三岸好太郎Click!の長女・陽子様は、父親といっしょに絵を制作した想い出がある。現在でも、その絵はたいせつに保存され、訪問したときにお見せいただいた。作品は、画面に釘などによるスクラッチ(ひっかき)技法が見られるので、好太郎が近衛秀麿Click!の新交響楽団Click!をモチーフにした、一連の『オーケストラ』シリーズを制作していた時期と重なっていると思われる。おそらく、1932年(昭和7)ごろだろうか。陽子様へのインタビューから、その証言を聞いてみよう。
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 父が(アトリエで)仕事をしてるとき、子どもたちが近くで遊んでても、出ていけとはいわれなかった。(中略) わたしたちが“ひっかき”をやりはじめて、父もそれをマネしてやってたの。それから、『オーケストラ』ができたの。自分も好きでやってるのよ、もっとこう描け・・・とかね。だから、とても子どもはかわいがってくれました。怒ったりしたことない。(中略) ♪ヨーコにキョーコにパーコ~と、そこの角から、大きな声で唄いながら帰ってきたの。お酒は一滴も飲めなかったんですよ。
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 連作の『オーケストラ』が制作される少し前、三岸好太郎はのちに作曲家であり、おそらく日本初の女性指揮者となる吉田隆子と恋愛関係にあった。吉田隆子は、激怒した三岸節子Click!に手をひっぱられ、三岸家の窮乏する暮らしを見せるために、鷺宮の第一アトリエへ連れてこられている。この好太郎の恋愛が終わると同時に、彼の表現は大きな変化を見せた。吉田節子(三岸節子)とよく似た育ちをしている、吉田隆子についてはまた改めて書いてみたい。
 吉田隆子のもとから、鷺宮アトリエへともどった三岸好太郎は、子どもたち相手にいろいろな遊びを考案している。いまでも陽子様の印象に残る人形劇もそうだが、その中にはキャンバスへ何色かの絵の具を重ね塗りし、それを釘でひっかいて線画を描くという遊びがあった。地層のようになった油絵の具の表面を、釘など先がとがったものでひっかくと、下塗りした絵の具の色が顔をのぞかせて面白かったのだろう。子どもたちは、夢中になってキャンバスをひっかいている。そのときの様子を、1969年(昭和44)に出版された田中穣『三岸好太郎』(日動出版)から引用してみよう
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 カンバスに黒の下塗りをし、さらに白を重ねて、そのうえを釘やペン先でひっかく“ひっかき遊び”に、平和な一日を過ごすこともあった。子供たちは、まるい頭に細い胴体を直結させ、そこから横と下にのばした二本ずつの短い棒線で、人間を描きだす。その単純な線描の美しさに、好太郎も目をみはらずにはいられなかったらしい。/それからのヒントであった。好太郎はひとつの写真を子供たちに見せた。すでに遠くなったあの日、吉田隆子といっしょに聞きにいった音楽会のカタログで、見ひらき二ページに舞台上のオーケストラ楽団が撮されていた。スポットに浮かぶその演奏風景写真を見せながら、好太郎はとくいな口上を披露する。/「さあ、さ、ごらんよ。とっくりとごらんよ。お代はいらない。」/といった工合にだ。/「椅子に坐った兄ちゃん方が、なかよく楽器をひいてるね。これがバイオリン。うしろの兄ちゃんの背ぐらいあるでっかいのが、チェロ。おつぎがフリュートに、太鼓。舞台のいちばん前で、長くとがったお尻を向けて、棒を振っているおじちゃんがいるね。この魔法使いのおじちゃんの魔法の棒につられて、みんながいっしょに演奏をはじめると、さあて、どうなる? ピイ、ピイ、ヒョロ、ピイヒョロ、ドン。トドン、ドン。」/まず、そうやって、子供たちの視線を写真のうえに集めてから、カタログを閉じ、そこで子供たちをカンバスに向かわせる。
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 三岸好太郎と陽子様たちのコラボ作品は、同じような方法で下塗りを終えたキャンバスが用意され、そこへ陽子様が好きな絵を描く。現存しているのは、おそらく第一アトリエの画室でキャンバスに向かう、父の三岸好太郎の姿を描いたものだ。
 中央にはキャンバスの載るイーゼルが描かれ、左手にブルーのルバシカ(?)を着た好太郎が筆をもって立っている。イーゼルの右手には赤い洋服の陽子様か、あるいは三岸節子がそれを見ているという構図だ。背景には、画室の北向き採光窓も描かれている。表面があるていど乾いたところで、父と子どもたちは画面をガリガリひっかいている。三岸好太郎もひっかきに参加しながら、1933年(昭和8)の独立美術協会第3回展へ向けた作品の構想を練っていたものだろうか。
 
 子どもがせっかく描いた絵に、画家がササッと手を入れて「完成」させたコラボ作品例もある。旧・下落合4丁目2096番地(現・中井2丁目)にアトリエをかまえた、刑部人Click!とその甥である炭谷太郎様Click!のケースがそれだ。炭谷様は、キャンバスにバラの静物を描いて、さっそく伯父の刑部人のもとへ見せにいった。ところが、せっかく完成したと思って見せた画面に、伯父はさっそく手を加えはじめたようだ。「できたので見せにいったら、ここはこう描くんだと、筆でどんどん手を入れられちゃってね。せっかく描いたのに・・・」と、いまでもちょっと口惜しい様子だ。
 キャンバスの画面を観ると、プルッシャンブルーへやや赤みが混じる背景に、ガラスの花瓶に生けたられた大輪のバラの花束が、ペインティングナイフも用いられたかなり厚塗りの手法で描かれている。刑部人は、「薔薇の刑部」といわれるほど、バラの花をモチーフにした静物画が多い。だから、バラが描かれた画面を見ると、つい自分の表現で「修正」したくなってしまったものだろうか。刑部人とバラについて、「刑部人のアトリエ」Click!サイトから引用してみよう。
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 林緑敏氏の薔薇園から届く硬くたくましい棘のついた花は、茎の長い店売りの薔薇と違って、そのまま花瓶に挿すだけで絵になった。「林さんのばら、美しさいわん方なし」と手帳にまで記すほど、刑部は毎年この薔薇を心待ちにし、届くとすぐに妻・鈴子に生けさせ、アトリエへ籠もって描いた。
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 刑部アトリエの隣家だった、旧・下落合4丁目2073番地の林緑敏(手塚緑敏Click!/林芙美子Click!)邸=現・林芙美子記念館からとどくバラを、毎年楽しみにしていた様子がうかがえる。ちなみに、炭谷様がモチーフにしたバラの花束も、林家からとどけられたものだった。
 
 子どもが描く絵に直接インスパイアされ、その技法やフォルムを自身の作品へ直接取りこんでタブローに仕上げてしまう・・・というコラボレーションは、別に三岸好太郎に限らない。旧・下落合4丁目2096番地のアトリエに住んだ松本竣介Click!にも、同じようなエピソードが残っている。子どもが描いた動物、たとえばゾウやウシ、セミなどの絵を正確にトレースしてタブローに仕上げている。その様子を、1977年(昭和52)に出版された朝日晃『松本竣介』(日動出版)から引用してみよう。
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 こうした一連の“人物像”と、別に興味をひく一連の作品、しかも、サムホールの小品の一群が発表されていた。この一群の作品こそ、“人物像”以上に愛児の莞と密着している。この三人展に発表された『電気機関車』『牛』(略)『木炭自動車』『象』(略)は、タイトルからも連想されるように、小学校一年生の莞が父宛てに在り合わせの紙に鉛筆で絵を描き、送り届けたものから、竣介は完全になぞってカンヴァスに複写し、白い下塗りの上に子供の無心の線を再現して完成した。その線は、竣介の考案した絵具で、その筆線を引く材料も、やはり彼の考案したものが使用されている。この実験は、前年(1945年)の十二月四日付の手紙においても、「莞よりうまい絵が描きたい」などと書いていることから、すでに前年あたりから莞の絵入りの手紙を心待ちして試行を始めていたのであろう。その後疎開から帰宅した莞は、自分の送った乗物や動物の絵が、父のアトリエに父のデッサンと共に大切に保管されているのを見るが、同時にその線画の上には別の硬質の材料でていねいになぞった跡を見るし、その数点は現在でも残っている。(カッコ内は引用者註)
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 松本竣介のケースは、厳密にいえばまったく同一のキャンバス面で行われたコラボレーションではなく、竣介が感動した息子の絵を「抽出」し、キャンバスへ改めて描きなおしているのだが、作品を見くらべる限り、モチーフのフォルムや線はそのままそっくり流用されている。あらかじめ固定化された、よぶんな知識や先入観、ステレオタイプ化された表現や思いこみから“解放”された、子どもたちが描く無我無心のフォルムや線に、画家たちは強く惹かれるものだろうか。

◆写真上:父親と陽子様たちが合作した、第一アトリエの画室で仕事をする三岸好太郎。
◆写真中上:画面の拡大で、人物から家具調度まであちこちに“ひっかき”が入れられている。
◆写真中下:左は、1970年代に制作されたと思われる刑部人『ばら(マジョルカの壺)』。右は、炭谷太郎様と刑部人のコラボレーション作品『ばら』。
◆写真下:上左は、1948年(昭和23)に制作された松本竣介『せみ』。上右は、その元となった松本莞『せみ』。下は、ともに1943~46年(昭和18~21)制作の松本竣介『牛』(左)と『象』(右)。