今年、新宿歴史博物館Click!に1926年(大正15)に制作されたとみられる、佐伯祐三Click!の静物画『鯖』が収蔵された。佐伯夫妻が、第1次渡仏からもどったばかりのころだ。新宿歴博には同時に、佐伯祐三の素描『林檎』も収蔵されたが、こちらは若描きのデッサンのようで学生時代、あるいはもっと以前の作品なのかもしれない。
 佐伯の静物画には、カニやカモ、蔬菜Click!などを描いたものがあるが、サバは判明しているだけで2点現存しており、佐伯の好きなモチーフだったのだろう。サバの微妙な体色や模様、青魚ならではの独特な“てかり”が気に入ったのだろうか。歴博のサバ作品とは別に、1925年(大正14)ごろに制作されたとされる『鯖』もあるが、時期からして佐伯夫妻はいまだパリに滞在中で、もうひとつの『鯖』作品も帰国してから、1926年(大正15)にアトリエで描いたのではないだろうか。
 佐伯家が魚を注文していたのは、どこの魚屋なのか?・・・というのがきょうのテーマだ。佐伯アトリエの近くには、目白通りに面して魚屋が2軒、店開きをしている。ひとつは、聖母坂(補助45号線)が開通する以前、木村横丁という商店街の路地があった西側の、下落合642番地に開店していた「魚石」だ。この魚屋は、1925年(大正14)の「出前地図」Click!には採取されていないので、同年の後半かあるいは1926年(大正15)に開店したばかりの店だったのかもしれない。
 もうひとつが、第三文化村Click!や第一府営住宅Click!の北側、下落合1486番地で営業していた「魚友」だ。いまでは、山手通りと目白通りの交差点になってしまっている位置だが、この店は前年の「出前地図」にも採取されているので、府営住宅が建設されはじめた大正初期のころから営業をつづけているのかもしれない。2店舗とも、佐伯アトリエからは直線距離で150mほどのところにあり、当然、御用聞きが注文をとってまわるテリトリーだったろう。
 当時の御用聞きには、おそらく競業する店同士ができるだけトラブルにならないよう、商店仲間などを通じておおよその“縄張り”が決められていたと思うのだが、佐伯アトリエを受け持っていた魚屋は、はたしてどちらの店だったのだろう。下落合642番地の「魚石」のほうが、佐伯家Click!まで距離的にやや有利で、もし開店したばかりだったとすると積極的に営業攻勢をかけていたのかもしれない。一方、佐伯夫妻がアトリエを建てた当初から、出入りしていたかもしれない「魚友」は、いち早く佐伯一家がフランスから帰国したのをキャッチすると、無事帰国の祝いに尾頭つきかなにかをとどけている可能性がある。御用聞きを通じ、町内に張りめぐらされたご近所情報ネットワークは、今日、わたしたちが想像する以上に鋭敏だったろう。

 新宿歴博へ新たに収蔵された『鯖』をみると、すぐに調理しやすいよう、硬い胸びれや背びれがすべて落とされているのがわかる。したがって、誰か知り合いが釣果として佐伯家に持ちこんだものではなく、魚屋が仕事をしてから配達したのが判然としている。
 もし、佐伯一家が帰国したばかりのころであれば、親戚の手伝いも女中もいなかったため、台所仕事はおもに米子夫人Click!がこなさなければならず、足の悪い彼女には力を入れた包丁さばきは非常に面倒だっただろう。とどけた魚屋が、「あそこの奥方ぁさ、足が悪いからね」と気をきかしたがどうかまでは不明だけれど、できるだけ主婦の負担を減らす気配りも、当時の店ではたいせつな販促サービスのひとつだったにちがいない。佐伯祐三は、三岸好太郎Click!のように料理が好きで“作品”も美味しい・・・というエピソードは存在しないので、もっぱら米子夫人Click!が調理していたものだろう。
 商店が注文した家庭の家族構成はもちろん、年齢層や職業、生活の様子、出身地、家族の好みや嗜好、趣味などを知ることは、ちょっとした気づかい=販促活動につながる重要な情報だった。別に魚屋に限らず、出前や配達をする商店では、御用聞きをする小僧や丁稚によく情報を把握するように言ってきかせていただろう。競合する他店と、少しでも差別化して注文を多く確実なものとするためには、+αのこのような付加価値サービスが不可欠だった。
 『鯖』を観ると、佐伯にしては薄塗りの画面でキャンバスのサイズからしても、おそらく30分ほどの仕事だったのではないだろうか。キャンバスの横で、米子夫人が包丁を持ってイライラしながら、「サバは足が速いのよ、速く描いてくださいませんこと」と、せかしていたのかもしれない。
 
 「あのな~、オンちゃんな~、いま、魚とどいたで」
 「やっぱり、日本橋の魚河岸じゃなきゃダメね。巴里の魚は、イキが悪かったこと」
 「ほんまやな~、目の色からして、ちごうとるわ」
 「また、すき焼きじゃなくて、わたくしホッとしてよ。・・・で、あなた、魚屋さんになに頼んだの?」
 「ほんま、めっちゃイキがいいで~!」
 「わたくし、サバは蕁麻疹が出るからダメだけれど、サバ以外だったら美味しくいただけてよ」
 「・・・あのな~」
 「日本のお料理が、ほんとに巴里では恋しかったこと。ねえ、あなた」
 「・・・あのな~、それがな~、・・・オンちゃん、サバやねん」
 「サ、サバ!?」
 「Oui, ca va bien merci, et On-chan?」
 「・・・いつまで、あなた、巴里ボケしてるのかしら。じゃあ、わたくし、お刺身でいいわ」
 「そやさかい、サバはな~、わしが酢〆で食うたるさかいな、オンちゃんは刺身にし~や」
 「わたくし、下魚のマグロ以外なら、たいがいお刺身はいただけてよ」
 「・・・・・・あ、あのな~」
 「・・・ねえ、あなた、ひょっとして、白身のお魚じゃなくて、マグロを頼んじゃったの?」
 「あのな~、オンちゃんな~、・・・・・・それがな~、マグロでんね」
 「ま、いいわ。尾張町の昔から、銀座では脂身は食べないけれど赤身なら隠れていただくわ」
 「・・・・・・Un, deux, トロは、食うたる~~!」
 「・・・ねえねえ、祐三さん、あなたいつから、大ボケかましになっちゃったのかしら?」
 
 米子夫人が、サバ・アレルギーかどうかは知らないけれど、佐伯が繰り返しサバを描いているところをみると、やはりサバ好きは佐伯自身だったのだろう。もう1作の『鯖』は、残念ながら実画面を観たことはないけれど、カラー写真で見るかぎり厚塗りのようだ。冷蔵庫などない当時、サバが傷まないうちに、ちゃんと画面を仕上げられたのだろうか。それとも、「あのな~、腹がな~、えろう痛いねん。オンちゃん、医者呼んでんか~」と、大当たりしているのかもしれない。制作メモClick!に残る記述、1926年(大正15)10月3日~6日の4日間、そして同年10月16日~20日の5日間と二度にわたる「病気」は、サバに当たって発熱し、ひきもきらないトイレ通いで連作『下落合風景』シリーズClick!の写生に出られなかった・・・とでもいうのだろうか?w

◆写真上:1926年(大正15)に制作された、佐伯祐三の『鯖』(部分)。
◆写真中上:1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる、佐伯アトリエ直近の魚屋2店。
◆写真中下:左は、新宿歴博に収蔵された1926年(大正15)制作の佐伯祐三『鯖』(全画面)。右は、1925年?(大正14?)に描かれたとされる制作年の規定が怪しい佐伯祐三『鯖』。
◆写真下:左は、1926年(大正15)ごろ制作の佐伯祐三『蟹』。右は、第1次渡仏時の佐伯夫妻。