1923年(大正12)に発行された『中央美術』6月号には、洋画界へデビューしたふたりの画家の動向が伝えられている。ひとりは、下落合661番地へアトリエClick!を建てたばかりの佐伯祐三Click!であり、もうひとりは春陽会第1回展へ応募して入選した三岸好太郎Click!だ。もっとも、三岸好太郎は前年に第3回中央美術展へも『静物』で入選しているが、周囲から大きな注目を集めるようになったのは、春陽会へ入選をするようになってからだ。
 まず、佐伯祐三は東京美術学校を卒業すると、早々に卒業仲間とともに薔薇門社を起ち上げている。メンバーは、同期の山田新一Click!や深沢省三Click!、江藤純平Click!たちだった。早くも5月に神田文房堂で第1回展を開催した彼らについて、同誌の「団体行動」記事から引用してみよう。
  ▼
 薔薇門社  今年東京美術学校を卒業した七人の結社で人名は石川吉次郎、山田新一、深沢省三、江藤純平、佐伯祐三、佐藤九二男、佐々木慶太郎。その第一回の展覧会を五月九日から五日間神田文房堂で開いた。
  ▲
 薔薇門社の活動は、この年の9月1日に起きた関東大震災Click!と、同年暮れに決行した佐伯祐三の第1次渡仏により、ほどなく自然消滅のようなかたちになってしまうが、それ以降もつづく同期の画家たちとの交流や関係は非常に重要だ。
 この時期、アカデミズムと“権威主義”に染まり沈滞してしまった帝展洋画部や、硬直化してマンネリ化しはじめていた二科会に加え、岸田劉生Click!たちの草土社Click!と合流した小杉未醒や梅原龍三郎、山本鼎らの春陽会が、新たな第三極を形成しようとしていた。このほかにも、帝展や二科に飽きたらない若い画家たちが、さまざまな独立画会を結成している。
 佐伯祐三がフランスから帰国したとき、案外すんなりと二科展で特別陳列ができたのも、また二科賞をスムーズに受賞できたのも、佐伯の技量や表現力が際立っていたせいもあるが、二科がひとりでも多くの有望新人を囲いこみ、会の沈滞ムードを打破しようとしていた思惑と無関係ではないだろう。のちに、1930年協会を起ちあげるとき、宣言文Click!に二科会へ最大限に配慮した表現が見られるのも、優遇されていた彼らの気配りだ。また、1930年協会の会員たちの多くは、同会が解散し独立美術協会を結成するまでの間、古巣の二科へと活動の場を移している。
 
 当時の3大画会における、会員(帝展は審査員)画家の構成は以下のようなものだった。
 ◇帝展洋画部(審査員13人)
 藤島武二Click!  満谷国四郎Click!  長原孝太郎  石川寅治  白瀧幾之助
 永地秀太  小林萬吾  南薫造Click!  太田喜二郎  金山平三Click!  片多徳郎Click!
 辻永Click!  牧野虎雄Click!
 ◇二科会(会員17人)
 有島生馬Click!  石井柏亭Click!  山下新太郎  正宗得三郎  湯浅一郎  安井曾太郎Click!
 坂本繁二郎  津田靑楓  斎藤豊作  熊谷守一Click!  藤川勇造Click!  中川紀元
 横井禮一  黒田重太郎  国枝金三  小出楢重Click!  鍋井克之Click!
 ◇春陽会(会員22人)
 小杉未醒  森田恒友  梅原龍三郎  長谷川昇  倉田白羊Click!  足立源一郎
 山本鼎Click!  岸田劉生Click!  木村荘八Click!  中川一政  斎藤與里Click!
 萬鉄五郎Click! 椿貞雄  山脇信徳  石井鶴三  田中善之助  山崎省三
 小山敬三  林倭衛Click!  今関啓司  硲伊之助  小柳正
 1923年(大正12)現在、各団体へ新人たちが応募した作品数を比べてみると、当時の画壇の趨勢をうかがい知ることができる。帝展洋画部は応募数1,800点余で、二科は2,100点余、これに対して春陽会第1回展は2,466点(同誌巻末の月報取材では3,000点超)ともっとも人気が高かった。中には、技術や表現力の未熟な画家たちが、あわよくばこの際・・・というように山師的な応募もあったのだろうが、それだけ新しい団体に寄せる期待も大きかったのだろう。
 春陽会第1回展は、同年の5月に上野竹之台陳列館で開催された。そして、同展に入選したのが三岸好太郎の『檸檬(レモン)持てる少女』だった。『中央美術』6月号でも、同作の画面は展覧会場でよほど目立ったものか、写真入りで紹介されている。それがよほどうれしかったのだろう、好太郎は俣野第四郎Click!と小林喜一郎とともに札幌へ帰省すると、三人展を開いている。でも、東京へもどってみると長期欠勤がたたったのか、下谷郵便局のスタンプ係をクビになってしまった。このあと、好太郎は本郷に本部のあった家庭購買組合Click!の配送部に職を得ることになる。
 
 以降、三岸好太郎は春陽会展の入選常連となり、翌1924年(大正14)には春陽会賞を首席で受賞し、周囲から大きく注目を集めることとなった。同年、好太郎は春陽会仲間の横堀角次郎、倉田三郎、土屋義郎、斎藤清次郎、川端信一らとともに画会「麓人社」を結成している。春陽会賞を受賞した当時の様子を、1923年(大正12)3月18日の時事新報で報道された記事を、1992年(平成4)出版の匠秀夫『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』(求龍堂)から孫引きしてみよう。
  ▼
 米の配達しながら絵を勉強する人----二十二才の三岸氏 昨日春陽会賞の首席を占む
 入賞者のうち最高点の三岸好太郎氏は北海道札幌の生れで本年二十二才の青年である。目下はキリスト教青年会の家庭購買組合に雇はれ、米の配達をやりながら苦学をつづけてゐる奮闘の士である。去年は「オレンヂ持てる少女」(ママ)を出して入選し今年は「春の野辺」他三点を出して美事入賞したのである。同君は語る。「私は十三の時父を失って、それから上京し大野麦風さんの弟子になりましたが、間もなくそこを出て下谷郵便局員となり小林喜一郎君と一緒に働いてゐました。今は郵便局もやめましたがやはり同君と同じ宿にゐて一緒に絵をかいてゐます。
  ▲
 岸田劉生は、三岸好太郎の作品を評して「三岸好太郎君の諸作もまた不思議なる美くしい画境である。内から美が素純に生かされてある。愛情という様なものが形の上に美しく生きてゐる」・・・と、彼としてはめずらしく最大限の評価を口にしている。
 
 佐伯祐三が薔薇門社第1回展へ出品した作品は、いまだ美校を卒業したてのアカデミックな表現だったろう。同年に制作された画面を観ると、ルノアール風の色づかいやタッチが顕著だ。それに比べ、三岸好太郎の『檸檬持てる少女』は、どこか岸田劉生のような暗い画面にルソー風の味をきかせた、その後しばらくつづく「春陽会」向けの表現を見せている。佐伯祐三は第1次渡仏と、里見勝蔵Click!の紹介でヴラマンクと出会ったことから表現を一変させているが、三岸好太郎は社会観や周囲の環境(おもに人間関係)の変化によって、表現を劇的に自己変革していった。三岸好太郎は、内部の葛藤や矛盾、さらにもっとも重きをおいて素直に従ったと思われる欲望が、量的に増えて激化することで、表現の質を大きく転換させていった・・・そんなふうに見える。

★北海道立三岸好太郎美術館の学芸員・苫名直子様より、「生誕110年三岸好太郎展」Click!の図録をお送りいただいた。たいへん美しい仕上がりで、楽しく拝見している。ありがとうございました。>苫名様 「生誕110年三岸好太郎展」は11月17日まで開催中。図録の表紙は、1934年(昭和9)に制作された『雲の上を飛ぶ蝶』」(部分/東京国立近代美術館蔵)。

◆写真上:1923年(大正12)に制作され、出発したばかりの春陽会第1回展に入選した三岸好太郎『檸檬(レモン)持てる少女』(北海道立三岸好太郎美術館Click!蔵)。
◆写真中上:左は、1923年(大正12)発行の『中央美術』6月号に掲載された薔薇門社結成の短信。右は、東京美術学校の卒業前後に制作された佐伯祐三『ベッドに坐る裸婦』。
◆写真中下:左は、1923年(大正12)発行の『中央美術』6月号。右は、春陽会第1回展の展評である福田久道「春陽会を観る」に掲載された好太郎の『檸檬持てる少女』。
◆写真下:左は、1922年(大正11)ごろ雑司ヶ谷時代の三岸好太郎。芸術をこころざす若者たちの間で、当時は大流行したルバシカを着て、左斜め45度を見つめてすましている。あまたの女性を口説くときも、この左斜め45度の視線が重要だったのかもしれない。w 右は、1992年(平成4)に求龍堂から出版された匠秀夫『三岸好太郎 昭和洋画史への序章』。