少し前の記事で、私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(非売品)の第6版Click!について触れたが、もう少し同画集にからめ佐伯が描いた「下落合風景」シリーズClick!について整理しておきたい。それは、佐伯祐三Click!が当時の落合地域のあちこちに拡がる風景一般を切り取って描いたのではなく、明らかに風景モチーフの選び方に偏った特徴が顕著に見られるからだ。
 いま現在、戦災をくぐり抜けて実物を目にすることができる作品、あるいは残された画面写真で確認できる作品を合わせると、「下落合風景」シリーズはちょうど50点を確認することができる。また、落合地域に近接した地域を描いたもの1点(1926年ごろの山手線『踏切』Click!)、描画ポイントは不明ながら「下落合風景」につながる画面と思われる作品が1点(同時期の『堂(絵馬堂)』Click!)の2点を含め、私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』には全52点の作品画面を掲載している。
 もちろん、その多くの作品には描画ポイントとともに現状の風景写真を添え、さらに当時の写真をできるだけ収録するようにしている。また、「下落合風景」全50点の中には、ある美術評論家の資料に含まれていた個人蔵の『下落合風景』作品Click!(未発表)のものや、1930年協会展Click!あるいは遺作展Click!、新宿紀伊国屋2階における個展Click!などの会場写真に偶然とらえられ、明らかに未知の「下落合風景」と思われる作品画像も含まれている。これらの連作「下落合風景」を、描かれたモチーフや取り上げられた風景別に分類すると、どのような傾向が見えてくるかが、きょうの記事のテーマだ。
 たとえば、以下のような項目で分類すると、面白い傾向が見えてくることがわかる。ちなみに、以下に設定した項目ごとにきっちりと作品が分類できるわけではないので、項目に該当する作品は重複してカウントしていることを、あらかじめお断りしておきたい。
(1) 雑木林や庭園を描いた風景…2点
 アトリエを建てた1921年(大正10)から間もない作品で、印象派の影響が色濃い。
(2) 工事中または工事後まもない現場を描いたもの…27点
 郊外住宅地の宅地や道路がまさに造成中の箇所、あるいは工事が終了してから間もない場所など、赤土がむき出しで工事関係者が姿を消したばかりのような情景。
(3) 目白文化村の住宅街あるいは施設…6点
 大正末の当時、もっともモダンな住宅街化が進んでいた第一・第二文化村Click!の情景はわずか4点にすぎず、しかも特徴的な洋風建築を画面へ積極的に取り入れていない。
 
 
(4) 佐伯邸の直近である八島邸前の三間道路と八島邸…9点
 第三文化村に接する三間道路(当時は補助45号線Click!予定道路)と、佐伯邸から2軒西隣りの八島さんちClick!を描いた、もっとも制作点数の多い風景モチーフ。
(5) 大正末に敷設されたばかりの道路や拡幅された道路…25点
 佐伯はパースペクティブがきかせられる画面が好きで、下落合に通う道路を実に多く描いている。敷設工事中または工事直後の道路を、頻繁に描いている。
(6) 諏訪谷の谷戸あるいは曾宮一念邸の前…5点
 諏訪谷に面した曾宮一念アトリエClick!と、諏訪谷へ建設中の住宅群を頻繁に描いている。また、住宅群が完成したのち、わざわざ降雪日を選んで制作している。
(7) 原っぱないしは整地済みの住宅建設予定地…10点
 宅地開発の予定地である原っぱや、耕地整理が済んだばかりの原など。
(8) 目白文化村や近衛町の開発よりも古いと思われる家屋…10点
 1922年からスタートする、目白文化村(箱根土地)や近衛町(東京土地住宅)に建ち並ぶモダンな家々よりも、さらに以前からあったと思われる古い家屋。
(9) 下落合に残っていた近郊農家…2点
 下落合の西端に残っていた農家を、1926年の秋と降雪日に写生。
(10) 山手線の線路沿い風景…3点
(11) コンクリート塀のある風景…3点
(12) 墓地または墓地跡のある坂道…2点
(13) 拡幅前の旧・鎌倉街道沿いにある鄙びた商店街…1点
(14) 佐伯祐三自身の家…1点
 現存する作品、あるいは作品画像にみる佐伯が好んだ風景モチーフは、明らかに大正から昭和にかけての最先端をいくモダン住宅街「下落合」ではなく、古くから華族やおカネ持ちの別荘地として拓けた大屋敷の建ち並ぶ「下落合」でもなく、また目白通り沿いに建ちはじめた近代的なコンクリート建築の商店街でもない。佐伯の眼差しは、おもに下落合の西部に展開していた工事中の幹線道路や、宅地造成で敷設されたばかりの二間・三間道路、擁壁や縁石が設置され整地されて間もない家屋が建つ以前の宅地や原っぱ、そしてそれらのモダンな住宅街とは対照的な、古めの日本家屋や軒の低い近郊農家などを描いている。換言すれば、大正末から昭和初期にかけ「下落合」というワードから同時代人がイメージする情景とは、まるで正反対の風景ばかりを描いていたことになるのだ。
 
 
 この感覚を、現代に当てはめて下落合をご存じない方にもわかりやすくいえば、たとえば「東京風景」を連作する画家がいて、東京湾の埋立地に拡がる原っぱ、郊外に残る野菜畑や長屋門の庄屋屋敷、空襲で焼けなかった古いアーケード商店街、煙を上げるめずらしい銭湯の煙突、公園に展示された蒸気機関車や都電などを描いたとすると、確かに東京風景にはちがいないのだけれど、これを21世紀初頭の東京風景に敷衍化できるかというと、「ちょっと、ちがうんじゃない?」という感覚を抱くだろう。佐伯の「下落合風景」シリーズに感じるのは、これに近い違和感なのだ。
 同じような感覚を、パリの街角を巡回する警官も抱いていたのか、街中で写生する佐伯にしばしば声をかけ、モチーフの公衆便所や倉庫、町工場、汚らしい壁を描くよりは、もっとパリらしい風景の描画場所があることを「アドバイス」している。余談だけれど、佐伯の連作「下落合風景」には、自宅の便所の前を描いた作品のあることが判明した。これについては、詳細がわかりしだい、改めて記事にしてみたい。
 佐伯の「下落合風景」シリーズは、当時の東京人が抱いていた「下落合らしさ」をほとんどしりぞけ、東京郊外の殺風景でどこか物悲しく、またいつもどこかで槌音が鳴り響く落ち着かない開発途上のエリア、すなわち別にそれが「下落合」という地域でなくても、当時の東京郊外なら大なり小なりどこでもあちこちで見られた、ホコリっぽくて赤土がむき出しの新興地の風情を写しとっていることになる。佐伯は、たまたま自宅+アトリエを建設した地域、下落合の中・西部にそのような風景が拡がっていたので、同地域の東部はほとんど描かず、おもに西部の風景を好んで写した…ということになる。
 どこか鄙びて物悲しく、夜になるといまだ満足に街灯の光もとどかない、電柱さえまばらで殺風景な場所を好んで数多く描いた下落合の佐伯祐三と、パリの裏街でことさら汚らしい雑然としたものに惹かれて描いた佐伯祐三との間には、同じような雰囲気のモノや風景に執着し、そこにあえて“美”を見いだし創造する共通視点をほのかに漠然と感じることができるのだけれど、「下落合風景」の場合にはもう少し強めのテーマ性、たとえば工事現場や開発地のむき出しになった赤土の“茶”に象徴される、まさに「連作」と表現できる経糸のような眼差しを感じとることができるのだ。
 
 
 さて、現存する「下落合風景」の作品や画像には当該作が見あたらず、佐伯の「制作メモ」Click!にのみ記載された未知のタイトル、あるいはメモから想定できる画面はあるもののキャンバスの号数が一致しない作品が、少なくとも10点前後は存在している。「浅川ヘイ」(曾宮一念邸の東隣りの浅川秀次邸Click!)や、「小学生」(前後の制作日付からおそらく落合第一小学校生徒)、「松の木のある風景」などは現存している画面に見あたらない。現存あるいは画面写真が残る作品に、これら未知の作品をプラスすると、最低でも60点を超える「下落合風景」を想定することができる。さらに、画家仲間や周辺にいた人物たちが証言している、発見されていない作品(たとえば先の自宅便所風景や、曾宮一念が証言する40号の諏訪谷風景Click!)を加えれば、「下落合風景」の点数はもっと増えるだろう。

◆写真上:先月完成した、私家版『下落合風景画集―下落合を歩く佐伯祐三―』(非売品)の最新版(Ver.6)。表紙は、佐伯邸の西隣りに建っていた八島邸と門。
◆写真中上:上左は、「かしの木のある家」Click!と思われる作品。上右は、第二文化村西側の三間道路を描いた「アビラ村の道」Click!の作品。下左は、城北学園(現・目白学園)北側の三間道路Click!を描いたとみられる作品。下右は、西武電鉄の開業前に中井駅前の道路工事現場Click!を描いた、遠景に草津温泉(現・ゆ~ザ中井)の煙突が見える作品。
◆写真中下:上左は、第二文化村西側の「原」Click!を描いたとみられる作品。上右は、降雪後の諏訪谷Click!を描いた作品。下左は、第三文化村の空き地から八島邸Click!を描いた作品。下右は、「上落合の橋の付近」Click!と思われる作品。
◆写真下:上左は、「森たさんのトナリ」=下落合630番地Click!を描いたとみられる作品。上右は、下落合の最西端にあたる中井御霊社の南にあった古い農家を描いたとみられる風景。下左は、遺作展に展示された諏訪谷の別バージョン。下右は、上掲の城北学園北側の三間道路を描いたとみられる別バージョンの作品。