目白通り沿いの近衛新邸Click!の敷地内、下落合437~456番地に創立された目白中学校Click!(東京同文書院Click!)は、1915年(大正4)の春より校内誌『桂蔭』(非売品)の発行をはじめている。編集長は、同中学校次長(のち校長)だった柏原文太郎Click!であり、誌面に原稿を寄せたのは同校の生徒監(教員)や卒業生、あるいは現役の生徒たちだった。
 寄稿者の作文は、それぞれ専門分野の論文や随筆、紀行、詩歌などさまざまだが、同誌には目白中学校で行われていた遠足やクラブ活動などの報告も掲載されている。『桂蔭』は、単なる校内文集という性格だけでなく同窓会のメディアとして、あるいは地方出身で東京へと勉強しにやってきた生徒の親たちへ、学内活動の報告メディアとしての役割りも果たしていたらしい。同誌の発行は毎年1回、新年度がスタートする3月ないしは4月に印刷され配布されたようで、奥付には3月末ないしは4月の発効日が見られる。基本的にはインナーツールだった『桂蔭』だが、めずらしく古書店で数冊手に入ったので、その内容をつれづれご紹介したい。
 1922年(大正11)3月末に発行された『桂蔭』第8号には、同校の出身県別の生徒数が記録されている。創立当初は、おそらく東京市内からの通学者ばかりだったと思われるのだが、このころになると大学並みの教師陣と中学野球大会における数度の優勝によって評判を呼び、全国的にも知名度が高まっていただろう。東京市内では公立なら一中Click!、私立なら目白中学という選択肢が語られていたころだ。生徒たちの県人別をみると、ほぼ全国の道府県はもちろん当時は日本の植民地だった朝鮮や台湾、さらに中華民国からも生徒が留学していたことがわかる。もっとも多いのは東京府の385名で、もっとも少ないのが徳島県の1名となっていた。以下、出身県別の生徒数を一覧表にしてみよう。

 上位を関東各府県の出身者が占める中、新潟県出身の生徒が相対的に多いのが目立っている。次いで、関東以外では昔から教育県といわれていた長野県が多い。また1922年(大正11)現在、校長・細川護立Click!や次長・柏原文太郎、教頭・門脇三徳、名誉学監・十時彌は別にして、生徒たちの授業を担当する教師は29名が勤務していた。

 
 生徒たちは放課後、いずれかのクラブに属して活動をしても、また下校して好きなことをしてもよかったようで、それらの課外活動は『桂蔭』の巻末に報告が載せられている。当時のクラブ活動は、学芸部門が弁論部・文芸部・図書部の3部、運動部門が運動会・遠足会・剣道部・柔道部・相撲部・庭球部・野球部・徒歩部の8部が設置されていた。これらのクラブ活動の成果は、『桂蔭』の巻末に紹介されており、特に運動部の場合は他校との交流試合などの結果が詳細に記録されている。そのほか、同好会のような部活もあったようで、美術教師の清水七太郎Click!が創立した美術団体「目白社」も、学校が運営するクラブ活動というよりは、OBや交友も自由に参加できる同好会的なスタンスだったようだ。
 目白社は、目白中学の校舎内で毎年秋に展覧会を開催しており、展示会場には同校の教室や廊下などの空いたスペースが使用された。当初は洋画が主体だったが、1921年(大正10)の秋より写真作品の募集もはじめている。つまり、目白社は同年から、美術部と写真部とを合わせたような同好会として再スタートをきっている。同年の展覧会には洋画が63点、新たに募集がスタートした写真が24点も展示された。当時、カメラはかなり高価だったと思われるが、開始早々の写真部門に7人の生徒たちが参加しているところをみると、かなり裕福な家庭の子どもたちが多かったようだ。


 これらの絵画や写真のタイトルには、明らかに落合地域やその周辺を描いた、または撮影したと思われるものが含まれている。たとえば、洋画では顧問教師の清水七太郎による『風景』『郊外の冬』『校内風景』『テニスコート』をはじめ、生徒または交友の熊代勇吉『冬枯れの丘』『晩秋風景』『風景(射的場)』、長瀬得三『郊外の冬』、成田實『静かなる小路』、寺尾龍助『午後の秋』、小川薫『風景』、宇井恒『秋』、湯川尚文『落日(江戸川にて)』などだ。また、写真部門では加藤總一郎『池畔』、横溝光『雪の戸山ヶ原』、金子喜一『水車のある風景』『夏の川辺』『風景』、宇田川秋次郎『秋の戸山ヶ原』『晩秋の神田川』など、明らかに目白中学校のある下落合やその周辺域を想起させるタイトルが並んでいる。
 美術教師の清水七太郎は、雑司ヶ谷墓地も近い高田町雑司ヶ谷水久保245番地に住んでおり、英語教師の金田一京助Click!とはかなり親しかったようだ。金田一はこの時期、本郷区森川町1番地に住んでいたが、清水七太郎の家へ生まれたばかりの子どもの顔を見にわざわざ出かけている。その途中、清水といっしょに雑司ヶ谷墓地を散策したらしく、『桂蔭』第8号には「きんたいち京すけ」のペンネームで詩稿を寄せている。
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 雑司ヶ谷の墓地-清水君に-  きんたいち京すけ
 君のとこのあかんぼを見に/君に附いて/ゆくりなく過ぎる雑司ヶ谷の墓地
 がらんとした墓場のしづけさ/そのなかで/どこかに鶯の声がする
 どこかの新しい墓の中で/幼な児の泣いてゐるのではないか/墓地のうぐひす
 しんとして魂までもひびき/さびしくも又うつくしい/墓地のうぐひす
 墓地の片隅に/暖く日を浴びて/真昼に咲いてゐたあの一本の白梅
 ひつそりしあたの墓場を背景に/満開に咲いてゐた梅の面影が/忘れともない
 霜融けの遅い墓地の小みちを/われらは語りながら過ぎた/それは君と二人だつた
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 運動部の中で、「遠足会」と「徒歩部」というのが聞きなれないが、今日の表現を当てはめてみると前者は東京近郊まで列車で出かけていく「ハイキング部」であり、後者は近くの名所旧跡をめぐる「街歩き部」というような位置づけだろうか。1924年(大正13)春の『桂蔭』第10号には、「遠足会」による湘南プチ旅行のレポートが掲載されており、当時は東京人あこがれの別荘地・大磯Click!の千畳敷山(湘南平Click!)や鴫立庵Click!、照ヶ崎Click!などへ立ち寄った紀行文が記載されているのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:目白通りに面した、下落合437~456番地の目白中学校跡の現状。
◆写真中上:上は、目白通りから眺めた目白中学校。下左は、1922年(大正11)3月に発行された『桂蔭』第8号の表紙。下右は、同誌の奥付。
◆写真中下:上は、教職員の記念写真で円内は校長・細川護立(右)と次長・柏原文太郎(左)。後列右から3人目が金田一京助(英語)、後列左端が清水七太郎(美術)だと思われる。下は、同じく教職員の集合写真で前列左から3人めが次長・柏原文太郎(実質は校長)、後列左から2人めが清水七太郎、後列左から6人めが金田一京助だと思われる。
◆写真下:左は、雑司ヶ谷墓地もほど近い清水七太郎の自宅があった高田町雑司ヶ谷水久保245番地。右は、「桂蔭」会への参加規則。