★ちょっと緊急ニュース的に……。
  先ほど(5日午後9時すぎ)、落合中央公園(せせらぎの里公園)において蚊に刺された方のデング熱発症が、確認されたという緊急ニュースが情報網でまわってきた。TVでは、いまだ新宿中央公園のみを伝えているが、落合地域でも子どもを公園で遊ばせるときは注意が必要だ。
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 現在の早稲田から高田馬場界隈、すなわち戸塚(十塚あるいは富塚とも=下戸塚・上戸塚)から落合の全域、さらに百人町(現・大久保)から柏木(現・北新宿)地域の神田川沿いにかけて残る「百八塚」Click!の伝承について、これまでさまざまな角度から検証し眺めてきた。室町期に、下戸塚の宝泉寺にゆかりのある昌蓮という人物が、神田川(旧・平川Click!)沿岸の斜面に残る無数の塚に祠を祀って以来、「百八塚」と呼称されるようになったという伝承が残っているのだが、すでに室町期以前から存在していたと思われるこれらの塚とは、もちろん古墳のことだろうと推定してきた。
 事実、「百八塚」の名残りと呼ばれる古墳が、昭和期に入ってから道路工事あるいは宅地開発によって破壊され、改めて古墳期の前方後円墳あるいは円墳だと規定されている事例が、戸塚Click!をはじめ落合Click!や百人町Click!の各地域でいくつかみられる。また、昌蓮の地元である下戸塚(現・早稲田地域)では、田畑開墾で破壊された古墳より出土した副葬品が、寺社に奉納された事例Click!が江戸期の記録にも見えている。「百八」とは、鎌倉の「百八やぐら」Click!と同様に、「無数の」「数え切れない」という意味で用いられる数値概念だが、江戸期から戦前にかけて壊されつづけ、現在ではほとんどが住宅街の下になってしまっている古墳の密集地が、はたして都内の他の地域にも存在し、確認されているのだろうか?……というのが今回のテーマだ。
 実は、この課題は多摩川沿いの野毛から尾山台にかけて、野毛大塚古墳を中心にいわゆる「野毛古墳群」の記事として、すでにご紹介していた。群馬県太田市Click!の女体山古墳とともに、日本最大クラスの帆立貝式古墳(略式の前方後円墳)である野毛大塚古墳の周辺は、地元の教育委員会資料によれば大正期から昭和期にかけて、50基前後の古墳が宅地開発によって、ほとんど調査もなされずに破壊されている。また、野毛・等々力・尾山台地域のすぐ東隣りには、「荏原台古墳群」と呼ばれる数多くの古墳が築造されたエリアが拡がっている。この地域の宅地開発をしたのは、渋沢秀雄が支配人をつとめる田園都市株式会社Click!であり、もちろん下落合の目白文化村Click!を横目で見つつ、英国のレッチワースにならって建設を進めていた郊外の文化住宅街「田園調布」だ。
 この田園調布とその周辺域の開発では、やはり50基前後の古墳が破壊されている。資料の中には、昭和初期に行なわれた調査記録から具体的に52基の古墳が存在し、そのほとんどが破壊されたと規定するものも見える。今日の田園調布の宅地内では、観音の祠が祀られていたために発掘調査が行われた、個人邸に保存されている前方後円墳の玄室痕跡(観音塚古墳)と、八幡社と浅間社が奉られていたために、個人邸の庭先に保存されている玄室(浅間様・穴八幡古墳Click!)の、2例を残すのみとなっている。すなわち、わずか4kmほどの多摩川沿岸に、すでに破壊され現存しない古墳が、大正以降の記録に残されているものだけでも100基以上、おもに戦後になって発掘調査が行われ保存されている古墳約20基、計120基を超える古墳が築造されていたことになる。もちろん、江戸期の開墾で破壊されたものも含めれば、実数はもっと増えるのかもしれない。
 戸塚から落合、百人町、柏木にかけて、およそ4~5kmほどの平川(現・神田川)沿岸あるいは、東は奥東京湾の名残りである白鳥池Click!あたりまで展開していたかもしれない「百八塚」の実態とは、おそらくこのような景観だったのではないだろうか。多摩川沿いの野毛古墳群および荏原台古墳群は、3世紀末から6世紀にかけてつづく古墳時代の全期を通じて墳丘が築造された地域だが、おそらく「百八塚」古墳群もまた古墳全期を通じての墳丘密集地帯ではなかったか。そして、多摩川沿いの古墳群が等々力渓谷の新しい横穴古墳群へと収斂していくように、落合地域でもまた下落合横穴古墳群という、新しい時代の墳墓形態へと進化していったように思えるのだ。
 

 
 さて、前回の記事では野毛古墳群をご紹介しているので、今回はその東側に展開している荏原台古墳群の姿をご紹介したい。戦後に米軍によって撮影された、焼け跡が拡がる落合地域とその周辺域をとらえた空中写真を眺めていると、神田川の河岸段丘に沿っていくつもの不可解なサークル痕Click!に気づくのだが、そのサークル痕が本来の姿そのままに現代まで保存されてきたのが、荏原台古墳群だとわたしには思われる。
 まず、墳丘全体が政子さんClick!ゆかりの浅間社にされてしまい、前方部を東急東横線に大きく削られてしまった浅間神社古墳からみてみよう。浅間社が古墳だと規定されたのは、社殿改築と1990年代の東横線拡幅工事の際の発掘調査であり、江戸東京にある寺社の多くが前方後円墳の上に築かれていることを証明する典型的な事例Click!だ。現存する墳長は60mにすぎないが、先述のように前方部を東横線によって大きくえぐられているので、実態は100m前後の前方後円墳なのかもしれない。
 そのすぐ西隣りに接して築造されているのが、全長約108mの亀甲山古墳だ。この前方後円墳もまた、前方部の一部が工事で削られている。亀甲山古墳は、いまだかつて発掘された記録がない、まったく手つかずのめずらしい古墳だ。これだけの規模の前方後円墳が、これまで一度も発掘調査がなされていないのは、関東には巨大で重要な古墳は存在しない……という、戦前の皇国史観Click!による建て前的な影響もあるのだろうが、できるだけ早めの発掘調査を地元の教育委員会には望みたい。
 

 
 亀甲山古墳の西側は、もう「古墳銀座」といってもいいほどの、前方後円墳あるいは円墳のオンパレードだ。20~40mほどの古墳が、ほとんど肩を寄せ合うように8基連続して築造されている。(多摩川台古墳群1号墳~8号墳) 冬枯れの空中写真で見ると、それこそ大小のサークルが連続している様子が観察できる。おそらく、神田川流域にもこのような情景が各地で見られたのではないか。いちばん西に位置する8号墳のさらに西側には、前方部が三味線のバチ型をしている最初期型の前方後円墳である、巨大な宝莱山古墳が築造されている。1995年の発掘調査では、全長が100m弱とされているが、残念ながら周囲を住宅街に囲まれているので、周濠を含めた全体規模はもっと大きいのではないだろうか。
 下落合や上落合の焼け跡写真を観察していると、直径が100mを超えるサークル痕あるいは円弧状の盛り上がりClick!もめずらしくない。これらが後円部墳丘の痕跡だとすれば、全長が200mクラスの前方後円墳あるいは帆立貝式古墳を想定することができる。つまり、墳丘の規模においては、多摩川沿岸の古墳群をはるかにしのぐ古墳群が存在していたことになるのだが、丸山や摺鉢山Click!、大塚と古墳地名が連なる落合地域へ、そのような古代の姿を想像しても、あながちピント外れではないように思われるのだ。
 多摩川沿岸の古墳群には、大きな特徴がある。古墳群の近くに、同時代の大規模な集落遺跡がいまだ発見されていないのだ。これだけの規模の古墳群を3世紀にもわたり築造しつづけるには、それなりの経済基盤と大量のマンパワーが必要となるのはいうまでもない。しかし、それをうかがわせる古墳期の集落跡あるいは都市跡が、周辺域には見あたらないのだ。それが、神田川流域の「百八塚」古墳群との大きな相違点だろうか。神田川流域では、戸塚や落合、百人町、柏木を問わず古墳時代の遺跡Click!があちこちで見つかっている。野毛古墳群や荏原台古墳群では住宅街の下に埋もれ、たまたま未発見の状態がつづいているのかもしれないのだが、ひょっとすると地域性による葬送概念や死生観のちがいがあるのかもしれない。
 すなわち、多摩川沿いの旧・荏原郡に展開している大規模な古墳群は、いわゆる人里離れた「屍家・屍屋・屍山(しいや)」と位置づけられたエリアであり、死者を忌み、怖れ、不吉で祟りがあるという概念から、集落エリアよりかなり離れた“忌場”として運用された、専用墓域(死者のクニ)ではなかったか。
 

 
 それに対し、神田川流域に展開した「百八塚」古墳群は、多摩川ほど広大にひらけた原野的な沿岸部ではなく、谷間や深い谷戸地形の多い狭隘な環境という土地柄から、墳墓群と集落とが同居する考え方、すなわち死者を近くの見晴らしのよい丘上や斜面へ手厚く葬ることによって、そこから集落や人々の暮らしを見守り、災害や病魔から住民を守護するという役割を担わされた古墳群ではなかっただろうか? 両者を比較していると、どことなく地域性のちがい、死生観の相違を暗示しているように思えてくるのだ。

◆写真上:浅間神社古墳の墳丘から、多摩川をわたる東横線を眺める。
◆写真中上:上左は、後円部の墳頂に築かれた浅間社の拝殿と本殿。上右は、巨大な後円部の斜面に造られた参道階段。中は、亀甲山古墳の前方部から後円部を眺めたところだが、巨大すぎて画面には入りきれない。下左は、前方部の一部。下右は、後円部の一部。
◆写真中下:いずれも多摩川台古墳群の墳丘で、前方後円墳の1号墳(全長約40m/上左)、円墳の4号墳(直径約20m/上右)、同5号墳(直径約20m/中)、同6号墳(直径約20m/下左)、同7号墳(直径約20m/下右)。
◆写真下:上は、最初期型の前方後円墳である宝莱山古墳。周囲に住宅街が迫り、また大きすぎて全体を撮影できない。中は、1947年(昭和22)に撮影された東横線玉川駅近くに展開する前方後円墳の浅間神社古墳と亀甲山古墳。下左は、田園調布の宅地化で壊されてしまった前方後円墳の観音塚古墳跡(全長約50m)。下右は、敷地の下には数多くの古墳が眠っている田園調布の街並み。