下落合2080番地(アビラ24号)の丘上に、1925年(大正14)にアトリエを建てた金山平三Click!は、東隣りに満谷国四郎Click!、西隣りに南薫造Click!が引っ越してくるのを楽しみにしていただろう。当時、満谷国四郎は1918年(大正7)8月末に下落合753番地Click!へ竣工した築7年のアトリエClick!に住んでおり、南薫造は戸山ヶ原Click!をはさんだ下落合の南側、大久保百人町で1916年(大正5)に完成した築9年のアトリエに住んでいた。
 当時の住宅に対する考え方は、今日のものとは大きく異なり、一戸建て住宅を建てること=終の棲家を手に入れること……とは限らなかった。多くの場合、上物の家屋は個人の所有でも、住宅敷地が借地のケースが普通だったからだ。したがって、新たに好きな地域を見つければ、建築年数の少ない住宅でも気軽に手放し、また気に入ったデザインの住宅が開発されれば、せっかく建てた家を短期間で壊して新しい住まいを新築したりしている。わたしが知る限り、もっとも短い期間で壊されたのは「近衛町」Click!の下落合414番地に建っていた小林盈一邸Click!で、築後わずか7~8年で解体されている。
 さて、下落合2080番地に金山平三がアトリエを建設しはじめた1924年(大正13)、満谷国四郎と南薫造は転居の準備をさっそくはじめていたかもしれない。ふたりとも、すでに文展・帝展の重鎮だったので、建設資金あるいは転居資金にはあまり困らなかったろう。満谷国四郎は、金山アトリエの東隣り(おそらくアビラ23号)へ、南薫造は西隣り(おそらくアビラ25号)へ、何度か下見に出かけていると思われる。
 当時の様子を、再び日本画家の中野風眞子Click!の証言から引用してみよう。
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 アヴィラ村に通う今日の二の坂は、その頃乱塔坂(ママ:蘭塔坂Click!)と呼ばれ、蛇行する坂の両側に高低参差たる無数の墓石が乱立していて、夜は梟がほっほほっほと哀調の声を奏でていた。/一方丘の上は一面の麦畑で、空気も澄み、遠く西空には富士の秀嶺が雲上手に取り得る如く聳えて見えた。西武電車は未だ通らず、一々徒歩で省線東中野駅まで歩かねばならなかったが、それだけ静寂清澄な好住宅地であった。
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 大久保百人町の南薫造アトリエは、夭折した建築家・後藤慶二の設計なので手放すのを惜しみ、アビラ村(芸術村)Click!への転居では新築ではなく、あえて移築を考えたかもしれない。当時の住宅は借地が多かったせいか、引っ越しに際しては上物を“持っていく”ことも多かった。下落合に残る近代建築にも、さまざまな移築例を見ることができる。



 移築の敷地が近くであれば、家全体を持ち上げて下にコロをあてがい、住宅をゴロゴロ転がして新しい敷地まで運んだ例もめずらしくない。特に、昭和初期に実施された神田川や妙正寺川の整流化工事では、沿岸の家々が南北にゴロゴロ移築をした例も多い。南薫造のケースは、さすがに大久保百人町から戸山ヶ原をはさみ、下落合の丘上までゴロゴロ転がしてくるわけにはいかないので、もちろん解体・移築を考えただろう。
 1925年(大正14)に中村鎮Click!が編集し、後藤芳香が出版した私家版『後藤慶二氏遺稿』(非売品)には、後藤慶二が設計した南薫造アトリエの設計図およびアトリエ内写真が掲載されている。三角の尖がり屋根をもち、下見板張りの外壁をした大正初期のモダンな西洋館で、どこか中村彝アトリエClick!に近似しているのが興味深い。
 アトリエの広さもちょうど彝アトリエぐらいで、隣接して小さな居間兼応接室のようなスペースが付属するのもそっくりだ。ただし、当時のアトリエ仕様は、みな似ているのも確かなのだが。異なるのは、300号以上の大型作品の制作に備え、アトリエ内にキャンバス全体を眺められるよう小さな中2階(バルコニー)が設置されている点だ。満谷国四郎を師にもち、南薫造とも顔見知りだったと思われる中村彝Click!が、アトリエの設計を誰に依頼したのか?……というのは面白いテーマだが、中村彝と後藤慶二を直接結ぶ資料は見あたらない。そういえば、彝アトリエとよく似ている曾宮一念アトリエClick!も、誰が設計しているのかが不明のままだ。
 建築家の後藤慶二は、1919年(大正8)に大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)に罹患し、わずか36歳の若さで急死している。1915年(大正4)に豊多摩監獄(中野刑務所)の設計をしたことで有名だが、画家のアトリエを好んで設計したことでも知られている。南薫造アトリエの設計と同年、1916年(大正5)には同じ文展の洋画家・大野隆則のアトリエも手がけている。大野アトリエの外観は、同年竣工の彝アトリエによく似ている。
  
 
 一方、満谷国四郎は、年若い宇女夫人と再婚したばかりだったので、どうせ転居するなら新築を……と考えていたかもしれない。九条武子邸Click!の北隣りにあたる満谷邸は、当時からかなり大きめな建物だったと思われるのだが、転居先であるアビラ村の敷地(金山アトリエの東隣り)も相当広かったので、やろうと思えば建物の移築は可能だったと思われる。でも、いまだ再婚して数年の新婚生活を送っていた満谷は、若い奥さんのために新邸を考えたとしても不思議ではない。また、満谷の重要なパトロンのひとりだった島津源吉邸Click!も、三ノ坂と四ノ坂にまたがって建っていたので、この転居にはかなり乗り気だったのではないかと思われる。
 さて、金山アトリエが竣工し、満谷国四郎と南薫造が転居の準備にかかろうとした矢先、事態が急変した。アビラ村(芸術村)を開発していた東京土地住宅が、大きな負債を抱えて経営破たんClick!してしまったのだ。これは、アビラ村の新規開発のみならず、同じく東京土地住宅が手がけていた近衛町など既存の開発にも少なからぬ影響をおよぼすことになった。東京土地住宅が進めていた事業の多くは、下落合では目白文化村Click!を開発した箱根土地が引き継いでいるケースを、新聞の宅地販売広告などで多く見ることができるが、東京土地住宅の破たんでミソがついてしまったアビラ村(芸術村)に、満谷国四郎と南薫造は二の足を踏んだのだろう、転居を中止してしまったと思われる。
 このとき、アビラ村へ実際に土地を購入していたにもかかわらず、東京土地住宅の消滅で転居をやめてしまった芸術家には、満谷国四郎と南薫造のほか、大久保に住んでいた三宅克己Click!がいる。また、土地を購入して実際にアトリエを建てた人々には、金山平三をはじめ金子保、永地秀太、新海竹太郎(彫刻家)などがいた。



 アビラ村の丘上に、文展・帝展の仲良しトリオが顔をそろえていたら、周辺はどのような風情になっていたろう。3人連れで周辺をスケッチする姿も見られ、「下落合風景」作品も多く生まれていたのかもしれない。でも、昭和初期に帝展内部で問題化した情実鑑査や派閥人事、贈答腐敗などに対し、帝展改革の旗色を鮮明にした金山平三は、ふたりとは距離感を保ちつつ微妙な関係になっていたのではないだろうか。隣りあう画家同士が気まずいというのも、また困った事態だと想像できるのだが…。

◆写真上:金山アトリエで絵を整理する、らく夫人Click!(左)と金山平三(右)。作品をなかなか売らないせいかアトリエには絵がたまり、まるで画廊の倉庫のようだ。
◆写真中上:上は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる満谷国四郎敷地(アビラ23号)・金山清三アトリエ(アビラ24号)・南薫造邸敷地(アビラ25号)。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる同敷地。下は、金山アトリエが解体される前の同敷地。
◆写真中下:上は、満谷国四郎(左)・金山平三(中)・南薫造(右)。下左は、2013年10月現在の金山アトリエ周辺の風情。下右は、後藤慶二が設計した豊多摩監獄(中野刑務所)。
◆写真下:上は、大久保百人町にあった南薫造のアトリエ内部。中は、後藤慶二による1916年(大正5)の「南氏邸設計図」。下は、同設計図の外観図。