1930年協会のメンバーClick!の中で、小島善太郎Click!は91歳(1984年没)、里見勝蔵Click!は85歳(1981年没)と、ともに長命だった。ふたりは、死去するまで交流をつづけている。1978年(昭和53)に読売新聞社から出版された『里見勝蔵作品集』には、85歳の小島善太郎が82歳の里見勝蔵に向け、「人間としての里見勝蔵君」という文章を寄せている。
 その中で、お互いずいぶん仕事をして歳もとったのだから、もうそろそろ世間を相手にするのはやめたらどうだ?・・・という小島に対し、里見勝蔵が激昂するシーンが記録されている。もともと、物語を綴るのが好きClick!だったらしい小島善太郎は情景描写が細やかなので、そのときの表情までが目に浮かぶようだ。同画集に寄せられた、「人間としての里見勝蔵君」から引用してみよう。
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 よく私は里見君に言うのだ。/「君は、もうこれだけの仕事をしてきたのだ。この道は何処までも孤独だ。だからもっと静かに自分を掘り下げて、世間相手から手を引いたらどうだ」/すると、私の言葉も終わらないうちに叫ぶのだ。/「おい小島!! 日本の今の抽象派に我慢が出来るか。生活のリアルがどこにある。人間のほとばしるような情熱があるのか。近ごろの絵には我慢が出来ないのだ。君も来てくれ。もう一度、この写実を徹底しようではないか」/と私に何回も呼びかける里見君なのだ。/君も私も、お互いに八十歳を越して晩年を迎えた。
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 里見の言葉からは、ヨーロッパの協和音を壊しはじめた音楽家たちへ向けられた既成音楽家たちの怒声を、またモードやフリーイディオム、ビートや楽器の異なるエレクトリックサウンドに対して向けられた、バップこそJAZZだと固執しカテゴライズしたがりな偏狭者の罵声と同質の、保守的な臭いを感じてしまうのは否めないのだけれど、歳をとってもいまだ表現欲がギラギラしていた里見勝蔵の様子を垣間見ることができる。大正末から昭和初期にかけ、里見勝蔵は女性の裸体像(「赤い女」シリーズ)を連作していた。小島善太郎は、里見の仕事や性格をこう表現している。
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 「俺は女が好きだ」と、里見君の挑戦が始まったのだ。(中略) このころ描いた絵は、これに類する傑作が多い。里見君特有の芸術だ。ここにはヴラマンクもいなければ、ルオーもない、そしてマチスのフォーヴィズムもない。虚礼を捨てて裸になり、純化された本能的人間性を追求し、描きこんできた。この意味で、日本のフォーヴは里見君が代表していると言ってよいと思う。君独りが生んだ世界なのだ。/一方、里見君の性格には、我儘で、一刻で、時には人を踏みにじってでも突進する激しさがある。そのエゴイズム、その強引さには、仲間もついていけない時がある。しかし、それが、君の芸術を創り出す原動力でもあるのだろう。
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 里見勝蔵については、親切で世話好きな、育ちのよい京都のボンボンのようなイメージを持っていたのだが、非常に我が強くて激しい一面を近しい友人たちには見せている。自分の思いどおりにならないことや、自身のいうことを受け入れない相手に対しては、容赦のない一面があったことを小島は書きとめている。小島自身も、「ヴラマンクに会え!」という里見の奨めを、「私には私の考えがあった」ので断ると、里見は腹を立てて一時は絶交状態のようにもなったらしい。とても親切で世話好きの反面、自分の思いどおりにならないとすぐに激高してしまうのは、わがままに育ったボンボン(関東では「ぼうや」ないし「ボクちゃん」)の特長なのだが、いい意味でも悪い意味でも里見勝蔵は生涯、そのような性格のままでいたように思われる。
 池袋の里見アトリエに集って、さまざまな楽器を演奏していた「池袋シンフォニー」Click!については、以前に佐伯祐三Click!の美術マップでもチラリと触れたが、里見はパリでも同様の音楽会を開いていた。山田新一Click!が証言するように、このときも里見が第1ヴァイオリンで佐伯が第2を担当していたのだろうか。佐伯の音楽好きは、兄・祐正と里見の影響が大きかったと思われる。
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 佐伯祐三の仕事も、この里見君の友情、感化が大きかったと特記しなければならないと思う。もし里見君がいなかったら、佐伯の仕事はどうなっていたか。だから里見君にいわせれば、俺の後輩で、その意味では優越を許さない面があるのだと。/我々のパリ留学は、いつものしかつめらしい画論ばかりではなかった。/里見君がヴァイオリンを弾く。集まった連中が唄をうたい、踊りをおどったりで、楽しく遊んで一夜が更けていく日もよくあった。里見君は音楽家になろうか、画家になろうかということもあって、時には、エルマン・イザヤのヴァイオリン、あるいはオーケストラ、グノーとベルリオーズの、ゲーテの「ファウストの地獄落ち」のオペラなどに誘ってくれたのも里見君だった。/また佐伯と里見君が写真Click!に凝って、絵も描かずに没頭した一時期があった。今日、数少ない佐伯の当時の写真が残っているのも、そんな時のものであったわけである。
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 このような証言に接すると、第1次渡仏における佐伯の行動が、里見勝蔵とウリふたつなのに改めて気づく。この時期、佐伯の芸術的な表現や行動の規範、あるいは生活における活動の指針として、常に里見の存在があったのではないか。里見と佐伯が肩を並べているのではなく、里見が中心にいて、佐伯がそのまわりを周回している衛星のように思えてくるのだ。のちに、その「俺の後輩」が圧倒的な仕事をして逝き、なかば伝説化された存在となり、戦後になると佐伯の名前が急速に高まるにつれ、里見勝蔵はどのような想いでいたものだろうか?
 小島善太郎は、ヴァルモンドア近くのネル・ラ・ヴァレで仕事をする佐伯の姿も書きとめている。
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 里見君が案内役で、佐伯夫妻と私と四人、丘に富んだ、貧しいフランス特有の農村であったが、小川あり、牧場ありで、心ゆくまでその景色にひたったものだった。里見君の代表作の一つになった「ホテル・デ・ザルチスト」も、ここで制作したものであった。写生が終わって帰途、それぞれのポケットをりんごで一杯にして部屋に戻ると、それを米子さんが砂糖煮してくれ、みなで食べたことなども想い出されてくる。/そんな旅行の中で、夕方になっても佐伯が帰ってこない。みなが心配そうに顔を曇らしていると、キャンヴァスを抱えて、遅くなって宿にたどり着いた。彼はそこから二里もある隣村の、さびれたカトリック教会を見つけて描いていたというのだ。佐伯は歩くことには向こう見ずで、多数の作品は、そうした健脚にものをいわせて貪欲に描いたものが多い。こんな時に僕は、佐伯の詩人的一面を知ったりした。
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 『下落合風景』Click!を観ていても感じるのだが、かなり健脚だったらしい佐伯は目白崖線を東へ西へ、しかも1日に何度か往復している様子さえうかがわれる。広い旧・下落合(中落合・中井2丁目含む)を、おそらく1日に4~5km前後歩いている日もめずらしくはなさそうだ。しかも、ネル・ラ・ヴァレと同様に坂道がやたら多い下落合の地形だ。このへんでは見馴れない風景(画)を観るにつけ(たとえば『堂(絵馬堂)』など)、きょうはどこまで歩いていったのやら?・・・と思うことがある。
 
 先ごろ、チケットをいただいたので板橋区立美術館へ、「ようこそ、アトリエ村へ! 池袋モンパルナス展」を観に出かけた。里見勝蔵が「我慢が出来ない」らしい、シュールで抽象的な作品のオンパレードなのだが、ようやく着いた美術館の入り口には、前回の「不便でゴメン(>_<)」改め、「来て見てニッコリ(^_^)」の幟がはためいていたのには笑ってしまった。板橋区立美術館には、とてもオチャメな学芸員の方がおられるようだ。

◆写真上:独立美術協会が結成された、1930年(昭和5)制作の里見勝蔵『女』。
◆写真中上:左は、1920年(大正9)に描かれた里見勝蔵のめずらしい『下落合風景』。わたしには大正初期から七曲坂の上、下落合323番地に住んでいた東京美術学校の恩師・森田亀之助邸のような気がしている。後年、里見は下落合630番地の「森たさんのトナリ」に転居してくることになる。右は、実家と墓が下落合にあった小島善太郎が1927年(昭和2)に描いた『戸山ヶ原』。
◆写真中下:ともに、1924年(大正13)ごろにパリで撮影された連続写真。手前中央が小島善太郎で左側が林龍作Click!、後列が里見勝蔵(左)と前田寛治(右)。
◆写真下:左は、パリのアトリエでの里見勝蔵。右は、1928年(昭和3)制作の里見勝蔵『少女』。