わたしは泳げるようになった瞬間を、ハッキリとは憶えていない。もの心つくころには、すでにプールでも海でも泳いでいたので、幼いころから水に馴染んでいて知らず知らずに習得したのだろう。夏休みになると、雨が降るか台風Click!でもこない限りほぼ毎日、海岸沿いの市営プールや隣り町の海水浴場で泳いでいた。
 ただ、湘南Click!は海辺のせいか天候がすぐに変わりやすいので、夕方近くになると雷雲が近づいてきて、雨になることも少なくなかった。そんな夕立のさなか、浜辺の焼けた砂に驟雨がそそぐと、まるで金属臭のような独特の生ぬるい匂い(おそらく砂浜に混じる、真夏の陽に熱せられた砂鉄の匂いだろう)が漂い、沖の海面へ落ちるピンクやブルー、イエローの稲妻を飽きずに眺めていたのが懐かしい。
 夕立は1時間ほどでやむことが多かったが、松林をわたる風は涼しくなるものの、相変わらず潮風が素肌にまとわりついてベタつき、プールならもうひと泳ぎしてから帰宅したものだ。海で泳いだときは、小遣いが慢性的に足りない子どもたちなので「海の家」など利用できるはずもなく、そのまま急いで帰宅して風呂場へ直行した。もちろん、すぐに湯船へ飛びこんだりしたら、身体じゅうの日焼けが沁みて絶叫してしまうので、ほとんど水だけ浴びて出てくるだけだったけれど……。こうして、夏休みが終わるころには、小学2年生のときの担任だった高橋先生にいわせれば、「(顔が)前だか後ろだかわからないわよ」というような、真っ黒な顔をして登校したものだ。
 そんな環境で育ったわたしだから、体育で「水泳の授業」という感覚がよくわからなかった。おそらく、他の友だちも同様だったのだろう。プールは、「授業」ではなくほとんど遊びの場のような感覚だったのを憶えている。でも、クラスのお勉強ができる優等生の中には、ほんとうに泳げない子もいたので、教師はその子たちを中心に「授業」をして、事故が起きないように注意していたような気がする。夏休みは、親が設定する塾や講習会、習いごとなどで満足にプールや海へ行かせてもらえず、泳ぎをおぼえることができなかったかわいそうな子たちだ。そういう子たちは、夏休みが終わっても生っ白い(なまっちろい)顔をして登校してくるので、教師たちもすぐに見分けがついただろう。

 
 日本橋で育った親父は、もちろん大川(隅田川)Click!で泳いでいる。大橋(両国橋)Click!をわたった向こうの本所側、橋をはさんで百本杭とは反対側に水練場(すいれんば)があって、日本橋と本所の子どもたちが多く集まっていた。水練場Click!とは、大川の岸辺に流れをせき止めて囲いを造り、四角くプール状にした遊泳施設だ。だから、海辺ではないものの、下町の子たちの多くは泳ぎが達者だったらしい。わたしも、隅田川で泳いでみたかったのだが、わたしが子どものころの隅田川は汚濁と臭気がひどく、入ればすぐに病気になりそうな川になっていたので、とても泳ぐどころではなかった。いまなら、サケやアユ(ときにイルカ)なども遡上しているようなので、再び泳げる川にもどっただろうか。神田川の川遊びClick!と同様、機会があれば隅田川でも泳いでみたい。
 下落合の南東側にあたる広大な戸山ヶ原Click!には、1874年(明治7)から陸軍戸山学校Click!が設立されていた。そこでは、さまざまな学習や操練が行なわれたが、游泳(水泳)の教練も重要な課題だった。そう、陸軍戸山学校の生徒たちは、海軍とは異なり水泳がかなり苦手だったようなのだ。おそらく明治期からだろう、「游泳教育参考書」なるものが繰り返し戸山学校で出版されている。国立国会図書館に保存されているのは、1917年(大正6)7月に出版された利根政喜『游泳教育参考書』(発行・陸軍戸山学校将校集会所)で、戸山学校の校長が山田良之助だった時代だ。50ページを超える游泳訓練の参考書なのだが、このような書籍のみならず、戸山学校では同様の簡易パンフレットを制作して、教員または生徒たちに配布している。
 陸軍戸山学校には、游泳訓練用のプールがあったかどうかは不明だが、『游泳教育参考書』や1922年(大正11)6月に発行された校長が菱刈隆時代の「游泳短期教育案」パンフレットを参照する限り、大正期の同校には設置されていなかったように思える。それは、游泳訓練を行う場所(海や川の環境)まで、こと細かに規定していることからうかがい知れるのだが、もうひとつ、実地訓練以前に陸上で行なう「游泳訓練」がやたらに多いのも特徴的だ。そこは「陸」軍なので、陸上での水泳訓練を重視したのだろう。w



 わたしなど、泳げる泳げないにかかわらず、とにかく水の中に入らなければはじまらないだろうに……と思うのだが、「陸」軍は陸上での水練を重視しているようだ。前述の「游泳短期教育案」パンフレットでは、遊泳に適したふんどしの正しい締め方まで、教習の課題に挙げられている。同パンフレットから、緒言を引用してみよう。
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 泳游不能者ノ短期教育ニ於テ初メヨリ水中演習ノミニ依リテ所望ノ目的ヲ達セントスルハ蓋シ至難ノコトナリ 況ンヤ游泳場並設備等ノ完全ヲ期シ得サルニ於テヲヤ 茲(ここ)ニ於テ游泳期ニ先タチ豫(あらかじ)メ陸上ニ於テ其動作ノ要領ヲ会得セシムルト共ニ之ニ要スル神経及筋肉ノ両系統ヲ訓練シ以テ水中演習ニ連携シ之ヲ直接ニ準備シ置クトキハ大ニ游泳場ニ於ケル教育ヲ単簡ナラシメ得ルモノトス/如上(うえのごとく)陸上ニ於ケル準備ト単簡ニシテ良好ナル水中演習ノ指導ト相待ツテ始メテ所謂(いわゆる)短期教育ノ実績ヲ挙ケ得ルコトハ倍シテ疑ハサル所ナリ (カッコ内引用者註)
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 準備体操を陸上で行なうのはしごく当然としても、泳ぎの「演習」を陸上でやるのはいかがなものだろう。いくら、講堂あるいは校庭で平泳ぎや横泳ぎ、背泳ぎの「演習」を重ねても、カナヅチで「泳游不能者」なる生徒が泳げるようになったり遊泳が上達するとは考えられず、あまり意味があるとは思えないのだが……。ましてや、陸上で飛びこみの教練などしたら、「游泳演習」が実施される日は顔を腫らした生徒たちで、医務室がいっぱいになったのではないだろうか。
 

 陸上でいくら水泳のマネごとをしても、具体的に水の抵抗や水圧、波、流れ、たゆたいのある水面あるいは水中でなければ、泳ぎの実際はなかなか体得できない。とにかく、生徒を水に入れてしまうことがスタート地点(水点)だと思うのだが、陸軍戸山学校は“岡上”の「演習」にこだわり、なかなか“型”にうるさくてまだるっこしいのだ。でも、大勢の生徒たちがいっせいに寝ころび、平泳ぎや横泳ぎ、背泳などをしている姿を見たら、周辺の住民は「さすが陸軍さんだわな、地面を泳いでら」と苦笑したのではないだろうか。

◆写真上:よく泳いだ大磯の北浜海岸からの眺めで、平塚沖の潮流観測所と烏帽子岩、江ノ島がほぼ一直線に重なるポイントがある。
◆写真中上:上は、昭和初期に撮影された大橋(両国橋)東詰めの本所側にあった水練場。下は、1917年(大正6)に出版された利根政喜『游泳教育参考書』(発行・陸軍戸山学校将校集会所)の表紙(左)と奥付(右)。
◆写真中下:上は、1922年(大正11)発行の「游泳短期教育案」パンフに掲載された「陸上演習」における平泳ぎの教練図。中は、游泳向きの褌(ふんどし)の締め方の解説。下は、陸軍士官学校Click!の海岸における游泳演習記念写真。
◆写真下:上は、同パンフの「陸上演習」における横泳ぎ(左)と背泳ぎ(右)の教練図。下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる陸軍戸山学校。