長崎町大和田1983番地(のち豊島区長崎南町3丁目)にあったプロレタリア美術研究所Click!(旧・造形美術研究所)では、どのような美術に関連する講義が開講されていたのか、あるいは講師陣には八島太郎(岩松淳)Click!のほか、どのような人々が教えていたのかが気になっていた。さっそく、豊島区にお住まいの地域史に詳しい方からご教示いただいたので、改めて詳細をご紹介したい。
 造形美術研究所Click!が、初めて美術講座を開いたのは長崎町へ引っ越してきた1929年(昭和4)6月15日の直後、同年8月に第1回の受講希望者を募集している。翌1930年(昭和5)にプロレタリア美術研究所Click!に改称し、さらに特高Click!や憲兵隊Click!の弾圧が激しくなった1932年(昭和7)には、東京プロレタリア美術学校と改めて学校名に変更している。この間、プロレタリア美術の画家やマンガ家を育てる講義は、ずっとつづけられていた。
 さて、プロレタリア美術研究所の詳細で生々しい資料が掲載されていたのは、プロレタリア美術史に関連した書籍ではなく、また当時の左翼関連の史的資料でもなく、すぐにも参照することが可能だった『豊島区史』なのだ。しかも、元資料をもとに同美術研究所のことを解説的に記述しているのではなく、『豊島区史・資料編四』へ当時の警察が押収した資料そのもの、つまり特高警察の「禁止新聞・パンフレット・ビラ類」資料のマイクロフィルムからの写しを、そのまま掲載してくれている。
 1981年(昭和56)に出版された『豊島区史』は、何分冊にもわたる膨大なボリュームの労作なのだが、街で起きた歴史や事件、住民たちの細かな出来事や生活までを、できるだけすくい取って網羅しようとした、都内の自治体が編纂した区史の中でも優れた屈指の仕事だ。かんじんの区民の姿がよく見えない、あるいは行政の事業ばかりを強調する他の自治体の区史に比べると、学術的な側面からも抜きん出た存在のように思える。
 『豊島区史・資料編四』に収録された特高資料から、1933年(昭和8)7月に東京プロレタリア美術学校で開催された夏期講習の学生募集ビラより、冒頭の部分を引用してみよう。
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 プロレタリア美術夏季講習会に際して
 美術を愛好する労働者並に進歩的美術家諸君!/我がプロレタリア美術学校は来る七月十五日より、プロレタリア美術夏季講習会を行ふことに決定した。/諸君も知っている如く資本主義諸国に於ては、その政治的、経済的危機と共に、美術も又袋小路にはいった。反動支配は美術家大衆の憤激と反抗にもかゝはらず、美術家の創作展覧の自由を奪ひ、生活の根底を根こそぎにし、美術家大衆を隷属し貧困にさらす事によって、びっこをひき尻尾をひきずりながらも、一握りのブルヂォアヂーの特権地位を守るために、死にもの狂ひになっている。/ナチスの文化破壊政策は美術界に於ても、ゲオルグ・グロッスやケーテ・コルウィッツ並に自由主義的美術家をも、その弾圧のやり玉に揚(ママ)げている。
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 まさに、日本がすべての自由な言論を圧殺し、軍国主義への道、そしてやがては国家の破滅という未曽有の「亡国」状況へと歩を進めている様子が記録されている。当時の東京プロレタリア美術学校(前年まではプロレタリア美術研究所)の授業料は、夏期講習に限っていえばわずか2円だったことがわかる。これは、月に10~15円も出せばこぎれいな6畳間の下宿が借りられた、当時の物価を考えてもかなり安い受講料であり、貧しい庶民にもなんとか賄えそうな金額だったのだろう。
 そして、この「プロレタリア美術夏季講習会参加よびかけ」ビラには、各学科の講師陣が紹介されている。その中には、「ポスターと漫画に就いて」という講義名で、八島太郎(岩松淳)講師の名前も掲載されている。以下、講師陣を一覧表にまとめてみた。

 また、夏に集中して実施した期間限定の講習会とは別に、東京プロレタリア美術学校が通常の新学期の学生を募集するパンフレットも、1933年(昭和8)7月に制作されている。通常の学期講義は毎日夜間に行われ、おそらく講師陣もほぼ同様の人たちだったのだろう。毎日の講義なので、授業料は夏期講習に比べてわずかに高く、月謝は3円だった。
 
 以下、『豊島区史・資料編四』に収録された特高の押収資料、「東京プロレタリア美術学校、新学期開始に際して青年美術家への訴へ」パンフレットから引用してみよう。
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 プロレタリア美術学校新学期開始に際し青年美術家諸君に訴ふ
 親愛なる青年美術家諸君!/諸君が身を以って経験して居る通り、未曽有の深刻な経済恐慌が今日本を襲って居る。そして恐慌からの出口を戦争に求めて居る資本家・地主と軍事的警察的絶対主義政府の野蕃(ママ)極まりない弾圧にもかゝはらず、革命的出口を求めて果敢に闘争して居る労働者・農民との階級闘争が先鋭化し、労働者・農民の革命的昂揚の波が到る所に高まって居る。
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 1933年(昭和8)の当時、こんなパンフレットを作って街中でまいたら、特高から即座に検束されただろう。このパンフも、東京プロレタリア美術学校の家宅捜査で押収されたか、あるいはパンフを所持している講師か学生を検束して押収したものなのだろう。このあと、東京プロレタリア美術学校は憲兵隊に包囲され、物理的に校舎ごと破壊されるのだが、ギリギリまで政府に抵抗して講義をつづけていた様子がうかがえる。その徹底した破壊ぶりは、まるで今日の中国における「自由美術」の研究機関への弾圧のようなありさまだ。
 
 夏期講習や通常の学期講義の授業料を考えると、講師たちはその給料で借家の家賃さえ払えたとはとても思えない。戸塚町上戸塚593番地の窪川稲子(佐多稲子Click!)宅のごく近く、早稲田通り沿いの借家に家族とともに住んでいた八島太郎(岩松淳)Click!は、毎日、下落合を通り抜けプロレタリア美術研究所(のち東京プロレタリア美術学校)へ講師として通いながら、別のアルバイト的な仕事をこなさなければならなかったろう。そのあい間、毎年開かれるプロレタリア美術展へ出品するために、ヒマを見つけては佐多稲子が目撃したようなタブローを仕上げていたと思われる。

◆写真上:長崎町大和田1983番地にあった、東京プロレタリア美術学校跡の現状。
◆写真中上:左は、1935年(昭和5)ごろに制作されたプロレタリア美術研究所の研究生募集ポスター。右は、プロレタリア美術展の岩松淳こと八島太郎(2列め左端)。
◆写真中下:左は、東京美術学校時代の岩松淳こと八島太郎(右)。右は、1930年(昭和5)に同じ洋画家・新井光子と結婚式を挙げた際の記念写真。
◆写真下:左は、新井光子と岩松信(マコ岩松Click!)。右は、渡米直前の岩松夫妻。