このサイトでは、大磯Click!に縁のある画家を訪ねるのは、これで三度目になる。最初は1927年(昭和2)の夏、第2次渡仏を目前にひかえた佐伯祐三・米子夫妻Click!が避暑に訪れた、大磯町山王町418番地の借家跡Click!を訪ねた。つづいて、大磯町西小磯728番地に避寒の別荘をもっていた、中村彝Click!の友人である亀岡崇Click!について書いている。三度目は、わたしと同時代に制作していた三岸節子Click!のアトリエ=「太陽の家」を訪ねる大磯行きとなった。
 「大磯行き」と書いたけれど、わたしは親父の仕事の関係で、物心つくころから中学生の終わりまで、花水川は花水橋(当時は木造だった)をわたってすぐ隣り街の虹ヶ浜に住んでおり、また両親の友人・知人の何人かが大磯に住んでいたので、しょっちゅう歩いていた街でもある。湘南・大磯は、わたしの日本橋に次ぐ第2の故郷のようなものだ。だから、大磯へ出かけるのではなく「帰る」という感覚のほうがとても強い。三岸節子のアトリエがある代官山も、子どものころから虫網をもってセミやオニヤンマを捕りに入りこんでいた。
 大磯は、明治の初期から東京人あこがれの別荘地Click!であり、日本で最初に海水浴場が開かれた土地でもある。夏は、東京よりも気温が3~4℃ほど低くて涼しく、冬は逆に3~4℃ほども気温が高い。西隣りの二宮町は、江戸期まで自然栽培による冬みかんの最北限地であり、二宮みかんは明治から大正期にかけて東京では有名なブランドだった。子どものころ、横浜や大船、鎌倉あたりまでは雪が降っていても、大磯までくると雨に変わるという経験を何度かした。
 夏は東京に比べて涼しく、冬は北側に丘陵を背負っているので暖かい大磯へ、三岸節子が「太陽の家」と名づけた小さな山荘を建てたのは、東京オリンピックが開かれた1964年(昭和39)3月のことだった。海辺の老舗旅館・大内館に滞在し、不動産屋に案内され地元で通称「代官山」と呼ばれる、大磯町東小磯611番地の南斜面を見た節子は、いっぺんで気に入ってしまったようだ。そのとき、長男の黄太郎様に「ここで私は死ぬよ」と囁いたらしい。当時の代官山の様子を、1999年(平成11)に出版された、吉武輝子『炎の画家・三岸節子』(文藝春秋)から引用しよう。
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 二年後(1964年)に節子は小さな家を建てた。アトリエ付きの家を建てるまでにさらに二年の月日を必要とした。丘陵地は五百坪の森林、千坪の農地から成り立っていたが、当時の知事は革新の長洲一二。農業を手厚く保護する方針が打ち出されていたため千坪の農地を宅地に変えるためには、あらゆる手立てを講じなければならなかった。/それだけではない。この丘陵地は戦時中は砲台がつくられていただけあって、眺望は最高だったが、建築地としてはあまりにも難が多すぎた。まず岩盤であるため水が出ない。建築家は、岩盤をプール状にくり抜き、桶の水を貯めて濾過する設備を作った。しかし雨が降らないと途端にトイレの水洗が止まってしまうので、あらかじめそのことを予想して作った外部にある原始的なトイレを使わなければならなかった。/電気は電信柱を三本立ててようやく送電が可能になった。代官山のてっぺんに建てられた山荘は地形の関係上四段に分かれていた。大変な思いで建て、暮らすには不便なことが多かったが、自然の恵みがそれらのすべてを凌駕していた。(カッコ内は引用者註)
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 この中で、三岸節子が農地を宅地に変えるのに苦労をした・・・というのは、長洲知事の時代ではなく、津田文吾が神奈川県知事をつとめていた時代であり、農業の保護策は急激なドーナツ化現象と宅地化が進んでいた神奈川県Click!では、長洲知事が登場する以前から実施されていた政策だ。長洲が知事になるのは、1975年(昭和50)以降のずっとあとの時代であり、吉武輝子が取材の過程で時系列をまちがえたか、三岸節子の記憶ちがいではなかろうか。津田知事には実際に会ったことがあり、笑っていても目が笑わない不気味なおじさんとして、わたしの印象に残っている。わたしの子ども時代と、神奈川県の津田知事時代はシンクロしている。
 また、代官山の山頂近くにも砲台があったことがわかる。この砲台は、湘南平(千畳敷山)Click!の山頂へB29の迎撃用に設置されたのと同じ12.7cmの高射砲Click!ではないかと思われるが、同様に25mm機銃のコンクリート台座も、代官山のあちこちに残っていたのではないか。隣り街の平塚に、海軍の火薬工廠があった関係から、高射砲陣地は湘南海岸のあちこちに展開していた。でも、大磯に来襲したのは高高度でやってくるB29ではなく、硫黄島から飛来したP51や空母から飛び立ったグラマンであり、大磯の山々よりも低く飛んだため、高射砲や機銃を下の街に向けて撃つわけにもいかず、「1発も撃てなかったんだわ」という古老の話を聞いている。
 さて、大磯にアトリエをかまえた三岸節子は、それまでの作品に見られた色彩感とは打って変わり、開放的で華やかな色合いの風景画や静物画を次々と生みだしていく。湘南・大磯という土地の気候や風土から、いままでにない解放感や安らぎを味わったのだろう。いつも「太陽」や「海」を意識した生活の中で、「色彩画家」と呼ばれる彼女の新しい美の世界が花開いていくことになった。
 
 先日、久しぶりにその代官山へと出かけてみた。子どものころは、湘南平から高田保Click!公園へと抜けたあと、それほど疲れていなければ、そのまま西側の代官山の山麓まで虫捕りにまわることがたびたびあった。いまは、宅地造成で暗渠化されたところが多いが、代官山の麓は鴫立庵Click!へと流れ下る鴫立沢の源流が流れ、オニヤンマを捕るには格好のエリアだったのだ。昔は、田畑ばかりの山麓でありヘビも多い斜面だったが、出かけてみて驚いた。代官山の中腹あたりまで住宅街が形成され、昔の面影はほとんどなくなっていた。
 しかも、すそ野の家々には「代官山マンション建設反対」の幟や横断幕がひるがえり、緑の多い昔の文化村のような住宅街の雰囲気とともに、東京近郊を散歩しているような錯覚をおぼえる。どうやら、代官山の南東にあたるすそ野の森を伐採して、大きなマンションを建てる計画が進行中のようだ。山頂までクルマで上がれるのだろう、きれいに舗装された道路を上りジグザグになった元・山道を歩いていくと、南斜面に面した陽当たりのいい場所に、1964年(昭和39)に建てられた木造アトリエと、1985年(昭和60)に建てられたコンクリートのアトリエがある。
 でも、わたしは最初、それが三岸節子のアトリエだとは確信がもてなかった。子どものころとは、あまりに周辺の風情が異なりすぎ、また大きく育った樹木の間に埋もれるようにしてたたずむアトリエは、人が住まなくなってから久しいのだろう、道路側からは廃屋のように見えた。また、山頂の近くには、当時はまったく存在しなかった住宅や、保養施設などが建っていて、すっかりわたしの記憶や印象を狂わせてしまったのだ。いちおう、古い木造家屋とコンクリート家屋をカメラに収めて帰り、しばらくして愛知県の一宮市立三岸節子美術館Click!の学芸員でおられる堤祐子様にご確認いただいたところ、まさに三岸節子の代官山アトリエの2棟であることが判明した。

 三岸節子は、大磯での制作活動を「カイコが糸をつむぐように絵を描こうと希っている」と書いている。1977年(昭和52)に出版された、三岸節子『花より花らしく』(求龍堂)から引用してみよう。
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 南になだらかな斜面が海へ向って下り、左手の山のはずれの海から太陽が上る。毎朝太陽を見るために早く目が覚める。薄明のうちに窓を開けはなち、うすもやに煙る木立や家々の屋根、小鳥たちはさえずり始め、やがてバラ色の空になる。真紅の太陽が少しずつ現れる。/もっとも壮大なながめである。/やがて糸のような夕月が空にかかり、弓のように張った白い月が、そして山の端に満月となって現れる。/歳月は朝日と夕日をたび重ねて過ぎ去ってゆく。/この楽園では太陽と月との対話に終始した孤独の世界である。それでももうここへ移り住んで四年の歳月を経過した。/これだけの時をついやして漸く私の作品の中に太陽も月も定着しはじめたようである。
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 だが、大磯にアトリエを建ててからわずか4年後、三岸節子は急に南フランスのカーニュへ向けて旅立っている。その後、フランスやイタリアでの制作期間は20年間におよび、三岸節子が再び大磯へともどってくるのは、84歳を迎える1989年(昭和64)になってからのことだった。

◆写真上:大磯の照ヶ崎から相模湾を眺めた風景で、沖に見える島影は伊豆大島。
◆写真中上:左は、代官山に通う山道。右は、代官山の中腹から眺めたこゆるぎの浜方面。
◆写真中下:代官山の山麓に展開する、落ち着いた住宅街の風情。
◆写真下:三岸節子が愛した大磯の海で、関東大震災Click!で海底から浮上した岩礁のひとつが見える。東を三浦半島に西を伊豆半島にはさまれた、湘南の真んまん中に位置する大磯は、江戸期の歌人・宗雪が「湘南」と名づけてめでたように、風光明媚な景勝地として有名だ。