1926年(大正15)の秋、下落合の目白中学校Click!は豊島氏の居城だった豊島城(現・豊島園)の西北側、豊島郡上練馬村2305番地(のち練馬高松町1丁目2305番地)へと移転している。なぜ、目白駅も近い好立地のキャンパスから、当時はかなり不便だったと思われる上練馬村へ移転したのか、当初は不思議に思っていた。
 目白中学校(東京同文書院Click!)は、近衛新邸Click!の敷地(下落合432~456番地)の西側に隣接Click!して建っており、キャンパス全体が近衛家の所有地だったのだが、近衛文麿Click!が借入金の返済に迫られたものか、同敷地を手放さざるをえなくなったのが移転の主因なのだろう。しかし、それにしても生徒が周囲から集まりにくい、市街地からはさらに遠い上練馬村をなぜ選んだのかが、ずっとどこかで引っかかっていた。移転後に撮られた目白中学校の写真を見ると、下落合にあったのと同じ意匠の第一校舎が、田畑の中にポツンと建っているのがわかる。おおよそ、中学生が集まりそうもない地域に、ではなぜ同校は移転したのだろうか?
 先年、豊島園へ行く機会があったので、周囲をちょっと散策してきた。散策のメインは、1924年(大正13)2月から豊島城跡の南側に造成がスタートした「城南田園住宅」だ。その名のとおり、豊島城の南側にあたるので「城南」なのだが、郊外遊園地・豊島園の開設は1926年(大正15)9月なのでいまだ存在しておらず、下落合では目白文化村Click!の第三文化村が販売されていた時期と重なる。城南田園住宅は、江戸期から藩邸で生活していた山形の旧・米沢藩(上杉家)出身の人たちが、大正の初期から「田園住宅組合」を組織して東京郊外の環境のいい地域に、田園住宅地を開発しようと計画していたプロジェクトだった。
 1921年(大正10)ごろから住宅地探しがはじまり、豊島城跡の南側に敷地を見つけて「城南田園住宅組合」を結成、1924年(大正13)の暮れまでに敷地の造成を終えている。翌1925年(大正14)7月には、同組合の倶楽部兼事務所が竣工し、電燈線や電話線も引かれて本格的な住宅建設がはじまった。城南田園住宅地が異色なのは、大正期に結成された城南田園住宅組合がそのまま現在まで活動をつづいている点だろう。同組合では、緑が濃い住環境を後世に伝えていくために、当初から建蔽率は敷地の4割、建物は隣地から最低でも6尺(1.8m)の間隔を空ける、敷地境界は塀ではなく生垣とする……など、細かな住宅建設の条件を規定している。2009年に同組合が策定した、城南田園住宅地の最新「指針」を以下に引用してみよう。

 
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 「指針」は、敷地と建物に関する住まいの基準と、道路沿いの緑化に重点を置いたまちなみの基準からなります。/また各基準には、「取り決め」(必ず守っていただきたいもの)と「提案」(要望や例示を参考に工夫をお願いするもの)があります。/いずれの場合も、近隣組合員の同意と、理事会の承認が必要なのは言うまでもありません。
 ◆敷地
 「取り決め」最小敷地面積が250㎡(例外規定あり)であること。
 「提案」敷地の高さは既存建物の地盤高さまでとすること。
 ◆建物
 「取り決め」例えば、一戸建て専用住宅が原則。
 「提案」例えば、隣の家の建物との間隔を民法の規定(50cm)以上とする。
 ◆まちなみ―緑化―
 道沿いの緑化は、建物・車庫・物置・擁壁などの工作物が直接道路に面し、まちなみから緑の連続性が失われる事を避けるためのいくつかの基準からなります。
 「取り決め」例えば、道路と宅地との境界部に生垣かそれに類する植栽を行うこと。
 「提案」例えば車庫・駐車スペース・擁壁などについて緑化の様々な工夫をすること。
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 いま現在、このような規定を適用している住宅地は都内でも数が少なく、緑の減少を食いとめ環境を保全する指針としては、先駆けとなる大正期のケーススタディだろう。旧・米沢藩士の子孫たちを中心に結成された組合という性格上、お互いに結束しやすかったという側面もあるのだろうが、同じ地域で暮らす人々が住生活へ配慮しながら、後世まで住みやすい環境を伝えていくというテーマは、いまの東京において緑地の減少と都市型温暖化の進行とともに、もっとも切実なテーマのひとつとなっている。
 城南田園住宅を歩いてみると、コンクリートやブロックの塀ではなく、生垣なのがなによりも心を和ませる。庭に植えられた木々はいずれも大きく、大正期からのものも少なくはないのだろう。石神井川の河岸段丘の一部であるせいか、住宅地の外れには坂道があるのだが、その両側も緑で覆われている。緑と土面が多いせいだろう、コンクリートの街中に比べると明らかに気温が低い。夏は、おそらく3℃前後の気温差が生じるのだろう。住宅地のところどころに、「環境宣言」とタイトルされた一種の“闘争宣言”文が掲示されている。以下、引用してみよう。
 


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 環境宣言
 このみどり豊かな地域は、1924年(大正13年)以来一世紀近くにわたるわれわれの街づくりの努力によって、形成されたものです。/われわれは、組合契約に基き、この居住環境がさらに改善されるよう努力するとともに、すべての破壊行為に対して、組合の総力をあげて闘うことを宣言します。
     “平成24年住まいのまちなみコンクール国土交通大臣賞受賞”/城南住宅組合
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 豊島園に隣接していることもあり、おそらく80年代のバブル経済のころはマンション建設をはじめ、さまざまな再開発の手が伸びようとしていたのだろう。それらの再開発(破壊行為=町殺しClick!)に対し、住民たちが結束して明確な拒否宣言をしている、めずらしい住宅街だ。
 目白中学校が移転した1926年(大正15)、南東500mほどに位置する城南田園住宅地は開発が進み、豊島園もすでに開園していて、昭和に入ると住民たちが続々と家を建てては市街地から転居してきた。いや、城南田園住宅に限らず、移転した目白中学校の周囲では、豊島園を中心に郊外住宅地Click!の開発計画が目白押しだったかもしれない。武蔵野鉄道Click!の少し先、東大泉では箱根土地Click!が下落合の目白文化村につづき、1925年(大正14)より田園学園都市「大泉学園」Click!の造成を開始していた。目白中学校では、多くの郊外住宅計画が進行中であり、近いうちに人口が急増しそうな地域だと見こんで、移転先に同地を選んだのではないだろうか?
 

 

 だが、思惑はみごとに外れてしまった。武蔵野鉄道の沿線で、新たな住宅地の開発は予想以上に進まず、それほど住民の数が増えなかったのだ。関東大震災Click!を契機とした、東京市民の郊外への転居がひと段落してしまったことも、宅地開発を鈍らせる要因だったろう。これは、箱根土地による大泉学園の開発も同様で、宅地造成の50%弱を終えたところで、同社は開発を中止して撤退している。それにともない、武蔵野鉄道の乗客は思ったほど増加せず、同社はほどなく経営難に陥っていることは以前の記事Click!でも書いた。目白中学校は1934年(昭和9)、ついに新入生0人の最悪の事態を迎えてしまうことになる。

◆写真上:豊島園の南に隣接して、住みやすそうな街並みが残る城南田園住宅地の現状。
◆写真中上:練馬高松町1丁目へ移転後の、目白中学校の正門と校舎群。
◆写真中下:上左は、昭和初期に作成された地図にみる豊島園をはさんだ目白中学校と城南田園住宅。上右は、1936年(昭和11)に撮影された杉並へ移転後の目白中学校跡。中は、1936年(昭和11)撮影の豊島園と城南田園住宅地。下は、同住宅地の住宅明細図。
◆写真下:城南田園住宅の街並みだが、さすがに名称から「田園」が削除されている。