少し前、個性が強く性格が鮮烈で頑固な金山平三Click!は、なぜ刑部人Click!とは例外的に気が合ったのか?……という文章Click!を書いた。その反りが合うClick!要因として、刑部人のピュアな性格ともうひとつ、ふたりとも広義の意味での「文芸」=物語性に強く惹かれていたことを共通のポイントとして挙げた。すなわち、金山の「芝居」と刑部の「文学」だが、さっそく刑部人の孫にあたる中島香菜様よりご連絡をいただき、刑部人が無類の芝居好きだったことをご教示いただいた。この事実は、刑部人の伝記や図録の解説などにもほとんど触れられていない“新事実”なので、ぜひこちらでご紹介したい。
 金山平三は、幼いころから神戸の芝居小屋に出入りし、歌舞伎の舞台に馴れ親しんで育ったといわれている。ときに、大阪の道頓堀(五座)まで出かけて観賞しただろうか。1975年(昭和50)に日動出版から刊行された、飛松實『金山平三』から引用してみよう。
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 明治十六年に神戸・元町通で生まれ、家業の関係から花隅町の花柳界で幼少期を暮した金山平三は、その頃から芝居に親しみ、私など名すら知らなかった花隅の播半座をはじめ、大黒座、八千代座、相生座などの昔の小屋の田舎芝居へよく通ったという。/<<先生と芝居との接触は、小学校時代からである。そのころ神戸の実家近くの広場によく小屋がけ芝居が立ったらしい。毎日のように見に行っては母親を手こづらせ、時には母親の財布から五銭玉を“くすね”て学校をエスケープ、みつかってはお目玉をくったこともあったとか、首を縮めて語る先生には忘れられない懐しい思い出なのであろう。芝居は先生の少年時代へのノスタルジアではないだろうか。……>>(「幻の舞台」竹間吾勝『金山平三全芝居絵展図録』昭和四十六年 朝日新聞社)
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 金山はどちらかといえば、“義太夫狂言”あるいは“浄瑠璃芝居”と表現されるような上方芝居、すなわち歌舞伎でいうなら和事中心の「時代物」と呼ばれるジャンルの出し物に親しんで育ったと思われるのだが、刑部人はいわゆる芝居(しばや)として上演される江戸歌舞伎、すなわち七五調のセリフも粋な「世話物」と呼ばれる、荒事中心の芝居に親しみを感じていたようだ。
 刑部人の子息であり、解体前の刑部アトリエClick!の詳細な記録写真を撮影された刑部佑三様Click!によれば、金山平三とまったく同様に、刑部人は実家のあった栃木県都賀郡家中村で暮らしていた子どものころから、父親の影響を受けて芝居に馴染んでいたらしい。それは、刑部邸には明治・大正・昭和を通じての『演芸画報』(演芸画報社)が大量に保存されており、雑誌の裏表紙に「家中 刑部」と鉛筆で記されたものもあったようだ。これらの『演芸画報』は、ときおり金山平三も借りにきていたという。『演芸画報』は、わたしの家にもあったのだが、明治期の古い号はのちの括り綴じではなく、江戸期と同様の和綴じの仕様だった。親父が戦後に改めて古書店で買い集めたものだったが、もともと家に所蔵されていた同誌は、関東大震災Click!と東京大空襲Click!で灰になっている。

 
 刑部人は、結婚した当初から鈴子夫人を連れ、毎月のように歌舞伎座へ出かけていたようで、ときには息抜きのために女中たちを連れての観劇もあったらしい。だが、鈴子夫人は母親の影響から能のほうが好きだったらしく、娘時代から観世流の謡(うたい)を習っていたという。下落合にあった目白中学校Click!(近衛新邸Click!)の西側、下落合515番地には観世流の能舞台Click!が1930年(昭和5)まであったので、ひょっとすると鈴子夫人は母親ともども、ここで謡を習い、ときに発表会を開いていたものだろうか。
 このほか、芝居のセリフが書かれた東京美術学校時代のノートや、当時の上演された舞台のプログラムなども、刑部邸には保存されていた。また、刑部人は芝居の書割(背景画)を描くアルバイトをしており、戦後に語った言葉として「最近の書割は、下手だ」というのを、刑部佑三様は記憶されている。戦前の書割は、日本画風に筆をつかった現代のものよりもかなり繊細な仕上がりだったらしく、細かなところまで手を抜いたり省略したりせず描きこんでいたのかもしれない。ちなみに、刑部人は初代・中村吉右衛門(播磨屋=大播磨)が贔屓だったようで、「二代目はヘタで野暮で、弱っちゃったね」という親父の観察と共通した感想をお持ちだったかもしれない。(鬼平ファンのみなさん、ごめんなさい)
 ときに、子どもたちの前で飛び六方(勧進帳)をしてみせたり、河竹黙阿弥Click!の『青砥稿花紅彩画(あおとぞうし・はなのにしきえ)』Click!または『弁天娘女男白浪(べんてんむすめ・めおのしらなみ)』に登場する有名な「浜松屋の場」Click!をマネて、子どもがなにか質問すると「知らざぁ言って聞かせやしょう」と、弁天小僧菊之助の渡りゼリフで答えるという、いかにも「世話物」好きらしいユーモアたっぷりな七五調が返ってくることもあったという。


 横道へそれるけれど、わたしが芝居のセリフを初めて暗記したのも、この「浜松屋の場」と「滑川土橋の場」が最初だった。中学の勉強を暗記しないで、こんなことばかりしてたのだが、親父の書棚には『河竹黙阿弥集』や『日本戯曲全集』、『芝居名せりふ集』などが天井近くに数段にわたってギッシリ詰まっており、それを片っ端から盗み読みしていったのを憶えている。弁天小僧がリズミカルに語る、江ノ島での「美人局(つつもたせ)」や「枕さがし」も興味深かったがw、なによりも自分が住んでいる地域が語られる、次に控(ひけ)えた南郷力丸の湘南ゼリフに強く惹かれたからだ。1954年(昭和29)に第一書店から出版された、『芝居せりふ集』から引用してみよう。
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 その相ずりの尻押(しりおし)は、富士見の間から向うに見る、大磯小磯Click!小田原にかけ、生れが漁夫(りょうし)の浪の上、沖にかゝつた元船(もとぶね)へ、その船玉(ふなだま)の毒賽(どくさい)を、ぽんと打込む捨碇(すていかり)、船丁半の側中(かわじゅう)を引さらつてくる利得(かすり)とり、板子(いたご)一枚その下は地獄と名に呼ぶ暗黒(くらやみ)も、明るくなつて度胸がすわり、櫓を押しがりやぶつたくり、船足重き凶状に、昨日は東今日は西、居所定めぬ南郷力丸、面(つら)ア見知つて貰いやせう。(カッコ内引用者註)
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 金山平三は、虫垂炎をこじらせて手術後の療養をしていた1929年(昭和4)ごろから、いわゆる連作「芝居絵」を描きはじめている。金山は、アトリエでひとり芝居を演じながら、それを連続写真Click!に収めるほどの芝居好きだった。その演目は、やはり子どものころから観なれ、目に焼きついた舞台が多かったのだろう。


 刑部人と金山平三が、ことさら気の合った大きな要因として、また旅先の炉辺で語り合った多くの話題の中に芝居が登場していたのは、まずまちがいないだろう。ときに、ふたりで芝居を観に歌舞伎座へ出かけたり、セリフの掛け合いをしていたかもしれない。初代・中村吉右衛門の当たり役(新助)、『八幡祭小望月賑(はちまんまつり・よみやのにぎわい)』では、大播磨ファンの刑部人が新助役だったとすれば、はたして金山平三は女形(おやま)の美代吉になり、「きれいに別れて表向、お前の女房になりましょうわいな~」となってしまうのだが。……ちょっと想像しただけで、金山じいちゃんが不気味だ。ww

◆写真上:黙阿弥の『八幡祭小望月賑』=通称「縮屋新助(ちぢみやしんすけ)」のブロマイドで、初代・中村吉右衛門の新助(左)と6代目・中村歌右衛門の美代吉(右)。
◆写真中上:上は、1955年(昭和30)10月におそらく十和田で撮影された写生姿の金山平三。傘とイーゼルを手ぬぐいで無造作に縛って持ち歩いていたようでw、途中で合流している刑部人撮影の可能性が高い。(「刑部人資料」より) 下は、『演芸画報』の表紙で1914年(大正3)1月号(左)と1939年(昭和14)4月号(右)。
◆写真中下:上は、1936年(昭和11)12月27日に開かれた島村三七雄帰朝歓迎クラス会の▼刑部人。下は、1938年(昭和13)8月の福井謙三追悼会に出席した▼刑部人。いずれも、中島香菜様から提供の「刑部人資料」より。
◆写真下:上は、観劇しながらセリフをたどれる1954年(昭和29)に第一書店が出版したハンディな『芝居せりふ集』。下は、『梶原平三誉石切(かじわらへいぞう・ほまれのいしきり)』=通称「石切梶原」のブロマイドより、大播磨(初代・中村吉右衛門)の梶原景時(右)と6代目・中村歌右衛門の梢(左)、8代目・市川団蔵の六郎大夫(中)。