明けまして、おめでとうございます。本年も引きつづき拙「落合道人」ブログを、どうぞよろしくお願い申し上げます。さて、お正月といえば、鮮やかな纏(まとい)さばきにイキな気遣り歌が、町内の羽根つき音にまじってどこからともなく響いてくる、出初式は町火消しのお話から・・・。
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 最近、旧山手を歩いていると、江戸の町火消しClick!の事蹟にぶつかることが多い。(城)下町Click!の町火消しClick!は、これまで何度か記事Click!に取りあげてきたけれど、旧山手(おもに山手線の内側)に隣接した、あるいは乃手の中に建立された寺社などの門前町で組織された町火消しについては、その名称(47組→48組の呼称)とともに、わたしにはめずらしい存在だ。
 まず、白山界隈で活躍した火消しに「そ」組がある。白山権現社(白山富士)の境内には、おそらく亀をかたどった台座の上に、“そ組”と刻んだ石碑が残っている。「そ」組の基盤や仕事が、末永く安全で盤石(万石)なように・・・というシャレのめしなのだろう。(冒頭写真) 最初、文字のくずし具合から「そ」だとわからず、「万」組ないしは「ろ」組ではないかと思ったのだが、「万」組は一番組で「ろ」組は二番組と、両組とも千代田城に直近の城下町火消しであり、旧山手のエリアではない。帰って纏印(まといじるし)ともども調べてみたら、九番組の「そ」組であることがわかった。「そ」組は、幕末には乃手24町を担当しており火消し人数は142人と、比較的規模の小さな町火消しだった。纏印は、鼓(つづみ)か臼(うす)の断面のような、独特な形状をしている。
 もうひとつ、めずらしかったのは大名や大旗本、豪商などの寮(別荘)が林立していた、江戸期は瀟洒で静謐だったウグイスの里Click!、日暮里から駒込界隈の町火消し、同じく九番組の「れ」組だ。「れ」組が建立した狛犬を見つけたのは、西日暮里の崖線上にある諏方(諏訪)明神社の境内だった。「れ」組の刻み文字は、狛犬の台座に残されている。また、「れ」組の仕事は受け持ち区域内でとても活発だったらしく、旧乃手のあちこちでその事蹟を見ることができる。
 
 
 文京区の発掘調査により、境内が前方後円墳(現存は約60~70m)であることが確認された駒込の富士浅間社の境内にも、駒込富士Click!を記念する富士講Click!の石碑に混じって、「れ」組の記念碑が建立されている。「れ」組は、谷中から千駄木、根津、池ノ端にまでおよぶ広範な28町を受けもち、火消し人数は219人を数えている。きっと、江戸後期にはあちこちに出張(でば)って、「れれれのれ~」と活躍したのだろう。町火消しが改組された、1720年(享保5)現在の纏印は丸に「大」と、まるでデパートのようなデザインをしていた。
 さて、1719年(享保4)6月に制定された町火消し制度Click!だが、翌年の大改正によって町火消しの担当区域はもちろん、組織の数や規模、それぞれの纏印や名称までが変更されている。さらに、幕末に近い天保年間にも改正(組織や纏印など)が行われており、今日に伝わる江戸町火消しの姿は、ほとんどが幕末から明治初期にかけての姿だ。
 したがって、幕末には「へ」「ら」「ひ」各組が存在しなかったため「なかった」ことにされているが、もちろん享保年間には存在している。また、のちに「へ」「ら」「ひ」各組がなくなり、代わりに「百」「千」「万」各組に改称されたとする流行りの「江戸本」や資料も多いが、これもまったくの誤りだ。「へ」組は芝高輪界隈が担当だったが、「百」組は茅場町界隈が担当、「ら」組は四谷箪笥町や伊賀町界隈が担当区域だったが、「千」組は大川端の霊岸島地域の担当、「ひ」組は山手の青山界隈が担当区域だが、「万」組は飯田町(現在の飯田橋・水道橋界隈)が受け持ちと、それぞれ地域的かつ組織的に縁もゆかりもない、まったくの場ちがいかつ筋ちがいな火消し同士だ。

 

 先日、久しぶりに柳原土手(現・神田須田町界隈)の柳森稲荷(柳森富士)のタヌキ殿Click!にお参りをしたら、同社の境内にはたくさんの火消し名が記念に刻まれていた。さすが、神田明神Click!も近い神田川Click!沿いの社のせいか、玉垣には“いの一番組”の「い」組にはじまり、「ろ」「は」「せ」「よ」「も」「す」「に」「百」「千」各組と、大規模な下町火消しのそろい踏みだ。これらの町火消しは、員数が300~500人を数えた組も多い。薩長Click!が上野山の伽藍に放火Click!したとき、これら各組の火消したちは半鐘の音とともにさっそく駆けつけているだろう。大名火消しや幕府の定火消しが、すでに解散して存在しなかった当時、大江戸じゅうから駆けつけて薩長軍と対峙し、にらみ合った町火消しは数千人にもふくれあがり、一触即発の事態だったと伝えられている。
 さて、柳森稲荷社の玉垣で「い」組の次に登場する「ろ」組だが、江戸期のくずし文字である「ろ」と「そ」の区別が曖昧だ。町火消しの担当区域からいって、柳森稲荷の刻字は日本橋の「ろ」組にまちがいないと思うのだが、ちょっと見には「そ」組の字体と見分けがつかない。このあたり、できるだけ文字を丸くして町内の円満・安全を願う、火消したちの想いがこもっているのだろう。
  
  

 明治になって東陽堂が出版した『風俗画報』には、大江戸の各町を担当した町火消しのマップ「いろは組町火消持場所一覧」が掲載されている。1720年(享保5)に大改正が行われたあとの姿だが、天保年間にも小改正が行われているので、いずれの時代における配置図かは、明治期も含め150年以上もつづいた大江戸の町火消しなので、正確に規定することがむずかしい。

◆写真上:白山権現社(白山富士)の境内に残る、めずらしい「そ組」の記念碑。
◆写真中上:上は、日暮里の諏方明神社にある「れ組」の狛犬台座(左)と、駒込の富士浅間社(駒込富士)に残る「れ組」と「そ組」の記念碑(右)。下は、1898年(明治31)12月25日発行の『風俗画報』臨時増刊号に掲載された、「そ」組と「れ」組の纏印および持場所(担当区域)。
◆写真中下:いずれも、柳原土手に建立された柳森稲荷社(柳森富士)の玉垣に刻まれた町火消しの組名と、神田川の水面から眺めた柳森社。柳原土手は、千代田城のある神田の片側のみに築かれ、秋葉ヶ原側は洪水時に水を逃がす氾濫遊水域として設定されていた。
◆写真下:上は、1719年(享保4)現在の「へ組」「ら組」「ひ組」の纏印および持場所。中は、1720年(享保5)以降の「百組」「千組」「万組」の纏印および持場所。下は、江戸後期の町火消し配置を記した「いろは組町火消持場所一覧」。いずれも、上記の『風俗画報』臨時増刊号より。