1928年(昭和3)6月19日に、新橋「花月」で開かれた怪談会Click!は佳境を迎えていた。泉鏡花Click!は、いくらでも怪談話を披露できたらしく、また柳田國男Click!と同様に巷間で囁かれる怪談話には精通していたらしく、放っておけばいつまでもしゃべりつづける勢いだったように見える。おそらく、過去に開催された「花月」怪談会でも、常連のひとりになっていたのだろう。
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 ◎泉鏡花の怪談(その3)
 何でも、麻布の市兵衛町とかに住んでゐた常磐津の女師匠で、この新橋あたりへ出稽古をしてゐたのがあつたんださうです。花千代といふ芸者も、そのお弟子の一人で。ところが女師匠が病気になつて、間もなく亡くなりました。それから数日経つて後、師匠の遺族の人が、葉書を一枚持つて、新橋へやつて来て、お弟子達をあちらこちらと、たづね歩行(あるっ)て、その葉書の差出人をさがしたが、如何しても判らなかつたと言ふのです。その葉書には、こんなことが書いてありました。『御病気と承りましたので、何月何日の午後何時すぎに、お見舞に上りましたら、お宅の格子戸を細くあけて、痩せたお婆さんが挟まれたやうにお内を覗いてゐて、ぐあひが悪くて、如何しても入ることができません。そのまゝ失礼して帰りました。どうぞ一日も早く、全快遊ばすやうに。』……ところが、この日付と時間とが、師匠の死んだ時刻とぴつたり合つてゐるので、どうも不思議でならないといふので、見舞を出した方を探すけれども、まるッきしわからんかつたッて、さういふんですがね。
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 「ヲイッ、近所の婆さんが、建てつけの悪い格子戸にアタマ挟まれて抜けなくなり、ただ往生してただけじゃん! 助けてあげなかったのかい!?」と、橋田邦彦医学博士はそろそろ呆れそうなものだが、ここはなんとかこらえて沈黙をつづけている。
 このあと、しばらく死後の人間から便りがあったという「死人からの葉書」が話題になって、出席者の経験談がつづくのだが、長谷川時雨が「死の前兆」について質問したのを契機に、実際に彼女の妹夫婦に起きた不思議な出来事を語りはじめた。
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 ◎長谷川時雨の怪談(その3)
 実は、あたしの妹の良人(おっと)のことですが、まだ海軍中尉だつた頃に、新婚早々、呉軍港に家を持つたので、記念だといつて博多人形を買つて送つてくれたことがありました。海軍々人の像と若い花嫁の像でしたが、どうしたわけか、その軍人の像が、頭から肩へかけて割れてゐました。新婚間もないときに、縁起でもないと、年取つた父は大層気に病んで、その人形を、元のまゝ綿に包んで、箱に入れて、土蔵の隅に蔵(しま)ひこんでしまひました。それから七年ほど過ぎて、妹婿は中佐になり、まだ呉軍港に住んでゐました。と、或る日、七年前に蔵ひこんだ人形が、どうしたはずみか引つ張り出されたのですが、父はまだ気にしてゐて、土蔵の窓から海の中へ投げ捨てました。土蔵は佃島の岸に立つてゐたのです。すると間もなく、その妹婿は、軍艦の上で、部下の水兵のために斬られて死んだのです。(中略) 呉鎮守府からの急報で、父の代りにあたしが呉に行きましたが、傷のやうすを聞くと、頸筋から肩先へかけた傷口が、七年前に見た博多人形の割れ傷とそつくりなのです。
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 娘婿を斬った水兵は、演習で出港する僚艦から預かったノイローゼ患者だったらしく、この日は休暇で乗組員はほとんどが上陸していたが、上陸を許されなかった水兵が激昂し、艦で当直勤務をしていた娘婿の中佐に手斧で斬りかかったようだ。
 「ただの不注意なんだよ。人形が割れたのは、長谷川のお父つぁんの不注意なんだよ! どうして、誰も指摘しないのぉ?」と、橋田博士は胡坐をかいた膝頭をイライラと揺すって、「もう、飲むっきゃないし」と盃を重ねていたかもしれない。
 このあと、『主婦之友』の記者が人魂(火の玉)Click!の存在に話を向けると、さっそく平岡権八郎が反応している。彼は実際に人魂を見ており、新橋駅前にある烏森稲荷社の縁日で、「大屋根の上を、すうつと飛んで行くところでした。沢山の人が、わいわい騒いで見てゐました」と思い出を語った。つづいて、里見弴が麹町通りで見た人魂の目撃情報を披露し、「電車通りの向う側の屋根の上三尺ばかりのところを、尾を引いて、ふはふは飛んでゐました」と話している。
 「ふっ、今度ぁ人魂だってさ」とボソボソつぶやいて、空になった銚子をふりながら、腫れぼったい目で赤い顔をした橋田博士は、かまわず左隣りの長谷川時雨が手をつけずにいる銚子に手を出したかもしれない。
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 ◎平岡権七郎の怪談(その2)
 或る晩、町に人魂が出たのを見つけた二人の夜廻りの鳶のものが、鳶口でそれを突かうとしたら、人魂はすうつと、前の方へ逃げましたので、それに釣られた仕事師達は、鳶口を振り翳して、どんどんその人魂を追つて行きました。すると、その人魂は、ふはりふはりと逃げながら、或る路地に折れて、突当りの家の櫺子窓から、家の中へ飛び込んでしまひました。と、家の中で『うゝん、うゝん。』と唸る声がして、やがてお婆さんの声で、『お爺さんや、何をそんなに魘されてゐなさる。』と、頻りにお爺さんを呼び起してゐるらしい様子でした。するとお爺さんは眼を覚したと見えて、『あゝ、恐ろしい夢を見た。私が町を歩いてゐたら、何を感違ひ(ママ)したのか、二人の仕事師が、突然に、鳶口を振り翳して俺を追つかけて来たので、生命からがら逃げて来た夢を見た。』と語つてゐました。窓の外まで追ひかけて来た二人の鳶のものは、この話を立ち聴いて、ぞつと慄へ上つたさうです。
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 橋田博士は、「科学」とはなんなのだろうか? 「文明開化」はどこへいったのだろうか?……と、改めて自問していただろうか? それとも、「ここは、江戸時代のまんまじゃねえか。もう、どにでもなれってんだ、ちくしょうめ! こんな会に出席したオレが、バカだった」と、ついにヤケのやんぱちになっていただろうか? どこか、あきらめたような、半分ふてくされてような反応をしている。
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 ◎橋田邦彦の茶々(たぶん酔っぱらいながら)
 ♪♪追つかける仕事師も仕事師だが、人魂をぶらぶら散歩に出した、お爺さんにも困りますな。(一同哄笑)♪♪ハハハハ(笑うっきゃないし)
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 このあと、柳田國男と泉鏡花が『甲子夜話』に登場する「人魂」についてひとくさり語ると、今度は柳田が怪猫Click!について話しはじめた。投げやりな茶々を入れてしまった橋本博士は、すかさず「ニャーッ」と赤い顔で招き猫のようなポーズをしただろうか。
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 ◎柳田國男の怪談(その3)
 自分の祖母から聴いた話ですが、信州の飯田で、長患ひをしてゐた人が、毎日毎日家の猫が蒲団の上へあがつて、朝から晩まで寝てゐる。後には病人が心づいて、あゝいやな猫だ、この猫は、どうしてかう朝から晩まで来てゐるのか、と言つてゐたさうです。(中略) 病気が治つたら、棄てゝ来なくちやと、病人は口癖のやうに言つてゐました。それから病気は次第によくなつた。するとその猫を棄てゝ来ると、風呂敷に包んで出かけて行つて、それつきりもう還つて来なかつたといふのです。
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 寒がりのネコが、人間のぬくもりのある布団に寄りつくのはあたりまえで、この話はあまり怪談には聞こえない。橋田博士の茶々に影響されたのか、平岡権八郎が「猫婆ですな」といったので、また一同はドッとわいたようだ。
 
 お株をとられた橋田博士は、「山へ棄てにいって、ヒック、そのまま婆さんも道に迷って、どこかで遭難したんだぜ、きっと。ヒック」と、少しは論理的な思考回路がまだ残っていただろうか? それとも、このあとひと言も発しなくなってしまったので、すっかり酔いがまわって、意識がモウロウとしていたのだろうか。
                                   <つづく>

◆写真上:天保年間に制作された、歌川国芳の団扇絵『猫すゞみ』(部分)。
◆写真中上:上は、小村雪岱の挿画「死神」。家の中をうかがう「死神」なのか、格子戸にはさまって往生している老婆かは不明だ。下左は、長谷川時雨の妹婿の遺体を描いた小村雪岱「斬られ中佐」。下右は、長谷川時雨のブロマイド。
◆写真中下:小村雪岱の挿画で、「人魂」を追いかける鳶のふたり。
◆写真下:左は、1941年(昭和16)に東條内閣で文相に就任した橋田邦彦。右は、1945年(昭和20)の自決前に描かれた鏑木清方『橋田邦彦像』(部分)。