1933年(昭和8)に諏訪町(現・高田馬場1丁目)の諏訪社境内に住んでいた尾崎一雄は、戸塚通り(早稲田通り)の安食堂で朝っぱらから酒を飲んでいた。いっしょにいたのは、檀一雄Click!と古谷綱武だ。檀と古谷は、前日に萩原稲子Click!が経営する下落合の「ワゴン」で飲んでいて、そのまま尾崎の借家がある高田馬場へ流れてきたものだ。
 このとき、尾崎一雄は住んでいる借家があまりにボロでみすぼらしく、新しい家を探している最中だった。ただし、現状よりも高い家賃を出すわけにはいかず、どこかに小ぎれいで安い物件がないかどうかふたりに相談した。つまり、今日的ないい方をすれば幽霊の出るいわくつきの「事故物件」でもいいから、格安で都合のいい家がないかどうか訊ねたのだ。「ありますよ、それが」と答えた檀一雄のひとことで、上落合の小説『なめくぢ横丁』に描かれた世界が展開することになる。この横丁は、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の細い路地を入ったところに建つ長屋状の借家だった。1950年(昭和25)に中央公論社から出版された、尾崎一雄『なめくぢ横丁』から引用してみよう。
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 ――上落合二丁目の、とある横丁に、一棟二戸という、真新らしい家がある。二階六畳、階下六畳に三畳の同じ造りで、これが壁一重でつながっているわけだが、その、とっつきの方が目下空いている。新築と同時にそこへ入ったのが、ある小商人の妾という若い女で、これが小女一人を相手に暮らしていた。壁一重隣りの方には、中年の勤め人夫婦がいたが、これが二階に、某私立大学の学生を下宿させていた。その妾と、学生とがいつか人目を忍ぶ仲になった。両方とも、二階の南側に縁があり、それがやはり壁一重でくぎられているわけだから、欄干をちょっと越えれば、恋の通路、何のさまたげもない。しばらく無事につづいたが、やがて妾の檀那という男に嗅ぎつけられた。/「気の小さい二人で、二階の鴨居に、女のしごきか何かでぶら下がりました。心中です」/「ははァ」
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 この心中事件のあった長屋が格安物件だったわけなのだが、檀一雄が大家へ話をとおす前に尾崎一家がさっさと引っ越してきたため、大家からすぐさま無断入居とねじこまれてしまった。尾崎一家はしかたなく、隣りの檀の家(中年の勤め人夫婦が出ていった家)へと移るのだが、ルームシェアならぬ借家シェアで、1階には尾崎一家が暮らし2階には檀一雄が住む……という上落合生活がスタートする。この家には文学仲間が数多く参集し、檀や尾崎のもとには古谷綱武をはじめ丹羽文雄Click!、浅見淵、中谷孝雄、中島直人、立原道造Click!、森敦、太宰治Click!、山岸外史らが姿を見せた。
 また、ときに尾崎一雄へ原稿を依頼することもあった、プロレタリア文学雑誌の編集者・上野壮夫が向かいの借家へ転居してくると、「なめくぢ横丁」には上野夫妻を訪ねて小熊秀雄Click!や本庄睦男、亀井勝一郎、加藤悦郎、吉原義彦Click!、神近市子Click!、矢田津世子Click!、若林つや子Click!、平林英子などが出入りするようになった。いわゆる「芸術派」と「プロレタリア派」が入りまじり、当時の混沌とした文学界を凝縮したかのようなありさまを現出していたのが、上落合の「なめくぢ横丁」だった。檀一雄と古谷綱武は、そんな呉越同舟のような文学環境で文芸誌『鷭』を創刊している。
 
 
 このときの様子を、1984年(昭和59)に双文社出版から刊行された、目白学園女子短期大学国語国文科研究室による『落合文士村』から引用してみよう。
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 こうした光景を思いやると、プロレタリア派と芸術派とは、実に和気藹藹に見える。/はたしてそうだったのだろうか? 筆者にはわからない。ただ、「なめくぢ横丁」で、後年の文学史的な流派や思想や作風をはるかに超えた、人間同士の交友があったことは確かだろう。/――読者の皆さんは、翌九年(1934年)四月、「なめくぢ横丁」に関連して、三冊の文芸誌が同時に創刊されたことをご存じだろうか?/二階の檀に関しては『鷭』、階下の尾崎に関して『世紀』、そして向かいの上野に関して『現実』。これらはいずれも、それぞれの特色をもって、横丁の交友のなかから誕生した。横丁の結晶ともいえる。 (カッコ内引用者註)
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 さて、尾崎一雄の小説名にもなった「なめくぢ横丁」なのだが、これは尾崎が命名したものか檀一雄が名づけたものか、あるいはふたりが住む以前からの通称だったのかが曖昧だ。台所に「なめくぢ」がたくさん出現するから……という説明が本作の冒頭でなされるのだが、尾崎自身が命名したのではない印象が強い。冒頭部分を引用してみよう。
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 今年十八になる長女が、二つか三つにかけてのころだから、十五六年前ということになる。当時淀橋区上落合二丁目何番地かの、人称(よ)んでなめくぢ横丁、さして陽当りは悪くもないのに、どうしたわけか台所方面にこの気色のよくない動物が盛んに出没するという小家揃いの一角に、一年ばかり住みついたことがある。
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 横丁の名前については、それまでは「首つり長屋」と呼ばれていたらしい長屋名ないしは横丁名が、急に「なめくぢ横丁」という呼び名へと変わり、それが存外早く浸透しているようにも思える。確かに「首つり長屋」では世間体をはばかるから、大家も住民も「なめくぢ横丁」のほうがまだマシだ……と考えたとしても、不自然ではない。
 
 わたしは、「なめくぢ横丁」(ときに「なめくぢ長屋」)という呼称が、当時は案外広く知られていた名称であり、落語家の流行り噺(ばなし)の影響で市内へ拡がったネーミングではないかと想像している。寄席やラジオの番組で、噺のマクラとして「なめくぢ横丁」あるいは「なめくじ長屋」のことを、自身の生活とともに自虐もまじえ、酒臭い息づかいで面白おかしく語っていたのは、当時から人気の高かった5代目・古今亭志ん生(当時は古今亭志ん馬)だ。
 当時の志ん生は、本所の業平橋にあった「なめくじ横丁」ないしは「なめくじ長屋」と呼んだ借家で暮らしていた。このエピソードは、昭和初期にはかなり有名で、落語好きならたいていの人は「なめくぢ長屋(横丁)」の噺を知っていただろう。おそらく、作家たちの多くも知っていたにちがいない。いまだ志ん馬時代だった、5代目・志ん生の「なめくぢ長屋(横丁)」について、1981年(昭和56)に出版された『芸能らくがき帖』所収の、吉川義雄「旗本くずれの噺家・古今亭志ん生」から引用してみよう。
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 志ん生ほど噺家になって名前を変えた人も少ない。住む家も葛飾北斎ほどではないが転々と変えた。大正の末に本郷の動坂から、山の手線の内ッ側(かわ)は家賃が高くって住めないから巣鴨、新宿の外れの笹塚へと引(し)っ越し、遂には夜逃げ同様に、川向うの本所業平橋の長屋へ移る。ナメクジを見つけては食ったという、嘘にしろ有名になった、“なめくじ長屋”である。志ん生にうっかり物を貸すと、みンな質(ひち)に入れられてしまうという時代だった。「寝てェたら死んだ夢を見た。こりゃァ冥土だナ、悲しくもなんともない。何ンにも欲しいものなンか、無(ね)えンだから」(カッコ内引用者註)
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 このとき、古今亭志ん生は40代の盛りだが、上落合で暮らした数多くの文学者たちと同様に貧乏のどん底にいた。このあと、すぐに7代目・金原亭馬生を襲名している。
 
 尾崎一雄は、1933年(昭和8)秋に「なめくぢ横丁」へ引っ越し、そこで1年ほど暮らしたあと、翌1934年(昭和9)9月には下落合5丁目2069番地(現・中井1丁目)へ転居している。西武電鉄Click!の中井駅Click!も近い、のちの林芙美子邸の斜向かいにあたる借家だ。上落合と下落合の住所は、妙正寺川Click!をはさみ300mほどしか離れていない。

◆写真上:旧・上落合2丁目829番地にあった、「なめくぢ横丁」の現状。現在は、商店街も近い便利な住宅地となってしまい、当時の面影はまったくない。
◆写真中上:上左は、1950年(昭和25)に中央公論社から出版された『なめくぢ横丁』。上右は、1937年(昭和12)に撮影された尾崎一雄。下左は、1967年(昭和42)撮影の尾崎一雄、下右は、出世作となった1937年(昭和12)出版の『暢気眼鏡』(砂子屋書房)。
◆写真中下:上落合の住民たちで、檀一雄(左)と古谷綱武(右)。
◆写真下:左は、旧・下落合5丁目2069番地の尾崎一雄宅跡で林芙美子記念館の斜向かいにあたる。右は、いまでもファンが多い5代目・古今亭志ん生。