下落合1445番地の鎌田方Click!に下宿していた松下春雄Click!は、1926年(大正15)ごろ西坂の徳川邸Click!を描いたとみられる『赤い屋根の家』Click!を制作している。これは当時、下落合800番地に住んでいた同じ帝展仲間の有岡一郎Click!と、お互いに連れ立って徳川邸を訪問していると想像でき、有岡も1926年(大正15)にほぼ同じ構図で『初秋郊外』を描いている。
 松下春雄は、『赤い屋根の家』を制作する以前から徳川邸を訪問していると思われ、邸の南にあった広い庭園の東寄りに造られたバラ園も、『下落合徳川男爵別邸』Click!や『徳川別邸内』の画面に描いている。絵のタイトルからもわかるとおり、当時の赤い屋根をした徳川旧邸は郊外別荘として建てられたものであり、相対的に小規模な(といっても十分に大きな西洋館なのだが)建物だった。昭和に入って同邸が本邸となり、新たに旧邸のすぐ南側へ建設された新邸は、別邸として建てられた洋館のゆうに倍もある巨大な西洋館だった。松下春雄と有岡一郎が描いた徳川邸は、新邸が建設される以前のいまだ別邸時代の建物だ。
 さて、きょうの記事は、松下春雄が西坂の急峻なバッケ(崖地)上に建っていた、赤い屋根の徳川邸の旧邸敷地内を描いたのは、上記のわずか3点のみで他には存在しなかったのだろうか?・・・というのがテーマだ。なぜなら、わたしはモノクロ写真でしか画面を確認できていないのだが、松下は「赤い屋根」の邸宅をシリーズをその後もつづけて描いているからだ。すなわち、1929年ごろに制作されたとみられている、油彩画の『赤い屋根の見える風景Ⅰ』と『赤い屋根の見える風景Ⅱ』の連作が残されている。松下春雄はもともと水彩画家であり、帝展へも水彩画部門へ出品していたのだが、大正末からは油彩画も手がけはじめている。もっとも早い時期に描かれた油彩作品としては、1924年(大正13)の『婦人座像』や、下落合の目白崖線の丘上から描いたとみられる1927年(昭和2)の『風景』などが印象深いだろうか。
 「赤い屋根」シリーズの制作年が、1929年(昭和4)ごろであるとされているのは、キャンバス裏に年号記載があるものだろうか? あるいは同年に、どこかへ出品された記録が残っているものだろうか? 同年の松下春雄は、すでに結婚していて下落合1385番地の借家Click!で淑子夫人Click!とともに暮らしており、6月には杉並町阿佐ヶ谷520番地の借家Click!へと転居している。だから、1929年(昭和4)の後半期に制作された画面であれば、下落合風景である可能性が低くなり杉並風景となるのだが、前半期であれば西坂の崖上に聳えていた徳川邸の遠景である可能性が高い。それは、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』の西洋館が、中央に大きな切妻をもつ徳川別邸(旧邸)の意匠にそっくりだからだ。しかも、南側の芝庭が主体だった広い庭園とみられる位置から、庭木を手前にはさみ北向きでイーゼルを立てている風情が濃厚なのだ。
 この位置は、西坂のバッケ上ぎりぎりの南面する崖っぷちであり、松下の背後には高さ10mほどの断崖が迫っていただろう。そして、その崖地のすぐ下には、斜面から自然に噴出した湧水で形成された、徳川邸の敷地南端に位置する北東から南西へと細長い池が見下ろせたはずだ。池の向こう側には、円弧状にカーブを描いた雑司ヶ谷道Click!(鎌倉街道)が見えており、1929年(昭和4)現在、いまだ聖母坂(補助45号線)Click!は敷設されていない。諏訪谷Click!と西ノ谷(不動谷)Click!から湧き出た小流れがひとつになり、妙正寺川へと注ぐ光景が見られただろう。松下春雄は、北北西に向いてイーゼルを立てており、この位置からだと『赤い屋根の見える風景Ⅱ』に描かれた西洋館のとおり、徳川邸(旧邸)のやや右側面(東側面)が薄く見えることになる。
 
 同作品が、連作『赤い屋根の見える風景』として制作されていることを考えれば、Ⅱよりも前に描かれたと思われる『赤い屋根の見える風景Ⅰ』もまた、徳川別邸を描いている可能性がきわめて高い。だが、同作の画面は徳川邸の敷地内から描かれたものではない。手前にある下見板張りの建物の陰から、屋根が陽射しを受けて光る遠景の大きな西洋館とみられる建築をとらえている。太陽の射光を考えれば、画面の右手ないしは手前の方角が南ということになるだろうか。右端に見えている、下見板張りの建物の外壁が日陰になっており、前面に配された樹木の陰などを併せて考えれば、太陽は画面右手にありそうだ。
 右手が南側だとして、徳川義恕邸(旧邸)がこのように見える位置は、西坂を上りきり二又に分かれた道を左折して西北方面へとたどる尾根道、すなわち霞坂Click!上から落合第一小学校Click!前を通過し、やがては目白文化村Click!の第四文化村から第一文化村へと抜けることができる三間道路沿いの、どこかのポイントということになる。ちなみに、西坂上の二叉路を右へ進めば八島さんの前通りClick!(星野通りClick!)であり、松下春雄がかつて下宿していた下落合1445番地の鎌田邸へほどなくたどり着くことができる。一方、二叉路を左へとたどれば、第一文化村水道タンクが見える『五月野茨を摘む』Click!(1925年)の描画ポイントや、『文化村入口』Click!(1925年)の箱根土地本社Click!を通り抜け、第一文化村の北辺二間道路を突っ切って、1929年(昭和4)の5月末まで住んでいた、下落合1335番地の松下邸へと一直線に抜けられるのだ。

 
 さて、松下のこのような下落合での軌跡を前提に、『赤い屋根の見える風景Ⅰ』の描画ポイントを推定すると、下落合1429番地の樹木がまばらに生えていた草原あたり、ちょうど笠原吉太郎Click!が描いた『下落合風景(小川邸)』Click!の西側あたりのどこか・・・ということになる。
 徳川邸から尾根道をはさんだ北西側は、大正末にはほとんど家がなく、昭和10年代でさえ樹木がまばらに生えた雑木林のような風情をしており、1936年(昭和11)に撮影された空中写真でも住宅がまだあまり建てられていないのがわかる。かなりあとまで畑地が残っていたか、あるいは松下春雄が下宿していた下落合1445番地の鎌田家の南側がそうだったように、下落合の新築家屋の庭をまかなう植木園だったのかもしれない。
 松下は、徳川邸の西北西にあたる草原の一画、おそらく洋風と思われる住宅の陰にイーゼルを据え、東南東の丘上にのぞいている徳川別邸(旧邸)の大きな赤い屋根を描いている・・・と、『赤い屋根の見える風景Ⅱ』の画面も含めて考慮すれば、そのように想定することができるだろうか。
 1929年(昭和4)の5月、松下春雄は翌6月に迫った阿佐ヶ谷への引っ越しを控えて、カメラ片手に下落合のあちこちの風景を撮影してまわっていることは、以前にこちらの記事でもご紹介Click!している。その中には、『五月野茨を摘む』の描画ポイントClick!や、『下落合文化村』Click!(1927年)のモチーフである竣工したばかりの落合第一小学校をとらえた写真もあった。はたして、カメラばかりでなく油彩の画道具を携え、あちこちを描いてはまわらなかった・・・とはいい切れない。


 1929年(昭和4)春、松下は阿佐ヶ谷への転居を前に、徳川邸をモチーフに再び制作しているのではないか。そして久しぶりに同邸を訪れ、1926年(大正15)に描いた『赤い屋根の家』と同様、南の庭園へと入れてもらい『赤い屋根の見える風景Ⅱ』を描いているのではないだろうか。

◆写真上:1929年(昭和4)ごろに描かれた、松下春雄の『赤い屋根の見える風景Ⅱ』(油彩)。
◆写真中上:左は、1926年(昭和2)ごろ(おそらく同年9月)に制作された松下春雄『赤い屋根の家』。右は、冒頭の『赤い屋根の見える風景Ⅱ』に描かれた洋館のクローズアップ。
◆写真中下:上は、1929年(昭和4)ごろに制作された松下春雄の『赤い屋根の見える風景Ⅰ』(油彩)。下は、1924年(大正13)に描かれた松下春雄『婦人座像』(左)と1927年(昭和2)ごろに制作された松下春雄『風景』(右)で、ともに水彩ではなく油彩作品。
◆写真下:上は、1929年(昭和4)作成の「落合町全図」にみる徳川邸周辺の様子。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる連作『赤い屋根の見える風景』の想定描画位置。すでにⅠの描画ポイントには住宅が建ち並びはじめ、Ⅱの描画位置の東には聖母坂が造成されている。