先年、長崎町大和田1983番地(現・豊島区南長崎)にあった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)のことをご紹介したが、そこに集った画家たちの風景作品をご紹介した記事Click!に、先年開催された八島太郎展実行委員会の山田みほ子様よりコメントをいただいた。それがきっかけで、八島太郎(岩松惇)について追いかけて調べていたところ、同研究所でマンガ講座Click!を担当していた講師こそが、八島太郎であることが判明した。
 八島太郎は、東京美術学校で体育の授業をサボッたことを非難した職員を殴って退学処分(宇佐美承Click!の証言による)になったあと、反戦活動などを通じておもにプロレタリア美術展で活躍し、同じく洋画家で妻の新井光子(八島光)とともに特高に検束されて長期拘留されたのち、1939年(昭和14)に夫婦で米国へ実質的に“亡命”した画家として高名だ。また、今日では絵本作家としてのほうが知られているだろうか。
 『烏太郎(からすたろう)』をはじめ、『あたらしい光』、『モモの仔猫』、『水平線は拓く』、『村の樹』、『あまがさ』、『海浜物語(浦島太郎)』、『道草いっぱい』・・・など、八島が描くいずれかの作品に接した方も多いにちがいない。戦後は、おもに絵本作家としても活躍し、その受賞歴から国際的に知られた数少ない日本の洋画家のひとりだ。米国の子どもたちが、八島太郎の絵本を読んで育った様子も、インタビューなどを通じ晶文社の出版物などでレポートされている。現在でも八島の作品群は、米国の児童図書館などに数多く収蔵されているそうだ。
 八島は戦前戦中を通じ、一貫して愚かで“亡国”的な侵略戦争に反対しつづけ、特に日米戦争中は日本人を野蛮視して「ジャップ」と蔑む米国人に対し、絵本を通じて軍国主義に染まってはいない大勢の日本人が存在していることをアピールし、多くの「まとも」な感覚や理性をもった人々が、恫喝や暴力、組織的な圧力によって沈黙させられ、また獄につながれていることを訴えつづけた。ちょうど、今日の北朝鮮内の状況を語る「脱北者」、あるいは中国内の抑圧を証言する「人権作家」のような役割を、米国でになっていたのが八島太郎の存在だろうか。
 当時、米国のマスコミは連日、メガネをかけた出っ歯の先天的「好戦民族」である「ジャップ」が、日本刀を振りまわして蛮行を繰り返すマンガを掲載していたが、八島はそれに対峙する表現活動をさっそく米国でスタートしている。そのときの自身の想いを、1978年(昭和53)に晶文社から出版された『あたらしい太陽』(初出は1943年)の、「日本版によせて」から引用してみよう。
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 (日本人が野蛮で好戦民族であるという)そういう雰囲気をもりあげるかのように、連日の新聞は、ロイド眼鏡馬歯の「ジャップ」を主人公とする漫画をかかげ、ハースト系タブロイド紙の第一面にはアメリカ飛行士の頭上に日本刀をふりかざした日本将校の写真が大きくかかげられていた。/わたしは絵画修業のために日本からきてまもなかったが、軍国主義擡頭の現実のなかで成人したのであり、それを阻止せんとする良心的智識人のひとりとなってもいた。したがって、日本の民衆が天性好戦的であるはずがないという主題をうちたてたい衝動を全身に感じていた。『あたらしい太陽』の構想は、ただちにはじめられていたのであった。(カッコ内引用者註)
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 これらの状況は開戦直後、1942年(昭和17)の米国における八島太郎の創作活動だった。
 
 ちょうど、八島太郎が長崎町大和田のプロレタリア美術研究所で、マンガ講座の講師を受けもっていたころの記録が、1943年(昭和18)に書かれ1978年(昭和53)になってようやく日本語化された『あたらしい太陽』の中に登場している。美術展から、作品が次々と特高警察Click!によって没収、持ち去られる様子につづき、長崎のプロレタリア美術研究所が特高や憲兵隊Click!によって包囲され、破壊される様子が描かれている。当時の八島が、長崎や落合地域のナップClick!などで活動していた様子を、同書の巻末に収められた藤本祐子「八島太郎のこと」から引用してみよう。
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 かれは運動の中で、さまざまな仕事にエネルギッシュにとりくんだ。展覧会には油絵、素描、漫画を出品し、美術研究所の講師をつとめ、『ナップ』『戦旗』などの表紙デザインや挿絵を担当した。かれはまた『プロ美術』と『美術新聞』の編集長でもあった。それらの雑誌に盛んに漫画を描き、漫画評論を載せている。こうした多忙な生活のなかで、文化学院油絵科卒業の同盟員、新井光子(本名・笹子智江)と結婚した。二十三歳であった。
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 八島太郎(岩松惇)と新井光子(笹子智江)が出逢ったのは、1930年(昭和5)に長崎町大和田の造形美術研究所(同年6月よりプロレタリア美術研究所)へ光子が通っていたころだ。そのころの新井光子の様子を、千葉大学大学院社会文化科学研究科の吉良智子論文『プロレタリア美術運動における女性美術家に関する試論』から、その一部を引用してみよう。
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 (新井光子は文化学院美術部で石井柏亭に油絵を学び) 卒業後、女子聖学院付属中里幼稚園で教師をしながら、プロレタリア美術研究所に入所し、絵画と運動を続ける。まもなく所業が分かり、職を追われる。1930年、光子は研究所で知り合った画家岩松惇<八島太郎>と結婚した。岩松は1908年、現在の鹿児島県肝属群根占町郷士の家に生まれた。絵画を志し、東京美術学校に入学するものの中途退学、やがてプロレタリア美術運動にひかれてプロレタリア美術研究所に入所後、漫画の講師を務めていた。(カッコ内引用者註)
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 同時に、決まりきってステレオタイプ化された、官憲の弾圧や抑圧に対する「嵐に抗して」「同志よあとは引き受けた」というような、「プロレタリア的」で運動のアリバイづくり的な抵抗・反対表現についても、およそ八島太郎は疑問を感じはじめている。このあたりの感覚は、戦後に書かれた岡本唐貴・松山文雄編著『日本プロレタリア美術史』(造形社)でも、表現を超えてイデオロギーがなによりも優先される、ないしは一定の思想に表現が隷属する美術とはなにか?・・・という、本質的なテーマで論じられていたりもするのだが、八島はそれが当局が推進する「戦争画」の“陰画”であることを、すでに感じはじめていたのかもしれない。ちなみに、同研究所の中心的な所員であり、のちに映画監督になる黒澤明Click!の師である岡本唐貴の子息が、マンガ家の白土三平だ。長崎地域は戦前戦後を通じ、マンガとのつながりが非常に濃厚な街だ。
 では、戦後にマンガ家たちが参集するトキワ荘Click!からわずか150mほど東に位置し、八島太郎が講師をつとめていた日本初(いや、師匠であるマンガ家への弟子入りや企業への就職を前提としない、純粋な履修・研究目的のカリキュラムを備えたマンガ講座としては、世界初かもしれない)のマンガ講座があったプロレタリア美術研究所が、特高や憲兵隊に襲われ破壊される様子を、『あたらしい太陽』から文章と挿画で引用してみよう。ちなみに、八島は同研究所のことを造形美術研究所ないしはプロレタリア美術研究所とは書かず、「新興美術研究所」と表現している。1943年(昭和18)の当時、米国内における「プロレタリア」という言葉に対する検閲・発禁ないしは拒絶反応を考慮し、あえて名称を変えて表現したものだろう。
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 私たちの美術研究所の屋根の文字は、/誇らかに叫んでいた----/きたれ、学べ、新興美術研究所!
 満洲を襲った嵐は、しだいに国内にも吹きつのるようになった。展覧会では/部分訂正、画題変更が強要され、/たくさんの作品が撤回されるようになった。
 すべての会合は、/ものものしい官憲の垣根で囲まれ、/戦争という言葉を使っただけで、/検束された。
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 作品には、プロレタリア美術研究所が警官隊に包囲され、所員が連行される様子が描かれている。この直後、憲兵隊により同研究所は破壊された。八島太郎(岩松惇)も、特高に10回逮捕されている。お腹に子どものいる新井光子も同時に逮捕・拘留されているが、妻が妊娠中の身体であるため八島が特高へ配慮を頼むと、そのぶん光子はよけいに担当刑事から殴られている。余談だけれど、このとき新井光子のお腹にいたのが、のちに俳優となる岩松信(マコ岩松)だ。スティーブ・マックイーンと共演した『砲艦サンパブロ』をはじめ、数多くの日米映画作品に出演している。
 

 1943年(昭和18)に、米国のヘンリー・ホルト社から出版された『あたらしい太陽』の反響は大きく、ニューヨーク・タイムズ紙が書評で取り上げたのを皮切りに、ニューズ・ウィーク誌は同書の一部をそのまま転載して紹介した。また、NBCは『あたらしい太陽』をラジオドラマ化して放送している。以来、米国では同作の原画展覧会や講演会の依頼が、八島太郎のもとへ相次ぐことになる。

◆写真上:現在はマンションの1階駐車場などになっている、長崎町大和田1983番地(豊島区南長崎)のプロレタリア美術研究所跡(左)と、破壊される前の同研究所(右)。
◆写真中上:左は、米国で活躍していた八島太郎(岩松惇)。右は、1943年(昭和18)に米国で出版された『あたらしい太陽』で、写真は1978年(昭和53)に和訳された晶文社版。
◆写真中下:上は、いずれも岩松惇(八島太郎)の作品で1929年(昭和4)制作の『勲章で買えるものと勲章で喰えぬもの』(左)と、1931年(昭和6)に描かれた『侮辱的失業救済』(右)。下は、1943年(昭和18)に『あたらしい太陽』に挿入された八島太郎のマンガ。
◆写真下:いずれも、特高による思想弾圧を描いた『あたらしい太陽』の挿画。「反戦」はおろか、しまいには「戦争」と口にしただけで社会主義者・自由主義者として検束された。