1941年(昭和16)12月8日の早朝、「帝国陸海軍ハ今八日未明 西太平洋ニ於テ米英軍ト戦闘状態ニ入レリ」という、ラジオの大本営陸海軍部発表による臨時ニュースで起こされた方々は、落合地域にもたくさんおられるだろう。当時、反戦を公然と唱える人間は特高Click!や憲兵隊Click!により獄につながれ、「亡国」思想や「愛国」感情が席巻するなか、事実を論理的にとらえクールに直視する言論は、ことごとく統制・圧殺されていた。
 海外事情や情報に精通している人物ほど、「これはダメだ、バカなことを…」とひそかに絶句しただろう。下落合679番地(のち680番地)に住んでいた政治学者であり歌人の南原繁Click!もそのひとりだ。南原繁は12月8日の日記に、次のような3首の短歌を絶望感とともに書き残している。
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 人間の常識を超え学識を超えておこれり日本世界と戦う
 日米英に開戦すとのみ八日朝の電車のなかの沈痛感よ
 民族は運命共同体といふ学説身にしみてわれら諾はむか
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 陸軍士官学校(陸軍航空士官学校=以下「陸士」)では、12月8日から間をおかずに真珠湾攻撃の模様を撮影した、海軍報道部の写真が配布(有償)されている。少し前に記事Click!を書いた、1942年(昭和17)前半における戦闘写真の、3~4ヶ月前にさかのぼる写真で順序が逆になるが、報道のメディアを通じて流布された印刷画像とは異なり、ネガから焼かれた精細な写真なのでご紹介しておきたい。これらの画像は、当時の新聞や雑誌に掲載されたものが多く、また現在でも歴史本や教科書に載っている有名な写真ばかりだ。
 写真①は、海軍航空隊による雷爆撃を受けつつある、真珠湾に停泊していた米太平洋艦隊の主力艦群だ。おそらく、当時の新聞やグラフ誌を読んでいた方は、それぞれの艦名をすべてそらんじておられるのではないだろうか。画面左から、戦艦「ネバダ」、戦艦「アリゾナ」(内側)と工作艦「ヴェスタル」(外側)、戦艦「テネシー」(内側)と同「ウェストバージニア」(外側)、戦艦「メリーランド」(内側)と戦艦「オクラホマ」(外側)、そして画面右端に艦尾が見えているのが給油艦「ネオショー」だ。これらの主力艦は、ほとんどが沈没(沈座)や大破の損害を受けている。
 写真②は、フォード島の北側に停泊していた艦船で、左から軽巡洋艦「デトロイト」と同「ローリー」、すでに転覆しているのは標的艦「ユタ」、右端が水上機母艦「タンジール」だと思われる。左端の「デトロイト」は、機銃掃射のほかに雷爆の被害を受けてはおらず、また機関の火を落としていなかったため、攻撃とともに出航準備をはじめている排煙の様子までがとらえられている。



 写真③は、おそらく九七式艦上攻撃機による水平爆撃の様子を撮影したもので、二連装の250キロ爆弾が並んで投下されている様子がとらえられている。爆弾の先には、この水平爆撃で大爆発を起こして沈没する、激しく炎上中の戦艦「アリゾナ」の姿が見える。左端にいる戦艦「ネバダ」も機関を停止しておらず、港外へ脱出するために大急ぎで出航準備をしているのだろう、煙突からの排煙と思われる影がとらえられている。
 写真④⑤は、海軍航空隊が攻撃をはじめた直後に撮影された、もっとも有名な写真だ。写真④は、写真①の主力艦群を斜めフカンから撮影したもので、手前より戦艦「ネバダ」、戦艦「アリゾナ」(内側)と工作艦「ヴェスタル」(外側)、戦艦「テネシー」(内側)と同「ウェストバージニア」(外側)、戦艦「メリーランド」(内側)と戦艦「オクラホマ」(外側)、接岸中の給油艦「ネオショー」、そして右端には戦艦「カリフォルニア」がとらえられている。遠景で炎上しているのは、日本軍の爆撃を受けるヒッカム空軍基地だ。写真⑤は、画家の藤田嗣治Click!が1942年(昭和17)に制作した『十二月八日の真珠湾』のベースとなった、戦艦「オクラホマ」に魚雷が命中した刹那のもの。
 写真⑥⑦⑧は1941年(昭和16)12月10日に撮影された、あまりにも有名なマレー沖海戦の写真だ。陸士ことに航空士官学校では、陸軍の九六式陸上攻撃機も参加した作戦だったため、大々的に喧伝された写真ではないただろうか。写真⑥は、社会科の教科書にも載っていた、爆撃下の英東洋艦隊(Z部隊)の戦艦「プリンスオブウェールズ」(上)と巡洋戦艦「レパルス」(下)で、写真⑦⑧は各艦の拡大写真だ。現役で作戦行動中の戦艦が、初めて航空機のみの攻撃で撃沈された戦闘であり、航空機の軍事的な優位性を決定づける海戦でもあった。画家の中村研一Click!が1942年(昭和17)に制作した『マレー沖海戦』では、画面に描かれていたのが海軍の一式陸上攻撃機のみだったため、航空士官をめざす陸士の学生たちは悔しがったのではないかと思われる。


 街では「勝った勝った、また勝った!」と浮かれ、あちこちで提灯行列が行なわれているさなか、刹那的な感情に押し流されず、懐疑的な視座を失わなかった人々は、どのような生活を送っていたのだろうか。「偏奇館」の永井荷風が書いた、『断腸亭日乗』(岩波書店)から引用してみよう。
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 十二月八日
 褥中小説『浮沈』第一回起草.哺下土州橋に至る。日米開戦の号外出ず。帰途銀座食堂にて食事中燈火管制となる。街頭商店の灯は追々消え行きしが電車自動車は灯を消さず。省線は如何にや。余が乗りたる電車乗客雑踏せるが中に黄いろい声を張上げて演舌をなすものあり。
 十二月九日
 くもりて午後より雨。開戦の号外出でてより、近鄰物静になり来訪者もなければ半日心やすく午睡することを得たり。夜小説執筆。雨声瀟々たり。
 十二月十日
 雨歇み午後に至って空霽る。
 十二月十一日
 晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後徃きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日のごとく、不平もなく感激もなく無事平安なり。余が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは堯舜の民の如し。仲見世にて食料品をあがなひ昏暮に帰る。
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 わたしが子どものころ、近所の友だちから「軍艦じゃんけん」を教えてもらったのを憶えている。「軍艦、沈没、ハワイ」と、じゃんけんのグー・チョキ・パーを使った他愛ない遊びなのだが、このバリエーションは日本海軍による真珠湾攻撃の直後に生まれたのだと、まもなく気がついた。おそらくその友だちも、1941年(昭和16)には小中学生だった親から教えてもらったものだろう。

◆写真上:1942年(昭和17)に制作された、藤田嗣治の『十二月八日の真珠湾』。
◆写真中上・中下:陸軍航空士官学校で配布(有償)された、1941年(昭和16)12月8日の真珠湾攻撃の記録写真。八つ切りの印画紙に焼かれ、画面は驚くほど鮮明だ。
◆写真下:上左は、同じく陸士で配布された陸軍航空隊も参加しているマレー沖海戦の記録写真。陸海軍の航空隊による空爆下の、戦艦「プリンスオブウェールズ」(上右)と巡洋戦艦「レパルス」(下左)。下右は、1942年(昭和17)に制作された中村研一『マレー沖海戦』。