先日、江戸時代から1958年(昭和33)までの1月22日に起きた出来事を整理した、データカードの束をいただいた。友人が父親の遺品を整理していたら、仕事で使われたのだろうか膨大な歴史記録カードが出てきて、1月22日の項目に整理されていたカードをくださったのだ。おそらく、大量のデータカードを管理する、小引き出しのついた図書目録カード仕訳器のようなものに保存されていたのだろう。1月22日は、わたしの誕生日だ。
 そのカードを見ていたら、いろいろと昔の情報整理のしかたを思い出してしまった。手軽なRDBMS(リレーショナル・データベース管理システム)など存在しなかった時代の、思いっきりアナログなカード整理の方法だ。わたしの親父も、盛んにカード整理をしていた。仕事で使っていたらしいが、家庭で趣味や遊びのほうにも活用していた。小さなカードに、テーマ別のインデックスを貼付し、菓子などの空き箱で作ったカード整理箱へ並べていくのだ。
 親父が作っていた整理カードは、東京の街々にある史跡や記念物の情報をはじめ、都道府県別に旅行した旅先の情報、読んだ本で気になった箇所の忘備録、寺社に安置されている美術品および開帳日・祭事の情報、芝居や能(謡曲)の作品情報、これから読みたい本…などなど、テーマ別に分かれたさまざまなカードだったように思う。箱に並べられているカードは、すでに整理されたもので検索ができるように仕分けがなされていたが、未整理のカードはこれまたテーマ別に分けられたベージュの大判図面袋に入れられ、本棚にたくさん並んでいた。おそらく、勤めていた役所Click!でも同じように図面整理や情報整理をしていたものだろう。
 もうひとつ、整理カードでは思い出すことがある。わたしが最初に勤務した職場では、研究員が盛んにハドソン・パンチカード・システム(ないしはケルン大学パンチカード・システム)を使って、統計的な処理を行っていた。日本で初めて、NECから日本語ROMを搭載した16ビットPCClick!(PC-9801無印)が発売されたころで、すでに簡単なカード型DBないしは表組型DBのアプリケーションが発売されていたはずだ。でも、その研究員は統計分析に、手馴れたパンチカードを使っていた。当時のPCは、記憶装置やプリンタまで一式そろえるとなると、高級コンポーネントオーディオが買えるほどの値段だったので、なかなか導入してもらえなかったのかもしれない。
 わたしは、かなり年上だったその研究員と話したり、カード検索の様子を見ているのが好きだった。分厚いカードの穴に、いくつかの横串(金属棒)を挿して空中でゆすると、パラパラと検索から外れたカードが落ちるという、まことに原始的なしくみだった。それを何度か繰り返し、最後まで金属棒にひっかかるカードが、最終的に選ばれた情報あるいは選ばれた対象物ということになる。研究員の周囲には、そんなカードを詰めた箱がいくつか積み上げられており、「どうやら、有意の差はなさそうだな」…というのが彼の口ぐせだった。でも、ちょっと考えてみるとおわかりのように、金属棒を繰り返し何度も挿しては使用するので、パンチカードの穴が破れ、落ちてはいけないカードまでが落下してしまったり、ふるいにかけるとき落ちるべきカードがそのまま棒にひっかかって落ちなかったりと、いまから見ればアナログならではの大雑把さが微笑ましい「システム」だった。
 
 もうひとつ、カードが大量になると金属棒も比例して長くなり、重くてふるいにかける作業もたいへんだ。ひとりで、全身を使って踊りながら検索作業をしていたりすると、「〇〇さん(研究員の名前)、とうとういっちまったかな?」などといわれかねないので、「ちょっと、キミ手伝ってくれないか?」ということになる。カードの重量が増せば、それだけ1枚のカードにかかる圧力も増すわけで、ちょっとやそっと揺すっただけでは、なかなか落下しない。それに、パラパラと落下したカードを集めて元どおりにそろえるのも、けっこう手間のかかる作業だった。
 こうして、この種の整理カードや検索カードは、図書館の目録カードなどを除いては絶滅危惧種になってしまったけれど、久しぶりに目にした整理カードからいろいろな思い出がよみがえってきた。その昔、野毛にあった「ちぐさ」の吉田衛おじいちゃんClick!をまね、英文タイプを使って所有するLPレコードのディスコグラフィーを作っていたが、カードではなく2穴のバインダー形式のものだった。枚数が1,000枚を超えたころから、急に面倒になりやめてしまった。すでにPCのDBアプリが発売されていたが、また同じタイピング作業をしなければならないかと思うとうんざりで、二度と再びディスコグラフィーを作ろうなどとは思わなかった。親父を見ていても感じたのだが、おそらくこの手の整理術に、わたしはどこか性格が向いてないのだろう。
 書籍類は別にして、図書館や公文書館、資料室などでコピーした落合地域に関する膨大な資料やデータ類は、できるだけ画像化してPCあるいはクラウド上で管理するようにしているけれど、紙資料のままのものもたくさんあるのでファイリングすることになる。テーマ別や時代別に整理するのが当然なのだろうが、なかなか忙しくてそこまで手がまわらない。しかたがないので、ここでの記事に使用した“時系列”でクリアファイルに分別してまとめ、ファイルボックスに収容することにしている。つまり、記事の日付を見れば、その資料が入ったファイルボックスをおおよそ特定することができる…という、非常にいい加減なしくみだ。
 すでに、分厚いファイルボックスは12箱を超えているが、袋に入れただけの資料やバインダーに閉じただけのもの、段ボール箱に平積みの資料などもあちこちに散在している。むしろ、未整理の資料のほうが圧倒的に多くなっているのだ。こういう状況を見ると、ほんとうに樹木やパルプ資源がもったいないと感じるので、どのような書籍や資料でもいったん紙に出力せず、電子データのみで一気通貫的に完結し、利用できるしくみの時代が早く来ないだろうか。
 
 最後に、いただいた歴史記録カードから、いくつか1月22日の出来事をピックアップしてみよう。
・1862年(文久元)1月22日(旧暦12月23日)
 福沢諭吉、箕作秋坪、寺島宗則(以上翻訳方)、福地桜痴(通弁)ら、遣欧使節に随行して品川を出帆。仏・英・蘭・普・露・萄を回り、文久2.12.10品川帰着
・1887年(明治20)1月22日
 東京電燈会社、移動式石油発電機を使い、鹿鳴館で白熱電灯を点灯(電燈営業の初め)
・1893年(明治26)1月22日
 歌舞伎狂言作者 河竹黙阿弥忌、浅草の鳥越座(旧中村座)焼失
・1905年(明治38)1月22日
 外相小村寿太郎、駐米公使高平小五郎に対し、講和問題に関する日本政府の意見を米大統領に伝えるよう訓令
・1916年(大正5)1月22日
 陸軍飛行船雄飛号、所沢・豊橋・大阪間飛行に成功、
・1921年(大正10)1月22日
 静岡県清水で、県水産試験場と漁船間に、初めて漁業用無線通信開始
・1922年(大正11)1月22日
 モスクワで開催の極東民族会議に片山潜、高瀬清、徳田球一ら出席
・1929年(昭和4)1月22日
 ナップ成立に伴い、日本プロレタリア美術家同盟[AR]結成
・1946年(昭和21)1月22日
 元板橋造兵廠で、大量の隠匿物資発見、人民管理で市民に自主配給、問題化
・1947年(昭和22)1月22日
 ヤミ取締のため、東海道線に武装警官警乗
・1958年(昭和33)1月22日
 日本初出席の国連安保理事会で松平代表は拒否権乱用を慎めと初演説
 
 手書き、または記事の貼りつけでていねいに作られたカードだが、実際に維持・管理をされるのはスペースの問題も含めてたいへんだったろう。この種のデータは、画像も含めDB管理が容易になったけれど、世の中のスピードもそれに合わせあらゆる面でケタ違いに加速しているので、「データ管理の効率化=生じた余裕は他業務に専念」とはいかないのが、この世界のならいなのだ。

◆写真上:いただいた「1月22日」に関する、貴重なデータカードの束。
◆写真中上:左は、既定の項目ナンバーの穴を拡げて検索するハンドソートパンチカード。右は、スイスのケルン大学が開発した似たようなケルンパンチカードシステム。
◆写真中下:左は、1949年(昭和24)にIBMが発売したパンチカードソーターシステム。右は、電子データ化していない紙資料は超アナログファイリングシステムへ。(爆!)
◆写真下:いただいた「1月22日」カードのうち、1893年(明治26/左)と1914年(大正3/右)。