荻窪の「荻外荘」Click!を杉並区が買収し、緑地公園化あるいは記念公園化のプロジェクトが進んでいる。近衛通隆様Click!が存命中にお邪魔をし、荻外荘の内部を拝見させていただいたのだが、改めて同荘を訪問し建物の外観や庭園も撮影させていただいているので、杉並区の濃い屋敷林も含めた公園化計画と合わせてご紹介したい。
 杉並区の保存プロジェクトはいまだ企画・計画フェーズであり、最終的な着地点は住民との話し合いが継続中でハッキリとは見えていないようだ。杉並区による、具体的な保存計画についてのアイデアがまとまるのは、来年(2015年)の3月以降のことだという。その方向性として、以下の3つのテーマで検討が進められているらしい。
 (1)昭和初期の伊東忠太設計による建築史的な価値としての建物保存。
 (2)緑豊かな郊外別荘地・荻窪における象徴として緑地確保を中心とした保存。
 (3)近衛文麿の別邸として戦争への重要決定がなされた歴史価値としての保存。
 (1)は、1927年(昭和2)に伊東忠太が義兄の入澤達吉のために設計し、「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」と名づけられた経緯は知られており、建築史からみればかなり改築の手が加えられているとはいえ、昭和初期の和館作品としては貴重なようだ。その後、1937年(昭和12)から近衛文麿Click!が移り住み、西園寺公望Click!によって「荻外荘」と名づけられた。玄関先には、西園寺揮毫による「荻外荘」と書かれた扁額が架けられている。当初は別邸として購入したようだが、同年以降は基本的にここへ定住し、家族も含め近衛家が下落合の本邸(近衛新邸Click!)にもどることはなかった。

 
 
 
 
 
 
 
 荻外荘は、過去に二度の大規模な増改築が行なわれている。一度めは、近衛文麿が同邸を取得した直後の1938年(昭和13)に別棟と蔵、付属屋が増築され、つづいて1941年(昭和16)より長谷部鋭吉の設計により書斎と寝室を中心に、住居内部の大改造が実施された。二度目の大きな改築は、1960年(昭和35)に玄関と応接間、客間が豊島区の天理教東京教務支庁へと移築され、1938年(昭和13)の付属屋も解体・撤去された結果、荻外荘は建築当初のほぼ3分の2の大きさになった。なお、天理教東京教務支庁Click!へ移築された応接間については、栗原行廣様Click!よりお送りいただいた近衛文麿が写る貴重な写真とともに、こちらでも以前にご紹介Click!している。
 荻外荘の保存には、この移築されて天理教の支庁で保存されていた建物3棟の、荻窪への再移築も検討されている。現状の荻外荘は、戦後にかなりの手が加えられ、外観も大きく変わっているのだが、天理教の支庁へ移築された同荘東側の建築、すなわち応接間と客間、玄関はほとんど手つかずで改築されておらず、ほぼ当初の姿を保っている。つまり、豊島区へ移築された建物を荻窪の荻外荘へもどしてこそ、近代建築としての価値が高まるという考え方だ。天理教側の理解と協力で、これが実現されれば嬉しいかぎりだ。




 (2)の庭園を含めた屋敷林の保存については、以前、近衛通隆様からお見せいただいた広い芝庭を中心とする古写真と比較すると、大きくさま変わりをしたのが判然としている。善福寺川へ向け、緩傾斜していた庭園の池は埋め立てられ、芝庭がすべてなくなって広い駐車場や住宅地となっている。屋敷を囲む樹木は大きく成長し、うっそうとした屋敷林を形成している。近衛様によれば、広大な敷地の大半がGHQの命令で“解放”させられたようだが、本来の敷地は善福寺川の対岸まで拡がっていたそうだ。
 住宅地に残る緑地確保の側面からは、南側の駐車場を含めて、どこまで庭園を修復するかがメインテーマだろうか。ただし、荻外荘の庭園を意識しすぎると、樹林よりも芝庭のスペースが多くなり、屋敷林の保存(緑地の確保)という観点からはややズレてしまうだろう。善福寺川の段丘斜面には、下落合の崖線と同様に濃いグリーンベルトが形成されていたと思われ、緑地の回復・保存と安全な公園化との兼ね合いが難しいところだ。
 (3)の歴史的な価値をめぐる記念館化の構想は、わたしとしてはぜひ必要なテーマだと思う。特に1941年(昭和16)には、荻外荘が首相官邸のような役割りを果たしており、たび重なる「荻窪会談」Click!によって太平洋戦争への道、すなわち大日本帝国の破滅への扉が開かれた歴史的な場所としての位置づけだ。また、荻外荘の応接間は山本五十六Click!が対米開戦の直前に、戦争長期化による日本の破滅を警告した場所でもある。荻窪郷土史会の前会長が表明されているように、「若い人たちは過去の失敗を繰り返さないためにも荻外荘の歴史を学んでほしい」と、わたしも切に思うしだいだ。


 
 1945年(昭和20)の戦争末期、荻外荘のまわりが憲兵隊によって包囲されていたのを、近所の住民のみなさんが目撃している。おそらく、2月14日の「近衛上奏文」と関係者の逮捕直後からと思われ、近衛文麿が戦争終結へ向けて画策するのを阻止し、同荘へ出入りする人間(近衛に接触する人物)を細かくチェックするためだった。事実上、陸軍によって監禁生活を強いられた近衛文麿は、B29の警戒警報あるいは空襲警報のサイレンが頻繁に鳴り響く中で、日々いったいなにを考え、どのような想いを噛みしめていたのだろうか。

◆写真上:庭園灯のある斜面から見上げた、①荻外荘の南東側からの景観。
◆写真中上:上は、荻外荘平面図と撮影位置。下は、②~⑮の位置からの現況。
◆写真中下:上の2葉は、晩秋の葉を落とした⑯シダレザクラと⑰満開時に「殿様の部屋」から撮影させていただいたもの。同室は、近衛文麿が1945年(昭和20)12月16日に自裁した部屋だ。下の2葉は、栗原行廣様よりいただいた天理教東京教務支庁の応接間と廊下部分の現状。荻外荘からの移築時のままで、ほとんど手が加えられていない。
◆写真下:上は、1927年(昭和2)に「楓荻凹處」として完成時の入澤達吉邸を南の庭園から。中は、1937年(昭和12)に近衛文麿が購入した直後に撮影された荻外荘の南側庭園。下左は、現在の最終形に改築ののち1960年(昭和35)に撮影された荻外荘。下右は、2006年(平成18)3月に邸内を拝見させていただいた故・近衛通隆様と夫人の節子様で、1960年(昭和35)の大規模な改修時に設置された暖炉のある広い食堂にて撮影。