1928年(昭和3)現在、松下春雄Click!は下落合1445番地にあった鎌田邸Click!の下宿から、結婚して下落合1385番地の借家Click!へ、淑子夫人Click!とともに転居している。松下はこれらの住まいを起点に、周辺に拡がるさまざまな下落合の風景をスケッチしているのだが、それらの作品の中には知人の画家と連れ立って写生している様子がうかがえる。
 たとえば、西坂にある徳川邸Click!のバラ園を写生した作品に、1926年(大正15)制作の『下落合徳川男爵別邸』と『徳川別邸内』がある。ほぼ同時期に、徳川邸の南にあった芝庭付近から旧邸を描いたと思われる『赤い屋根の家』という作品もあるが、これは松下と同じ帝展画家で1926年(大正15)に制作された、有岡一郎Click!『初秋郊外』と同一モチーフを描いていると思われる。すなわち、この当時は下落合800番地に住んでいた有岡一郎と松下春雄は、連れ立って西坂の徳川邸を訪れ、近接してイーゼルを立てて仕事をしている可能性が高い。
 当時の下落合は、数多くの画家たちがアトリエを建設して流入しており、ときには親しい仲間と誘いあって郊外風景をスケッチしに出かけるという光景は、それほどめずらしくはなかっただろう。山本和男様・(松下)彩子様夫妻Click!が保存されている貴重な松下春雄のアルバムClick!には、松下が下落合の雑木林の原っぱで、1928年(昭和3年)9月13日に『草原』を制作をするスナップ写真Click!が残されている。そこには、松下とともに淑子夫人も写っており、カメラをかまえる第三者の眼、すなわちいっしょに写生へ出かけた親しい画家の存在を感じるのだ。
 そのような情景を意識しながら、松下春雄が親しかった画家たちの作品を観ていくと、おそらくイーゼルを近くに並べて制作した、あるいは時期を変えて同一の描画ポイントから描いていると思われる画面を発見することができる。つまり、松下春雄のサンサシオンClick!仲間が描いた東京郊外の風景作品群だ。名古屋から東京へやってきたサンサシオンの画家たちClick!は、すでに東京で暮らしはじめていた親しい友人の下宿に転がりこむか、友人の住む近所に下宿や借家を探して暮らすことが多かったらしい。そんな仲間のひとりに、大澤海蔵がいた。
 松下春雄とは、名古屋のサンサシオンでいっしょだった大澤は、1929年(昭和4)の秋口に『初秋』と題した油彩画を仕上げ、翌1930年(昭和5)に開催された第11回帝展へ出品している。

 
 2004年(平成16)に名古屋画廊で開催された、「サンサシオン1923~33―名古屋画壇の青春時代―」展図録に掲載された大澤海蔵『初秋』を観ると、これとそっくりな松下作品が存在することに思いあたる。すなわち、制作年が不詳とされている『庭先』だ。(冒頭写真) この作品は、おそらく1929年(昭和4)6月に下落合1385番地からの引っ越し先、松下夫妻が新たに借りた杉並町阿佐ヶ谷520番地の松下邸の庭先を描いていると思われる。隣家との境界が、白ペンキで塗られた垣根で仕切られ、手前の家はブルーのスレート葺きのような質感の屋根をしている。外壁は下見板張りのようで、クレオソートClick!が塗布されているのかこげ茶色に塗られている。窓やエントランスの軒下は、垣根と同様に白く縁どられてオシャレな雰囲気が感じられる。
 おそらく、右手に大きく描かれている家は隣家であり、松下邸は手前のイスが置かれた庭の右手、キャンバス右側の画面枠外に建っているものと想定できる。同じような家作の住宅がもう1棟、奥につづいて建てられているところをみると、ここの地主が似たような意匠の住宅を2棟並べて建設し、借家にしていたのではないかと思われる。松下邸の意匠が、はたして描かれている洋風住宅と同じものであったかどうかは不明だが、松下アルバムに残された阿佐ヶ谷の写真Click!を見る限り、やや異なる和洋折衷のデザインのように見える。
 さて、大澤海蔵の『初秋』の画面を観てみよう。画面右手には、松下作品とまったく同じ意匠の青い屋根をした住宅が描かれている。おそらく、同一の建物を描いたものだろう。敷地の境界に設置された垣根も、同じ仕様だ。画面奥に描かれた、他の家々とは切妻の角度がやや異なる、少し斜めに建てられているらしい赤い屋根の住宅も、『庭先』の風景とよく一致している。


 大澤海蔵の『初秋』が異なるのは、松下春雄の『庭先』に比べ描画角度がやや鋭角で、2棟並んだ住宅の奥の1棟が手前の家に遮られて、また樹木の枝葉に隠れてよく見えないことだ。そして大澤作品はタイトルどおり、いまだ木々が青々と繁る初秋に描かれたと思われるが、松下の『庭先』は樹木の葉がすべて落ちてしまった真冬に描かれている。
 大澤作品と松下作品には、もうひとつ大きなちがいがある。それは、松下の『庭先』が文字どおり、自邸と思われる庭先にイーゼルを据えて描いているのに対し、大澤の『初秋』は松下邸と思われる庭を手前に、敷地の外から垣根ごしに風景をとらえている点だ。松下の『庭先』画面の左手にある冬枯れの木々が、大澤の『初秋』ではこんもりと繁り、遠景に描かれた家々の庭木や草花も青々と繁って、遠景の見通しを悪くさせている。あるいは、大澤は意識的に奥に並んだもう1棟の住宅を、省略して描いているのかもしれない。
 大澤海蔵の『初秋』は、1929年(昭和4)の秋口に制作されたことが特定できているが、松下春雄の『庭先』(油彩)が同年の冬なのか、翌1930年(昭和5)冬の作なのかは規定できない。少なくとも、いまだ下落合1385番地に住んでいた1928年(昭和3)の冬でないことは確実だ。制作に時間差があるところをみると、大澤海蔵の『初秋』を観た松下春雄が、その画面から強くインスパイアされ、ほぼ同一の描画ポイントから『庭先』を冬に描いたとみるのが自然のように思える。
 
 
 1947年(昭和22)の空中写真を見ると、杉並町阿佐ヶ谷520番地は空襲をまぬがれ、戦前からの家々がそのまま建っているのが見てとれる。昭和最初期の家作からすでに建て替えられ、また増改築されているかもしれないが、それらしい住宅の並びを520番地の南側に確認できる。松下春雄や大澤海蔵が作品を仕上げた当時とは、だいぶ様子が異なっているのかもしれないが、いまだオシャレな洋風住宅が建ち並ぶ東京近郊の風情を、戦後もしばらくは残していただろう。

◆写真上:1988年(昭和63)に藝林から出版された『幻の画家 松下春雄1903-1933』に掲載の、制作年が不詳な松下春雄『庭先』。おそらく、1929~30年(昭和4~5)の冬季に、杉並町阿佐ヶ谷520番地にあった松下邸の庭先を描いたものと思われる。
◆写真中上:上は、1929年(昭和4)の秋口に制作された大澤海蔵『初秋』。下は、阿佐ヶ谷の松下邸の庭先で1930年(昭和5)2月4日に長女・彩子様を撮影したもの。背後には、画面に描かれたのと同じ垣根の向こう側に、洋風の意匠をしたモチーフの隣家がとらえられている。
◆写真中下:上は、1930年(昭和5)初夏に松下邸の庭先を写したもので人物は左から淑子夫人、生後まもない二女・苓子様、長女・彩子様。下は、同じ庭先から松下邸を撮影したもので、隣家とはやや異なる意匠だったのがわかる。人物は左から彩子様、淑子夫人、苓子様。写真はいずれも、松下春雄自身のカメラによる撮影だと思われる。
◆写真下:上は、1931年10月25日(左)と翌26日(右)に庭先で撮影された子供たちのスナップ。下左は、1947年(昭和22)の空中写真にみる阿佐ヶ谷520番地の様子で、南側の建物の並びがそれらしい。下右は、同番地のちょうど松下邸が建っていたと思われるあたりの現状。