大酒飲みで幻覚を見るほど錯乱し、最後には縊死してしまった破滅型の洋画家・片多徳郎Click!が暮らしていた、下落合732番地のアトリエ斜向かいに、これまた大酒飲みでポケットウィスキーを手放せない牧野虎雄Click!が、下落合の北隣りである長崎町1721番地から引っ越してきてたのは、1937年(昭和12)のことだった。
 アトリエをかまえたのは下落合2丁目604番地で、下落合(2丁目)623番地の曾宮一念Click!のアトリエClick!とは土井邸をはさんで東隣りにあたる位置だ。この土井邸は、佐伯が描いた『下落合風景』シリーズの「浅川ヘイ」Click!に名前の残る浅川邸だった敷地だ。牧野虎雄はここを拠点に、室内や庭、また周辺の風景をモチーフに作品を残した。文展や帝展を中心に活躍した牧野は、旅行が好きでなかったせいかあまり遠出はせず、自宅とその周辺に画因を求めている。
 牧野虎雄というと、1922年(大正11)から下落合540番地の大久保作次郎Click!のアトリエClick!近く、長崎村荒井1721番地で暮らしていた印象が強い。それは、牧野の初期代表作である『凧揚げ』(1924年)が特に有名なせいもあるだろう。赤い屋根のモダンな家が見える長崎村の草原で、女の子が凧(たこ)あげをしている情景を描いたものだが、豊島区の資料でもしばしば登場する作品だ。牧野自身も凧あげが大好きだったようで、下落合のアトリエの壁にはめずらしい凧がいくつか飾られていたのを、曾宮一念が目撃している。1963年(昭和48)に東京都庭園美術館で開かれた、「牧野虎雄・曾宮一念」展図録の「落合の一人居」から、曾宮の言葉を引用してみよう。
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 美術学校で牧野は四年上だが卒業後研究科で知った。その人が震災後落合に越して来た。一人居で近づき難い孤高の先輩を私も訪ね彼も来た。/牧野と我が家の間に欅と野仏があり、武蔵野の名残があった。「麦の道と少年」「朝顔」「箱根風景」はこの時代の作と思われる。珍しい凧が壁に吊され、笑いをこらえている子供の画もあった。独り湧き出る笑いを少年に託した画と思う。四谷の新居に移った後に私は富士の吉原に疎開した。/牧野重態の噂で四谷に見舞うと、田沢田軒と猪口を手にしていたが、色白の顔は土色に変っていた。/二十年私はB29の列に追われてついに牧野の訃報をうけられなかった。
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 牧野虎雄は戦後、和歌山へ旅行したあと、1946年(昭和21)10月18日に食道癌が悪化し56歳で死去しているので、「二十年」と書いている「訃報」は曾宮の記憶ちがいだと思われる。
 
 
 牧野虎雄は、東京美術学校の森田亀之助Click!がプロデュースした、下落合の画家たちを集めた湶晨会(せんしんかい)Click!にも参加して作品を出展している。金山平三Click!、安井曾太郎Click!、曾宮一念Click!、そして牧野虎雄の4人が参加した湶晨会は、太平洋戦争の直前にもかかわらず、軍事色のない美術展として特異な存在だったろう。もし健在であれば、森田亀之助は中村彝Click!にも声をかけ、また親しかった佐伯祐三Click!も加えた6人展にしていたかもしれない。この湶晨会を通じて、曾宮一念は牧野と急速に親しくなったと思われる。
 また、金山平三とは帝展改組の第二部会Click!を結成し、実力がないのに自分の弟子だからという理由で優先的に入選させる情実鑑査や、盆暮れにわいろを受け取って選考に手ごころを加える審査員の腐敗を糾弾して、帝展への出品をいっさい拒否している。文展・帝展とも、とうに無鑑査になっていた牧野だが、1935年(昭和10)に「帝展不出品同盟」を結成し、金山とは第二部会以来の“同志”だった。このあと、牧野は東京美術学校の教授も辞めている。
 下落合のアトリエで描かれた牧野の作品には、箱根へ出かけて描いた『函嶺風景』(1939年)などは別にして、やはり室内や庭先、近所の風景が多いようだ。湶晨会展にも、室内の生物や庭先、下落合の近所を写生したらしい作品を出展している。まず、1940年(昭和15)に描かれた『春』は、どこかの崖地に建っている庭先から、谷間へと落ちる斜面の草木を描いたように見える。翌1941年(昭和16)ごろの『杏』は、逆に崖下の畑らしい平地から、杏の樹木ごしに少し高くなった丘陵を写している。当時の下落合西部、特に金山平三たちが住んでいたアビラ村Click!の西側界隈には、いまだこのような風景が残っていただろう。
 
 
 下落合のアトリエで描かれた静物には、花瓶に挿したケシの花や実がよく登場している。これは、同時期にケシClick!のスケッチをしていた曾宮一念とも共通するモチーフだ。曾宮は、自宅庭の花畑へケシも植えており、ひょっとすると牧野虎雄は曾宮から庭で育ったケシをもらい、アトリエに持ち帰って描いているのかもしれない。同時期には、アサガオやカキの実、ナシの花、白ツバキ、白ユリなどをモチーフに静物作品を制作している。1940年代に入ると、風景作品が減り静物画が急増するのは、洋画家が「非常時」に屋外で写生などをしていると、「非国民」呼ばわれされ特高Click!に検束されかねない状況だったからだ。
 1941年(昭和16)11月、日米開戦の直前に日本橋高島屋で開かれた湶晨会展への出品作品も、身近な風景や静物が中心だった。おそらく、下落合の牧野アトリエの庭先を描いたと思われる『雨後の夕映』と『風景花葵』、室内で描かれた『白ゆり』の3点が出品されている。いずれも植物をモチーフにしており、長崎のアトリエでよく描かれた人物作品は少ない。
 牧野虎雄は、和服の懐中にポケットウィスキーを常時携帯していたようで、片多徳郎に劣らず酒好きだった。みずから「瓢人」と号し、「酒訓」と題する戒めを書に残している。
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  酒 訓      瓢人
 沢山のむが自慢になり候はず、それば酒量を誇ること禁物に候。飲みて楽み愉快なるは可、酔ふて乱れ狂ひ人々迷惑なるは醜く甚だ頼もしからず候。各自己れの分量にて我慢をされ度くいづれも酒のみのたしなみに候。右よくよく御承引の上は酒来らすべく候。
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 牧野はスポーツが得意だったようで、中でも野球Click!はやるのも観戦するのも好きだった。また、芝居好きClick!だったらしく、金山平三と親しかったのもうなずける。芝居を観たあと、銀座のバーに寄りウィスキーを痛飲していたようで、死期を早めたのはまちがいなく酒だったのだろう。

◆写真上:旧・下落合2丁目604番地(現・下落合4丁目)の、牧野虎雄アトリエ跡の現状。
◆写真中上:上左は、酒を片ときも手から離さない牧野虎雄で背景は長崎1721番地のアトリエ。上右は、1931年(昭和6)に制作された牧野虎雄『自画像』。下左は、1940年(昭和15)に描かれた牧野虎雄『春』。下右は、1941年(昭和16)ごろに制作された牧野虎雄『杏』。
◆写真中下:上は、1940年代の前半に制作されたとみられる、牧野虎雄『けし』(左)と『芥子の実』(右)。下は、1938~1945年のスケッチブックより牧野虎雄『朝顔』(左)と『柿の実』(右)。
◆写真下:上は、湶晨会展へ出品するため1941年(昭和16)に制作された、牧野虎雄『雨後の夕映』(左)と『風景花葵』(右)。下は、牧野虎雄が酒飲みの戒めとして書いた「酒訓」。