムに残る西落合アトリエの写真類と、1947年(昭和22)の空中写真にみる撮影ポイント。築15年が経過した松下邸の庭には、濃い緑が繁っているのが見てとれる。