以前、下落合の御留山Click!にからめて、さまざまな結界やレイラインが形成されている記事Click!を書いたことがある。巫術や呪術、八卦、方位、風水、卜・・・と名称はどうでもいいのだが、おもに江戸期以前に用いられていた「望気術」に照らし合わせ、落合地域がどのような「気」味であり「地」味であり、「気」配であるのかを改めてとらえ直してみた内容だ。
 そのとき、わたしは星の数ほどある東京の街々の中で、なぜ日本橋以外の下落合に強く惹きつけられたのかを改めて顧みて、故郷の東日本橋とは大川(隅田川)へと流れくだる、柳橋Click!をはさんだ神田川の水流でつながり、先祖代々の氏神である神田明神とは、出雲神を介した社(やしろ)の気流ラインで直結している地域だからであり、とても気味(地味)がいい場所なので、わたしと家族たちが住むにはもってこいの地域だ・・・などと、書きたい放題を書いた。
 そして、将門相馬家あるいは徳川諸家が明治以降、なぜあえて落合地域ないしは周辺域を選んで暮らしてきているのか?、また、江戸幕府が落合地域の丘陵を、そもそもなぜ御留場(幕府直轄の立入禁止のエリア)に設定したのだろうか?・・・という本質的なテーマも含め、いろいろと想像し考察してきた。だが、江戸期に編纂された『新編武蔵風土記稿』(昌平坂学問所地誌調所・編)を読み直してみて、改めて自身のウカツさに気がついた。
 徳川幕府が、さまざまな「気」流が集中する下落合を御留場(山)に設定し、そのまま「鷹狩場」Click!という名目だけで機能させていたなんてことはありえないのではないか?・・・と、なぜ早く気がつかなかったのだろう。江戸東京総鎮守の神田明神社(かんだみょうじんしゃ)をはじめ、氷川社あるいは諏訪社、将門社(しょうもんしゃ)などを介してつづく、膨大なラインの交差点にあたる落合地域には、それなりの象徴的なトーテムがあってしかるべきなのだ。将門相馬家Click!は、さまざまな気脈を通じさせるトーテムとして、妙見神への信仰から屋敷の屋根や床下の礎石へ、北斗七星Click!を強く意識したフォルムを形成し、同時に太素社(妙見社)Click!を敷地内に遷座して奉っている。房総の将門ゆかりの故地(七星塚)とは、神田明神(オオクニヌシ・将門)や高田氷川社(スサノオ)、江古田氷川社(スサノオ)、豊玉氷川社(スサノオ)などを介して一直線に結ばれていた。ちなみに、御留山や薬王院の南側にある下落合氷川社(クシナダヒメ)は、この神田明神ラインからやや南にずれていると思われ、別の出雲ラインとの交点になっている。

 
 では、徳川幕府は御留場の下落合になにをトーテムとして奉ったのか? 国会図書館に保存されている、江戸期の『新編武蔵風土記稿』を内務省地理局がそのまま活字翻刻化した「巻十二・豊嶋郡之四」を参照して、わたしは愕然とした。下落合に設置されていたトーテムは、ほかでもないわが家の氏神であり、氏子であるわたしの神田明神社(オオクニヌシ・将門)だったのだ。この下落合神田明神社に、下落合氷川明神社(クシナダヒメ)、そして2社も建立されていた諏訪明神社(タケミナカタ)も含めれば、江戸期の下落合は出雲神だらけの土地だったことがわかる。では、『新編武蔵風土記稿』の巻十二・豊嶋郡之四から、下落合村の該当箇所を引用してみよう。引用文のカッコの中は、それぞれの寺社に関する改題文であり、原文カタカナのままとする。
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 氷川社(村ノ鎮守也) ○諏訪社二 ○大神宮(以上四社薬王院持) ○稲荷社三(一ハ藤稲荷ト云 山上ニ社アリ喬木生茂レリ近キ頃鳥居ノ傍ニ瀧ガ設テ垢離場トス薬王院持 二ハ上落合村最勝寺持) ○御霊社(祭神ハ神功皇后ナリ例祭九月ナリ是ヲビシヤ祭ト號ス 又安産ノ腹帯ヲ出ス 最勝寺持) ○末社稲荷 ○第六天社二(一ハ薬王院持 一ハ最勝寺持)
 薬王院(新義真言宗大塚護持院末瑠璃山閑<ママ>王寺ト號ス本尊薬師行基ノ作坐像長九寸許外ニ観音ノ立像アリ長一尺餘運慶ノ作 開山ハ願行上人ナリト云其後兵火ニ逢テ荒廃セシカ延宝年中實壽ト云僧中興シ元文年中再ヒ火災ニ罹リ記録ヲ失ヒテ詳ナルコトヲ伝ヘス) 神田明神社 八幡社 (後略) (赤文字は引用者)
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 ここに登場している諏訪明神社×2社は、現在の聖母坂をはさんで敷地が存在していた諏訪社の社領、すなわち、のちの諏訪谷Click!から青柳ヶ原Click!にかけてのどこかに奉られていた社(やしろ)、ないしは祠のふたつだ。おそらく、湧水源や洗い場に近い、現在の大六天付近だったように思われる。大神宮Click!は、現在の落合第一小学校の前あたり、のちの落合村役場や消防落合出張所の火の見櫓が設置されるあたりにあった祠で、明治期に入って廃社となっている。稲荷社とは藤稲荷Click!のことであり、3社も存在するのは境内に社の建物が3つ存在していたのだろう。

 明治以降の徳川家や将門相馬家は、さまざまな気流が注ぎこむレイラインの交点や、神田上水(1960年代より神田川)の水流などを意識する以前に、下落合に神田明神が存在していたという、ただこれ1点のみの事蹟だけで、おそらく落合地域をことさら強く意識していただろう。さらに、もうひとつ別のテーマとして、江戸東京地方の中で幕府から「御留場(山)」と指定されていた地域に、神田明神の事蹟がほかにもあるのではないか?・・・ということ。そして、神田明神の本社と分社とを結ぶライン上には、なにが見えてくるのか?・・・という課題だ。
 『新編武蔵風土記稿』は、1810年(弘化7)ごろから昌平坂学問所の大学頭・林述斎によって幕府に建議され、およそ18年間の廻村(現地取材)ののち1828年(文政11)に脱稿し、2年間の編纂作業をへて1830年(文政13)に完成している。つまり、幕府の正式な地誌本として地域調査が繰り返され、少なくとも文政年間までは、下落合に神田明神社が存在していたことがわかる。なぜ、神田明神社が下落合に設置されたのかは、「気」流や「気」脈が縦横に交差する、徳川幕府による直轄地としての御留山の設定経緯とともに、もはや多言を要さないだろう。ついでに、文政年間に廻村=取材したとみられる、当時の下落合村の様子を引用しておこう。
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 下落合村ハ日本橋ヨリ行程二里 家数六十七 四境東ハ下高田村 西ハ多摩郡上高田村 南ハ上落合上戸塚ノ二村 北ハ長崎村ナリ 東西二十丁南北五町餘 正保年中ハ御料ノ外 太田新左衛門采地ナリ 後御料ノ地ヲ小石川祥雲寺領ニ賜ヒ今新左衛門カ子孫太田内蔵五郎カ知行及祥雲寺領交レリ 用水ハ前村(上落合村)ニ同シ (カッコ内引用者註)
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 では、下落合の神田明神社はどこにあったのか? 幕末に制作された「下落合村絵図」には、残念ながら同社は採取されていない。同絵図の当時、いまだ社が存在していたとしても、徳川幕府の衰退とともにずいぶん影が薄くなっていたのだろうか。あるいは、村の総鎮守として氷川社の存在感が、ことさら大きくなっていたものだろうか。『新編武蔵風土記稿』の記述を見ると、神田明神は薬王院の次に記述されており、前節のように社と社を区別するために挿入された「○」印が記載されていない。そこから推定できるのは、薬王院の境内ないしはその周辺の寺領に設置されていた可能性が高そうだ。幕末まで、かろうじて残っていたかもしれない江戸東京総鎮守・神田明神の分社は、明治期の廃仏毀釈で最終的に解体・撤去された・・・そんな「気」配が強くしている。
 
 わたしがなぜ、下落合に強く惹かれたのか?・・・、これはもう科学や論理などで割り切れる領域ではなく、ましてや不動産をめぐる環境や利便性などの理屈でもなく、どこか親しみが湧き、わたしにとって暮らしやすい「気」流や「気」配、「気」脈を感じたからとしかいいようのない土地だからなのだろう。わたしとその家族にとっては、なんとも「気」味のいい、暮らしやすい土地柄なのだ。

◆写真上:柴崎古墳Click!(大手町・将門塚)から神田山山頂(現・駿河台あたりにあった山)、神田山から同山北麓と二度遷座している江戸東京総鎮守の神田明神拝殿。
◆写真中上:上は、Googleの空中写真で神田明神ラインを引く。下左は、下落合御留山の相馬邸正門(黒門Click!)に用いられ福岡市教育委員会で保存されている鬼瓦。下右は、集められた相馬邸の七星礎石で新宿区により保存されることが決まっている。
◆写真中下:下落合村が記録されている、『新編武蔵風土記稿』の巻十二・豊嶋郡之四。
◆写真下:神田上水(旧・平川)沿い建立された、下落合氷川社(左)と高田氷川社(右)。