少し前に、上落合2丁目829番地(現・上落合3丁目)の“なめくぢ横丁”Click!に住んでいた尾崎一雄Click!について書いたけれど、きょうは尾崎や檀一雄が住んでいた長屋の向かい側、尾崎にもたまに原稿を発注していたナップClick!の機関誌『戦旗』Click!や『プロレタリア文学』、『人物評論』などの編集者・上野壮夫宅に寄宿していた、ひとりの画家についてご紹介したい。のちに、現代版画家として活躍する飯野農夫也だ。
 茨城県生まれの飯野農夫也は、1931年(昭和6)に栃木県の真岡中学を卒業すると東京へやってきている。中学時代の飯野は友人と絵画部を結成し、しばしば栃木県が地元だった独立美術協会Click!のメンバー清水登之を訪ねているようだ。東京へとやってきた飯野は、すぐにプロレタリア美術研究所Click!へ通いはじめているので、その思想形成は真岡中学時代なのだろう。翌1932年(昭和7)には、文学雑誌『プロレタリア文学』の編集を手伝うために、上落合の上野宅へ寄宿している。飯野は寄宿早々、同誌の美術記者のような役割りで記事を書いていたようだ。
 飯野農夫也は、上落合の“なめくぢ横丁”から西武線・中井駅の踏み切りをこえ、下落合の丘を上り目白文化村Click!の片岡鉄兵Click!が住む第二文化村界隈を通り抜けて、長崎町大和田1983番地のプロレタリア美術研究所Click!(1932年12月以降は東京プロレタリア美術学校)まで通っていた。飯野が師事したのは、東京プロレタリア美術学校の開設名義人であり、当時は長崎南町3丁目4168番地(現・南長崎4丁目)に住んでいた吉原義彦だ。ちょうど、現在の豊島区立南長崎幼稚園の北側、南長崎スポーツ公園に接するあたりだ。だが、1933年(昭和8)に飯野は脚気にかかり、療養と徴兵検査のために茨城県へ一時帰郷している。1934年(昭和9)に、上野壮夫と大宅壮一が雑誌『人物批評』を発刊するにあたり、上野は茨城で療養中の飯野に声をかけ、彼は再び上落合の上野宅へともどっている。
 すでに東京プロレタリア美術学校(旧・プロレタリア美術研究所)は、前年の憲兵隊による襲撃で破壊されおり、飯野農夫也が東京へともどった同年には特高Click!の徹底した弾圧により、プロレタリア美術家同盟もすでに解散していた。このとき、飯野は“なめくぢ横丁”に住む尾崎一雄などの作家たちとも急速に親しくなっている。また、長崎南町3丁目に住む吉原義彦のもとへ絵を習いに通うのも、以前と同様の生活だった。その様子を、1994年(平成6)に創風社から出版された、『1930年代-青春の画家たち』(創風社編集部・編)に所収の、飯野農夫也「吉原義彦」から引用してみよう。
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 私はその年は上野壮夫が大宅壮一、石川正雄と一緒にやっていた月刊総合誌「人物評論」を手伝うことを条件に上野壮夫方に再び同居した。しかしその雑誌がつぶれて失業者の詩人である上野夫妻に大迷惑をかける。尾崎一雄のいう「なめくぢ横町」で私は朝晩隣家の尾崎さんと顔を合わせて昼間は西武線中井駅の踏切を越えて毎日長崎南町の吉原宅へ歩いた。途中に堀田昇一の家があってそこへ寄ると必ず平林彪吾がいた。平林は本庄睦男と共にプロレタリア作家同盟の農民文学委員であって、私はナップの農民芸術委員会(委員長は黒島伝治)の書記でもあったから、本庄や平林とは昭和六年秋以来の付き合いであった。
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 この中に登場する小説家・堀田昇一は、上落合2丁目791番地(現・上落合3丁目)に平林彪吾とともに住んでおり、上落合2丁目829番地の“なめくぢ横丁”から東北東へ150mほどの距離にあたる。堀田昇一はのち、1937年(昭和12)から1939年(昭和14)にかけて、長崎アトリエ村Click!をイメージした小説『自由ヶ丘パルテノン』を「人民文庫」に連載しているが、当時から運動を通じて美術家たちとの交流が深かったと思われる。
 
 
 飯野農夫也の記述から、長崎南町3丁目の吉原義彦アトリエへと通う彼の道筋を想定すると、寄宿している上野宅を出た彼は、堀田昇一や平林彪吾の住む上落合2丁目791番地前の道路を北上する。ほどなく妙正寺川の手前で右折(東進)し、落合第二小学校Click!と最勝寺Click!との間の道を抜けて、寺斉橋筋の道路へ出ると再び北上して、中井駅東側の踏み切りをわたり中ノ道(現・中井通り)へとさしかかる。通りのやや左手(西寄り)に口をあけている、一ノ坂から一気に第二文化村へとのぼっていくと、ちょうど目の前に片岡鉄兵が住んでいた片岡邸(姻戚邸だと思われる)が建つ「文化村前通り」Click!に突きあたる。その道を右折して、宮本恒平アトリエClick!の先を左折し、第二文化村のメインストリートを北上すると、佐伯祐三Click!が描いた『下落合風景(タンク)』Click!あたりをすぎて300mほどで、目白通りへと出ることができる。現在の、大江戸線・落合南長崎駅のすぐ東側の地点だ。そこから、目白通りを横断して道筋のつづきを北上すると、250mほどで長崎南町3丁目4168番地の吉原アトリエに到着する。
 吉原義彦は、おそらくアトリエに通ってくる弟子の飯野農夫也を介して、上落合の“なめくぢ横丁”あるいは落合地域の作家や画家たち、編集者などと親しくなっていったのだろう。その様子を、先の飯野農夫也「吉原義彦」から引用してみよう。
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 あるとき尾崎一雄さんがこんなことを言った。「重雄君が湯河原で海の家と言っても氷屋をやろうと誘われて行ったよ。いよいよ始めようとしたら、重雄君のお父さんの代議士(田川大吉郎、蔵原惟廓らと少数派の)が来て、ビール一ダース置いていってくりたっけ」というほどだったから吉原さんはほどなくなめくじ横町(ママ)の仲間になった。本庄が「人民文庫」の編集に移ったときに表紙を三号ほど吉原さんが描いている。これだけの前置きがないとはなしが通じないことが出て来るかも知れない。さて本庄睦男が保田与重郎・亀井勝一郎らと第一次「現実」を作った時、吉原さんは本庄をモデルに油で三十号の半身像を描いた。本庄は椅子に腰かけてうつむいてアルバイトの受験雑誌(橘書店)校正をしている。定った時刻に一週間休まずに来てポーズをとった。
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 ちなみに、「重雄君」というのは吉原義彦の弟であり詩人の吉原重雄のことで、「お父さんの代議士」とは吉原義彦の父親である吉原義雄のことだ。このあたり、飯野の記述がかなり省略されてわかりにくいのだが、本庄睦男がやってきてポーズをとったのは上落合の“なめくぢ横丁”ではなく、長崎南町3丁目4168番地の吉原アトリエだ。吉原義彦が、「なめくぢ横町の仲間になった」のは人間関係のつきあいにおいてであり、吉原が上落合へ転居してきたわけではない。
 この時期、吉原義彦は人物画を多く手がけていたようで、本庄睦男像の次は小熊秀雄Click!の肖像を描いている。また、原泉Click!を描いた作品『オルガに扮せる原泉子』を独立美術協会第5回展へ出品しており、それに対する小熊秀雄の展評も残されている。1991年(平成3)に創樹社から出版された、『小熊秀雄全集』第5巻から引用してみよう。
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 リアリスト吉原の作画態度や、今度の独立への出品画に就いては、もつと採りあげて問題にしていゝ。殊に若い画家達の間には、リアリズムに就いてかなり関心を深めてその方向に画風を進めてゐる人が少くないだけに、吉原の仕事の進め方の検討は意義がある。絵画上のリアリズム論は茲では措いて、私は『オルガに扮せる原泉子』では、まだまだ手も足もでないリアリズムを感ずる。ブルジョア的写実主義者の作画上の自由性と新しい写実主義者殊に何等か仕事の上に社会性を附与しようと企てゝゐる、画家の作画上の自由性とは、それぞれ制約するものがちがつてゐる。吉原の場合ブルジョア的な自由は欲しないだらう。だが見給へ。ブルジョア的な自由主義画家がいかに勝手にふるまつてゐるかといふことを。その意味に於いて吉原はもつと大いに勝手にふるまつて良い。吉原の絵を見ると建設的要素は多いが、破壊的要素が少ない。然もこれらの要素を吉原は絵の上では個人的立場に解決してゐる。もつとリアリズムの守り手として、旧来の絵画上の諸秩序の打ちこはし手として吉原の創造性を発揮してもらひたいし、若い後進のためにリアリズムの基本的方向を示してやるべきだ。
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 ちなみに、1935年(昭和10)3月に東京府美術館で開催された独立美術協会第5回展は、前年の7月に急死した三岸好太郎Click!の遺作展をも兼ねていた。ついでに、小熊秀夫が書いた三岸好太郎の作品評も、同全集から引用しておこう。
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 この室には三岸の遺作が列んでゐる。『貝がら』とか『海と射光』とか『海洋を渡る蝶』といつたシュールリアリズムとしての彼の題材のものに矢張り好感がもてる『立てる道化』といつたクラシック張りは三岸でなくても誰でもやれる仕事である。/クラシックとモダニズムとの矛盾の児と彼を呼ぶことに異議があるまい。もう少し彼を永生きさせてをいたら相当面白い仕事をしてくれたと思ふが、中途半端な仕事で夭折したことは惜しい。彼は好んで蝶を海の上に飛ばせる。それは彼の近代人としての不安感の表現である。/ダリの頭にヱルンストの尻尾をくつつけて自己の物と主張してゐる風な画家が少くない折柄、三岸のものは人柄がでゝ気が置けなく見れて良い、やうやく少しばかり彼の独創性が加はりかけてきたのに惜しいことをした。私は彼の絵は好きでない。才能が好きである。
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 飯野農夫也は、吉原義彦がアトリエで小熊秀雄の肖像画を描く現場にも立ちあっている。小熊は、やはり1週間ほど吉原アトリエへ通ってきてはポーズをとっている。『1930年代-青春の画家たち』所収の、飯野農夫也「吉原義彦」から再び引用してみよう。
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 本庄が終わるとつぎは小熊秀雄を吉原さんは描いた。椅子に腰を下したものゝ兵隊オーバーのようなものを着て昂然と肩をそびやかした長髪の小熊も、毎日三時間モデルをやりに一週間ほど通ってポーズを続けた。それも三十号の油絵に吉原さんはした。小熊を描くときには、原稿用紙の枠をはみ出て躍るような大文字の「飛ぶ橇」の原稿を小熊に持って来させてそれを画室の鴨居に画鋲で一カ所だけ留めてひらひらさせ「詩人の字はいいなあ」と言いながら、創作意欲をたぎらせ、小熊のおしゃべり「ドオミエの≪スカパンとクリスパン≫はいい。絵は世界中であれ一つ」「詩・絵・音楽、この三つが芸術であって、小説なんてくだらんもの、芸術でもなんでもない」に対抗する姿は壮観であった。
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 このとき、小熊秀雄と吉原義彦との間で、「小説」表現をめぐる文学の激しい議論があったと思われるのだが、飯野農夫也はその内容を書き残してはいない。
 
 

 飯野農夫也は、その後も吉原義彦に同行して、下落合2丁目1912番地(現・中落合4丁目)の第二文化村に住んでいた片岡鉄兵(おそらく姻戚邸への寄宿)を訪問し、吉原が片岡の娘の肖像画を仕上げるのをサポートしたりしている。また、飯野は吉原アトリエから東へ800mほど、長崎南町2丁目2027番地に住む独立美術協会の伊藤廉Click!のもとへ、頻繁に出かけていく吉原の姿を目撃している。吉原は1936年(昭和11)になると、長崎アトリエ村のひとつで椎名町駅にも近い“さくらヶ丘パルテノン”Click!へ引っ越してくるのだが、それはまた、別の物語……。

◆写真上:上落合2丁目829番地にあった、“なめくぢ横丁”界隈の現状。
◆写真中上:上は、1941年(昭和16)に斜めフカンから撮影された空中写真(左)と、1945年(昭和20)4月2日の空襲直前に撮られた空中写真(右)にみる“なめくぢ横丁”。敗戦直前の写真では、無住の住宅が防護団Click!や警察によって取り壊されたのか東側に空き地が見えている。下左は、1994年(平成6)に出版された、『1930年代-青春の画家たち』(創風社)。下右は、昭和初期の飯野農夫也。
◆写真中下:1936年(昭和11)の空中写真にみる、飯野農夫也が上落合の“なめくぢ横丁”から長崎南町の吉原義彦アトリエへと通っていた想定ルート。
◆写真下:上左は、長崎南町3丁目4168番地にあった吉原アトリエ界隈の現状。上右は、上落合2丁目791番地にあった堀田昇一・平林彪吾旧居跡の現状。中は、いずれも吉原義彦の作品で『今夜の計画』(1930年:左)と『獄へ送る』(1931年:右)。下は、山田みほ子様Click!のお手もとに残る飯野農夫也からの年賀状。