先日、上鷺宮の三岸アトリエClick!で「まちかどの近代建築写真展 in 三岸アトリエ」が開かれたので、さっそく美術関連の友人を誘って出かけてみた。早めに着きすぎてしまい、スタッフのみなさんはいまだ準備中だったので、妨げにならないように拝見する。今回のテーマは、全国各地に残る学校建築だった。小道さんClick!が、せっせと準備をされているので邪魔をしないように気をつけて、あまり長居をしないようにした。
 今回の展覧会には、中野区の田中区長が「可能ならうかがう」との返事だったようなのだが、時間の都合がつかなかったものだろうか、残念ながらみえなかったらしい。新宿区の中山区長Click!や、お隣り豊島区の高野区長Click!のように、区内の歴史的建造物や文化財の保護・保存には敏感で積極的な姿勢を見せてほしいものだが、中野区は両区とはまた事情が大きく異なるのだろうか? ぜひ、行政の責任者には、文化庁の登録有形文化財である三岸アトリエを実際に見てほしいものだ。そして、これからの街づくりには不可欠なテーマである、人が集まる街、人が住みたくなる街をめざして、歴史的な資源や文化財のインフラ整備を推進・充実してほしい。
 さて、小道さんは三岸アトリエの手作り“アンパン”と交換で、三岸アトリエが掲載された『住宅』Click!を同アトリエに寄贈されたらしい。ww 住宅改良会Click!が発行する『住宅』は、下落合に建てられた西洋館を中心に、こちらでも繰り返し取り上げてきているが、三岸アトリエが載る貴重な号は1935年(昭和10)発行の『住宅』2月号(特集:食事室の研究)だ。三岸アトリエの外・内観はもちろん、山脇巌が組み立てたアトリエ模型や、1階・2階の平面図、三岸好太郎自身による設計段階におけるアトリエのイメージ図、そしてアトリエ各所のカラーリングや素材など、同アトリエが竣工した当初の姿を詳細に伝える貴重な内容となっている。この資料さえあれば、初期型の三岸アトリエを再現するのは、それほど困難ではないだろう。
 東側から見た外観写真に、「軸部は木骨、外観は木骨ラス張り、モルタル下地に白色ネールクリート吹付け、金属部分はホワイトブロンズ、又はアルミナペイント仕上げ。玄関入口は暗赤色ペイント塗り。」というキャプションが添えられており、いままでモノクロ写真の濃淡調でしか知りえなかったったアトリエの色彩を、具体的に想像することができる。三岸好太郎の死後、1934年(昭和9)10月末に竣工したアトリエだが、『住宅』の取材記者(桑澤千代)は節子夫人Click!の言葉もまじえ、アトリエのデザインや“趣味”を次のように記述している。同誌から引用してみよう。
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 故三岸好太郎氏の最近の作品は、殊にかうした造形的なロマンスに満ちたものであつて、独立美術誕生の頃の作品と較べて色々な事をおしへられる。当時の代表作と見られるピエロと、此頃の貝殻や蝶の姿をかりてカンバスにあらはれた、立体的な夢幻的なフオルムと色への接近をくらべて見ると面白い。/三岸夫人の言葉をかりると、『ジヤンネレ(コルビユジエー)やオザンフアンの影響をうれた』さうだが、さうでなくとも氏の日常あらはれた服飾や、立体的なものへの恐ろしいまでの執着を見れば、此頃の傾向がよくわかる。氏が色の濃いネクタイを神経質に取変へていつた気持、アルコールづけの美しい心臓や、軍艦の模型を愛好しはじめた気持も亦わかる様だ。それはパウルシエールバートが詩によんだ様な、光と(硝子と)色との建築ではなかつたらうか。/バウハウスから帰朝されて、はつきりした建築の仕事を始められたばかりの山脇巌氏が、かうした友人と久しぶりでめぐり合つて、『絵と建築の間を真直にどこまでも続いてゆく』話の中から、色々な共鳴をお互の仕事のうちに見出した事は事実だつたらうと思ふ。
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 文中のカナ文字は「ジヤンネレ」=ピェレ・ジャンネレ、「コルビュジェー」=ル・コルビュジエ、「オザンフアン」=アメデエ・オザンファン、「パウルシエールバート」=パウル・シェールバートのことだが、三岸好太郎が当時の先端を走る“建築デザイン”へ、並々ならぬ関心を抱いていたことがうかがわれる。換言すれば、「蝶と貝殻」からもう“次のこと”を考えていた……といえるかもしれない。
 また、掲載されている取材者が作成したとみられるスケッチメモは、山脇巌や三岸節子への聞き取り調査を通じての情報をもとに起こしているらしく、最初期に想定されていた調度品の用途やカラーリングなど、三岸好太郎の“こだわり”が随所に感じられて面白い。やはり螺旋階段は、アトリエ内にあえてバルコニーを設置しない代わりに、大きなサイズのキャンバスを上から見下ろすためと、同時に中二階の書庫兼書斎へ上がるための兼用として設置されたようだ。でも、三岸好太郎の作品には、300号キャンバスを超えるような、制作過程で上から見下ろさなければならない作品は存在せず、将来的な仕事を夢想しての設置だったのかもしれない。
 さらに、北面の様子がよくわかる写真も掲載されている。現在は、北側からアトリエ2階の書庫兼書斎の部屋やアトリエ西北隅にある天袋のような物置きへと上がる、新しい時代の階段が設置されているが、当初はアトリエの壁面に埋めこまれた鉄製のハシゴ段を壁づたいに垂直に登って、高い位置にある物置きへと登り降りしていたことがわかる。これでは、足の悪い節子夫人が利用しづらく、アトリエの竣工からそれほど間をおかずに、北側の階段部屋が増築されているのではないかと思われる。
 節子夫人が、南側に大きく口を開けた、射光の角度が刻々と移り変わる巨大な窓からできるだけ遠ざかり、この物置の下あたりで仕事をしていた理由もよくわかる。物置やトイレの横には、天井へ少し切れこんだ北側の採光窓が穿たれていたからであり、このアトリエ内では唯一、安定した光線を得られるスペースでもあったからだろう。三岸好太郎は、北側からの安定した光を必要とする、モチーフを観たまま写生するような仕事は、これからは減りこそすれ増えはしないだろう……と考えていたものだろうか。事実、晩年には夜間に仕事をすることが多くなっていたようだ。

 
 
 山脇巌が記憶していた、三岸好太郎の言葉も取材者は採取している。
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 『決定までに三回程図面をひきなほした。』 そして、『三岸さんが旅行から帰ると、その度に三岸さんらしい新しい夢を持つて帰つた。』と山脇氏も云つてゐる。/三岸氏の夢を文字にして見よう。『北は一面の壁で、三方全部を開け放つた硝子建築』 『黒と白ばかりの部屋、そして色々な絵をかける壁のある―色のある絵によつて、尚引立つてくる色のある部屋(色と明暗に対する鋭い感覚は、氏の最近の作品がはつきり物語つてゐる。細かいペンを用ひたデツサンやガツシユにあらはれた黒と白のつかひわけ、或ひは紫、赤の特殊な色のつかひわけ等。)――画室の壁はグレイがいゝ、今迄の画室は白の系統が多いが、灰色の中で素晴しい製作がして見たい』 『画室には、くるくると天井にまで延びてゆくスパイラル(渦巻)の銀色の階段――こゝから絵を見下すのも面白い。』 『冬は東南の暖かい陽を浴びて、光の中で夢の様な暖かい製作をする』 『アトリエの前にはキラキラと陽に光る池を、水蓮の花がぽつかりと咲いた池を、そして水面で曲折した陽の光が、白いアトリエの天井でくねくねと躍つてゐる』………
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 アトリエに付属した応接室が、独立した部屋でないのも面白い。以前、下落合の遠藤新Click!が設計した小林邸Click!でもご紹介したが、昭和期に入ると住宅の中で居間や食堂、応接室といった個々に独立した部屋が少なくなり、応接室や食堂を居間つづきのスペースにし、間を簡便な引き戸やカーテンで仕切る建築例が増えてくる。これは、邸内でいちばん快適な南向きの部屋を来客用の応接室にあてるという、従来の設計思想を否定する流れとともに、各部屋を用途によって拡げたり仕切ったりという、フレキシブルな間取りが可能な新しい考え方によるものだ。居間に大勢の人々が集まるときは、食堂との間仕切りを開放して広いスペースを確保する……というような、新しいライフスタイルの必要性もあっただろう。三岸アトリエでは、画室と応接室の間を簡易な引き戸にし、必要なときはできるだけ広い仕事場を確保できるように設計されている。
 三岸アトリエは、カラーリングがしぶく全体的にシンプルな設計なのだが、いわゆる使いやすくて機能的という方向性のアトリエとは、かなり異なる印象を抱く。機能的であるなら、物置きを天井近くに設置して鉄梯子で登ったり(大きな荷物は運びにくい)、2階への階段をわざわざ螺旋にしたり、あるいはそもそも職業がら南側に大窓など設置しないほうが、よほど機能的で効率的だと思われるからだ。三岸アトリエは、三岸好太郎の趣味や美意識、デザイン性をふんだんに反映した、キャンバスの平面ではなく初の“立体作品”としてとらえたほうが、むしろ適切なのかもしれない。おそらく、三岸は壁面を飾る自身の作品Click!(大画面?)をさえ、すでに構想していたのではないだろうか。
 
 
 
 ちょうど三岸アトリエと同時期に、下落合1丁目404番地の近衛町にある旧・岡田虎二郎Click!邸跡地には、山口蚊象の設計による安井曾太郎アトリエClick!が竣工している。安井曾太郎Click!は、それまで下落合に建てられたあまたのアトリエとは異なり、装飾や見栄えのよさを排除し、徹底した機能性を備えた“仕事場”としてのアトリエを追求している。でも、それはまた、別の物語……。
※岡田虎二郎は生前、下落合356番地に住んでいたことがわかり、近衛町の下落合404番地は彼の死後、大正末に家族が転居した住所であることが判明Click!した。

◆写真上:2階の書庫兼書斎へと上がる、螺旋階段を真下から。
◆写真中上:上左は、「まちかどの近代建築写真展 in 三岸アトリエ」入口。上右は、スタッフが準備中だった写真展会場。中は、竣工直後に撮影された三岸アトリエの南東側からの外観。下は、同じく西側からの外観で、いまだヒマラヤスギは植えられていない。
◆写真中下:上は、三岸アトリエの平面図。中は、山脇巌による建築模型。下は、三岸好太郎のイメージスケッチ。いずれも、1935年(昭和10)発行の『住宅』2月号より。
◆写真下:上は、北側に設置された当初の採光窓(左)と北窓の現状(右)。中左は、初期のテラスと「児島のおじちゃんClick!が落っこった」水蓮池。w 中右は、『住宅』1935年(昭和10)2月号の表紙。下は、同誌が制作した初期のアトリエ内のイラスト。