学習院が1908年(明治41)9月、四谷区尾張町から高田村高田(現・目白)へ移転を終えて開校したとき、同院のキャンパス南東部には、いまだ江戸期からつづく旧・高田村の稲荷社(八兵衛稲荷)の境内跡がクッキリと残っていただろう。稲荷社は学習院が開校する直前、1907年(明治40)にようやく高田村金久保沢Click!のバッケ坂Click!=豊坂沿い、急坂の中途に遷座している。ただし、東京府知事による奉遷許可が下りたのは早く、学習院の高田村移転が表面化して早々の、1900年(明治33)のことだった。
 奉遷ののち、豊坂稲荷社と呼ばれるようになった同社の境内には、1907年(明治40)の遷座から間もない、1910年(明治43)7月と9月の年紀が刻まれた寄進の鳥居や石碑を、いまでも見ることができる。ちなみに、当時の豊坂稲荷社は目白停車場Click!の改札前に位置していて、目白駅が高田大通り(現・目白通り)に面する橋上駅化をしなければ、にぎやかな駅前の稲荷社になっていたかもしれない。
 余談だけれど、知人の話によれば宮崎燁子(宮崎白蓮)Click!の手記には、1922年(大正11)に初めて宮崎家を訪れた際、目白橋の下にあたる金久保沢の改札へ降りてから高田大通り(目白通り)へと上がる表現が見られるそうなので、目白駅が「1919年(大正8)に橋上駅化された」という「公式記録」は、やはりなにかのまちがいだろう。下落合で暮らした多くの人々の、1921年(大正10)以降の証言とともに、目白駅の橋上駅化は少なくとも関東大震災Click!以降のことではないか?
★その後、目白駅の橋上駅化は1922年(大正11)と判明Click!している。
 また、地元の古老や有力者たち、あるいは敷地を譲りうけた旧・戸田家Click!の人々からでも聞いたのだろう、徳川義親Click!の証言によれば、1885年(明治18)に日本鉄道(私営)の目白停車場が設置されてからしばらくの間、駅周辺ではあえて「高田停車場」と呼ばれていたらしい。やはり、椿山も近い実際の目白地域(関口台)の地名(現・目白台の東側一帯)からは、駅があまりにも西へ離れすぎていたClick!ため、地元本来の地名をとって高田駅と呼ぶほうが自然だったのだ。
 さて、豊坂稲荷社には旧・高田村の名主だった島田家や大澤家、そして醍醐家、さらに旧・雑司ヶ谷村の名主だった新倉家などの末裔たちが、1961年(昭和36)7月に玉垣を建立した際の寄進名を見ることができる。学習院が高田村で開校する12年前、1896年(明治29)9月に当時の院長だった近衛篤麿Click!が、宮内省へ高田村への移転を上申し高田村の土地52,500坪の買収指令を出したときから、旧・高田村あるいは旧・雑司ヶ谷村の新倉家の不幸ははじまっていたのだろう。実際には、宮内省帝室林野局の所有地になった敷地を除いても、学習院の敷地は最終的に72,615坪にまでふくれあがった。
 これらの土地の多くは、江戸期からつづく高田村の名主の土地(農地)が多く含まれており、また明治期に旧・高田村の土地を精力的に買収していた新倉家の所有地もまた含まれていた。彼らは、宮内省の学習院あるいは帝室林野局からの要請であれば、イヤでも土地を手放さざるをえなかっただろう。地主の中には、最後まで土地を売りたがらず、宮内省による土地収用の強制執行を受けたケースもあったといわれている。
 1905年(明治38)に村長を退任した新倉徳三郎は、おそらく学習院へ多くの土地を売って得た資金をもとに、先の『高田町史』にも登場していた(株)高田農商銀行へ出資し大株主になったのだろう、1919年(大正8)現在では同銀行の取締役頭取に就任している。しかし、同銀行はほどなく買収の嵐にさらされて、高田地域を中心とする地元優先の経営をつづけられなくなっていった。高田農商銀行を乗っ取って経営権を握ったのは、またしても下落合575番地Click!の堤康次郎Click!なのだ。1920年(大正9)に経営権を奪取した堤康次郎は、下落合に建設を予定していた目白文化村Click!事業や、武蔵野鉄道Click!の融資銀行として同銀行を活用しはじめている。そして、同銀行を堤グループの機関銀行へと徐々に営業内容を変更していった。
 
 さて、有吉佐和子のもとを訪れた新倉家の末裔を名乗る女性の、最初の証言へともどってみよう。これまでの記事を読まれた方は、ひょっとすると彼女は江戸期と明治期における新倉家のスタンス、あるいは明治以降の新倉家をめぐるさまざまなエピソードが、アタマの中でゴッチャになっていたのではないか?……ということに気づかれるだろう。和宮の時代の雑司ヶ谷村名主だった新倉家と、明治以降に高田村の戸長・村長だった全盛時代の新倉家の置かれた位置や環境が錯綜し、「和宮」に死なれたのと、「家運」が傾いたのと、屋敷の敷地が学習院に買収されたのとでは、時代的な齟齬が生じて因果関係がバラバラであることがおわかりいただけるかと思う。しかし、だからこそというべきだろうか、先祖や家系、家の歴史を語るときの伝承や記憶に、ままありがちな齟齬や脚色、勘ちがいであるがゆえに、証言者である女性の存在が有吉佐和子の創作ではなく、彼女の実在とともにその語る証言の信憑性が、逆に高いように感じてしまうのだ。
 有吉佐和子の『和宮様御留』は、和宮が京を出発したときからすでに替え玉であり、途中で身代わりの女性“フキ”が精神的な緊張から「発狂」してしまうため、やむをえず板橋宿でもう一度、別の替え玉の女性“宇田絵”とすり替える……というめまぐるしい展開だ。板橋宿で替え玉となるのが、小説中では「新倉覚左衛門」の左手首を失って嫁入りが困難な娘という設定になっている。この筋立てが、どこまでが事実でどこからが虚構かはとりあえず別にしても、千代田城へやって来た「和宮」が実は別人の替え玉ではないかという説は、有吉佐和子の小説以前からすでに薄々存在していた課題だ。
 それは、1958~60年(昭和33~35)にわたって東京大学が実施した、芝増上寺における徳川将軍墓の発掘調査・遺体検視がきっかけだった。将軍家墓所から発掘された和宮(静寛院)の遺体には、左手の手首から先がなかったのだ。京の橋本家にいたころの和宮は、幼いころに足の関節炎を患ったせいか歩行がやや不自由だったとされているが、両手はちゃんとそろっていたはずだ。同時に、発掘調査・遺体検視では足の骨格に病変を感じさせるような異常はなく、きわめて正常な両足だった。身長は143.4cmと非常に小柄で、32歳で死去したせいか棺には漆黒の毛髪がそのまま残っていた。
 また、夫であり21歳の若さで急死した徳川家茂の内棺からは、妻の和宮のものとされる髪(和宮の剃髪時)が発見されている。しかし、漆色の黒髪ではなく茶色がかった髪をしており、ふたつの髪束はまったく別人のものではないかという指摘がなされている。発掘調査に参加した東京大学理学部教授(人類学)の鈴木尚も、「果たして彼女の頭髪であろうか」と疑問形のまま記述を終えている。なぜ、和宮の剃髪時の髪と納棺されたときの髪が異なるのだろうか? もし、現代に行なわれた調査であれば、DNA鑑定や和宮の左手断面の解析などにより、さらに広い範囲の詳細な情報が判明していたと思うと残念だ。ちなみに、『和宮様御留』の「あとがき」では、和宮の棺から出た髪が茶髪で、家茂の棺から発見された髪束が黒と逆の記述になっている。

 
 和宮が嫁した当時、大奥はどのような環境だったのだろうか? どこまでも「御所風」の風俗やしきたりを貫くという和宮側の要望は、大奥の女たちにことごとく無視されて退けられ、和宮に付随して京からやってきた宰相典侍の庭田嗣子が記録したように、すべてが「大奥風」で仕切られ営まれていた。特に和宮には姑にあたる、天璋院との確執は深刻なものだったろう。当時の状況を、有吉佐和子の『和宮様御留』から引用してみよう。
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 当時の千代田城大奥には、公方様お附きの女中が百七十人、先代将軍家定の生母本寿院お附き女中が五十三人、当代家茂の生母実成院に二十三人、そして先代公方の御台所であった天璋院には八十人の御附女中がいたところへ、宮様は宰相典侍以下七十七名を率いて乗りこまれたのだから、全部で四百名を越す女の集団が、朝から夜の夜中まで、京方と江戸の御風違いで末は女嬬やお端下まで、揉めごとに明け暮れるという騒ぎであった。
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 千代田城Click!で暮らす和宮(静寛院)を描いた肖像や、江戸で撮影されたとみられる彼女の写真には、左手首がとらえられていない。いずれも、左手が着衣の中へ隠れて見えなくなっている。だが、明治維新後の1869年(明治2)に京へともどり、1874年(明治7)に再度東京(とうけい)へ出てきて麻布で暮らすようになった和宮(静寛院)には、はたして左手首があったのだろうか? 明治以降に撮影された、洋装の和宮(静寛院)とされる写真が残っているが、あくまでも「伝」であって確実に本人かどうかは不明のままだ。
 新倉家の末裔を名乗る女性が有吉佐和子を訪ねたのは、すでに増上寺の徳川将軍墓が発掘調査されたあとだとみられるので、話題になった和宮(静寛院)の左手首欠損について、なんらかの伝承に言及しているのかもしれない。だが、当時の有吉佐和子は和宮というテーマそのものにあまり興味がなく、そのまま聞き流している可能性もありそうだ。
 

 『和宮様御留』の中で、有吉佐和子は京で身代りになった娘“フキ”の体内に、「コンコンチキチン、コンチキチン」と祇園囃子のリズムを刻ませている。これは、和宮に化けさせられた哀れな“フキ”を際立たせる、また背後の京ギツネ(公家たち)をことさら象徴させている音色であり、リズム表現なのだろう。もし、仮に板橋宿で再び和宮が“新倉宇田絵”に入れ替わったとすれば、大奥で暮らす彼女の体内にはまちがいなく「ピーヒャラピーヒャラテケツクテンテン、ピーヒャラピーヒャラドンドコドン」と、大江戸の威勢のいい馬鹿囃子(ばかっぱやし)が、身体のどこかで絶え間なく鳴り響いていたかもしれない。

◆写真上:1961年(昭和36)に建立された豊坂稲荷(八兵衛稲荷)の玉垣に刻まれて並ぶ、旧・高田村と旧・雑司ヶ谷村の名主だった寄進者の姓。
◆写真中上:左は、遷座から間もない時期に建立された1910年(明治43)の年紀が刻まれた鳥居。右は、玉垣の支柱にみる旧・名主たち(新・高田村の有力者たち)の姓。
◆写真中下:上は、1716年(正徳6)に下高田村(のち高田村)の名主・宇右衛門(姓不明)が幕府の巡検使に提出した「下高田村絵図」。下左は、千登世橋から眺めた学習院の森で稲荷は右手の丘上に建っていた。下右は、稲荷があったあたりを崖下から眺める。
◆写真下:上左は、江戸で撮影されたとみられる和宮。扇を持っている右手は確認できるが、左手は袖中で見えない。上右は、同じく江戸で描かれた書き物をする和宮だが、やはり左手が見えない。下は、1967年(昭和42)に出版された『増上寺 徳川将軍墓とその遺品遺体』(東京大学出版会)掲載の発掘された和宮の左手首の様子で、他の整然とした骨格に比べ明らかに納棺時から欠損していたらしいことがうかがえる。