以前から、目白文化村Click!の第一文化村と第二文化村は、1945年(昭和20)4月13日(金)夜半に来襲したB29による第1次山手空襲で焼失Click!したと記述してきた。その根拠は、こちらでもご紹介している第二文化村に住んでいた星野剛男による戦時中の克明な「星野日記」Click!と、1991年(平成3)に日本経済評論社から出版された野田正穂Click!/中島明子・編『目白文化村』に書かれた記述からだ。しかし、4月13日夜半の空襲で星野邸が焼けたのは事実だが、少なくとも第一文化村の家々は焼けてはいない。
 この事実が判明したのは、米国防総省が公開したB29偵察機による戦時中の空中写真が、日本でも精細なデータで入手できるようになったからだ。米軍は、4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を実施するにあたり、4月2日(月)に爆撃予定域へ2機のB29を飛ばして事前に偵察飛行Click!を行なっている。落合地域の上空に限ると、空撮の標定図によれば西落合の自性院Click!上空で1枚めのシャッターを切り、つづいて“敵性外国人”が強制収容されていた下落合の聖母病院Click!上空で2枚めのシャッターを切っている。
 4月13日夜半の空襲後、その爆撃効果の測定と5月25日(金)夜半の第2次山手空襲への準備として、5月17日(木)に二度目の偵察飛行を実施している。5月17日の偵察飛行は、落合地域からだいぶ外れていて、板橋区の板橋第五小学校の上空で1枚めのシャッターを切り、つづいて目白台の日本女子大学の上空あたりで2枚めのシャッターを切っている。4月2日とは異なり、落合地域を真上から撮影したものではないが、1枚めでは下落合が画面の下部に、2枚めでは下落合が画面の左下にとらえられている。この2回にわたる偵察写真を比較すれば、4月13日夜半の第1次山手空襲で焼失した部分と、延焼をまぬがれた部分とが一目瞭然で判明する。
 さらに、1945年(昭和20)5月17日に撮影された空中写真と、戦後の1947年(昭和22)7月9日(水)に米軍が爆撃効果測定用として、低空で詳細に撮影している空中写真とを比較すれば、5月25日夜半の第2次山手空襲で焼失した部分と、敗戦までなんとか焼け残っていた部分もほぼ規定することができる。つまり、従来は曖昧だった空襲による被害を、米軍の二度にわたる爆撃準備のための偵察写真によって、明確に規定できるというわけだ。
 では、目白文化村への空襲について、前掲書『目白文化村』から引用してみよう。
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 目白文化村一帯の空襲は一九四五年四月一三日夜から一四日明け方にかけてであった。この時の様子を第二文化村に住んでいた安倍能成は「始めは火災を防ぎ、そのかひなきを見て、我々夫妻と共に御霊神社下の洞穴に避難した」と書いている。また、會津八一は、枕元の鞄をとっさにつかみ、洋傘を杖として、養女の手をとって逃げたという。そしてこの時のことを「ひともとの かさ つゑつきて あかき ひ に もえ たつ やど を のがれける かも」という歌を残している。(中略:空襲の証言引用)/焼夷弾が落ちた第一文化村では、五十何軒かのうち焼け残ったのはたった四軒であった。そのうちの一軒の家は焼夷弾が落ちたものの、不発弾で助かったという。/こうして文化村では半数以上の家屋が焼失し、大勢の人が焼け出されることになった。自分の育った家、生活の場であった家、家財や思い出の品が跡形もなく消えてしまった人びとの胸中はどのようであっただろう。
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 この記述は、おそらく4月13日夜半の第1次山手空襲と、5月25日夜半の第2次山手空襲の証言とが混同されていると思われる。確かに、第二文化村にあった安倍能成邸Click!や星野邸は、4月13日夜半の空襲で焼失しているのだろう。しかし、第一文化村の会津八一邸Click!(文化村秋艸堂)が焼失したのは5月25日夜半の空襲だったのではないか。なぜなら、5月17日にB29偵察機が写した空中写真には、第一文化村の前谷戸Click!周辺の家々が焼けずに残っているのを確認することができるからだ。第一文化村は、4月13日夜半の空襲で焦土になってはいない。会津八一は、4月13日夜の空襲時にも当然避難していると思われるが、5月25日夜の空襲で文化村秋艸堂が罹災し、焼け出されていると思われる。



 また、空襲後は目白文化村から目白駅のほうまで、一面が焼け野原で見わたせたという証言も、4月13日の空襲後のことではないだろう。4月13日の空襲は、鉄道駅や河川沿い、幹線道路沿いなどを爆撃したもので、3月10日の東京大空襲Click!のように、住宅街全体を無差別に絨毯爆撃したものではない。無差別の絨毯爆撃により、下落合や北側の目白町、長崎地域が焼け野原になるのは5月25日夜半の第2次山手空襲だ。
 つまり、山手線に近い旧・下落合東部の住宅街は、4月13日の空襲では目白駅付近(金久保沢Click!と近衛町Click!の北部)を除いては被害らしい被害を受けてはおらず、目白文化村から目白駅方面まで見わたすことは不可能だったろう。目白文化村から目白駅方面までが見とおせるほど、下落合東部の街並みが大きなダメージを受けるのは5月25日の第2次山手空襲だ。そして、同空襲により焼け残った第一文化村の家々も、「四軒」を残して炎上しているものと思われる。
 目白文化村に限らず、1945年(昭和20)5月17日の空中写真から、4月13日夜半の第1次山手空襲の被害を見てみよう。まず、山手線の高田馬場駅Click!や目白駅、池袋駅といった鉄道沿いが爆撃目標になっているのは明らかだ。下落合を例にとれば、目白駅周辺に爆撃が集中しており、金久保沢から近衛町の住宅街北部のほぼ3分の1を焼失している。また、目白通りをはさんだ北側の目白町3丁目も線路沿いが罹災している。そして、旧・神田上水沿いの家並みも爆撃された様子が確認できる。偵察写真では、画面の枠外に切れていて見えないが、妙正寺川沿いの中小工場と第二文化村も罹災していると思われる。
 目白通り沿いでは、江戸期より街並みが形成されていた旧・椎名町Click!(目白通りと山手通りの交差点界隈)が、集中して爆撃を受けている様子がわかる。おそらく、米軍は既存の地図類を参照して情報を得ており、この界隈が住宅密集地であり繁華街であったのを知っていたのだろう。爆撃は、目白福音教会Click!の西側から、小野田製油所Click!の手前にかけて行われており(焼失しており)、これにより第三文化村の北部、第一・第二府営住宅が罹災している。第三文化村に近接した佐伯アトリエClick!が、延焼の脅威にさらされたのは4月13日夜半の空襲時だ。


 だが、第二府営住宅の南側にある第一文化村と、第二府営住宅の西側にある第三府営住宅は、爆撃の被害をほとんど受けてはいない。目白文化村に限ってみると、第一文化村に切れこんだ谷戸である前谷戸の北側、すなわち第二府営住宅とは二間道路を隔てて接しており、延焼の舌先が二間道路にまで達している北端の永井邸や伊藤邸、穂積邸などは、建物は焼失していないものの被害を受けているのかもしれないが、谷戸の南側にあたる石田邸や藤崎邸、名井邸、古部邸などは罹災していない。また、三間道路をへだてたさらに南側の神谷邸や高島邸、笠松邸などの家々も健在だ。高島邸の南隣りにある会津八一邸(文化村秋艸堂)もまた、焼失しているとは思えない。つまり、『目白文化村』に掲載されている証言のうち、焼け跡の地面から収集品の破片を探している会津八一の目撃談は、5月25日夜の第2次山手空襲直後のことだろう。
 同年3月10日の東京大空襲では、その翌日あるいは翌々日に爆撃効果を測定する偵察飛行が行われている。大川沿いの下町Click!はいまだ炎上中であり、偵察写真が撮られたあとも焼失した街角が少なからずあっただろう。だが、第1次山手空襲後の偵察写真は、4月13日から1ヶ月以上も経過した5月17日に撮影されている。したがって、撮影後の延焼で第一文化村が焼けたとは考えられない。つまり、第一文化村の家々は5月17日の時点でも焼失することなく建っており、以前こちらでもご紹介している会津邸の斜向かいに建っていた中村邸Click!に保存されている、中村様が空襲直後に撮影した第一文化村が一面焼け野原の写真Click!もまた、5月25日の第2次山手空襲の直後に撮影していると思われるのだ。また、目白文化村より西側のアビラ村(芸術村)Click!地域は、戦後の1947年(昭和22)7月に撮影された空中写真を見ても明らかだが、二度にわたる山手空襲の被害をほとんど受けてはいない。
 目白通りをはさんだ長崎町側の被害は、建設中の改正道路(山手通り)に沿って爆撃が行われている。当時の住所表記でいえば、椎名町2丁目から3丁目の山手通り沿いの家々が狙われている。ただし、椎名町3丁目側は目白通りと山手通りの交差点から、武蔵野鉄道の椎名町駅の南側までの被害で止まっているが、目白町寄りの椎名町2丁目は武蔵野鉄道を越えてさらに北側まで延焼しているのがわかる。


 さて、1945年(昭和20)5月17日の偵察写真では、ようやく目白通り沿い南側の幅20mにわたって実施された、建物疎開Click!の様子を子細に観察することができるのだが、その実施時期が同年4月2日から5月17日までの間だったことが判明している。この45日間、いずれかの時期に行われた建物疎開のテーマについては、またもうひとつ、次の物語……。

◆写真上:これらの写真は、B29偵察機の搭乗員が眼下に見た光景そのままであり、70年後に目にするのは不思議な感覚にとらわれる。1945年(昭和20)5月17日に撮影された、爆撃目標で破壊された目白駅と金久保沢から下落合は近衛町北部にかけての被害。
◆写真中上:上は、第1次山手空襲直前の1945年(昭和20)4月2日に撮影された下落合。中は、第2次山手空襲直前の同年5月17日に撮影された下落合の東・中部。下は、同日に撮影された別角度の写真で神田川沿いはもともと建物疎開(防火帯36号線)で工場や住宅は取払われていたが、さらに爆撃で落合、戸塚、高田地区は破壊しつくされている。
◆写真中下:上は、5月17日撮影の焦土になった第二府営住宅だが、第一文化村の家々は焼けていないのが見える。下は、戦後の1947年(昭和22)7月9日に撮影された下落合。
◆写真下:上は、爆撃で被災した聖母病院の周辺。第三文化村の北側エリアには、いまだ罹災していない住宅がいくつかありそうだ。また、佐伯アトリエが焼けずに残っているのがとらえられている。下は、徹底的に破壊された高田馬場駅と諏訪町・戸塚地域。