大正期から昭和初期にかけて建設された洋風の住宅には、それを維持するための大きな課題があった。従来の畳部屋ではなく、床面が板張りあるいはリノリウム張り、コルク張りといった広い洋間が登場したことで、その清掃の道具がまったく存在しないことだ。畳部屋を掃除する、昔ながらの和ぼうきはあったものの、細かなチリやホコリを清掃するには、日本家屋の板張り廊下などにならって、相変わらず雑巾がけが行われていた。
 しかも、洋間は畳敷きとはちがってチリやホコリ、それに表面の汚れが目立ちやすく、どうしても日々の掃除は欠かせなかった。当時の主婦や女中たちは、和室用の掃除ぼうきで床を掃いたあと腰をかがめて雑巾がけをするか、あるいは床や家具を問わずすべて雑巾で拭き掃除するという、面倒で手間のかかる仕事を日々こなしていた。だが、大正期も後半になってくると、ようやく一部のおカネ持ちの住宅向けではなく、「中流」層にも手がとどく、洋風住宅専用のさまざまな掃除道具が普及してくる。さて、本格的な郊外文化村開発のさきがけとなった目白文化村Click!をはじめ、下落合に林立した西洋館では、どのような掃除器具が導入されていたのだろうか?
 そのひとつが、①のローラー型の「自動掃除器」と呼ばれたものだ。自動掃除器は、柄の先にあるローラー部分に拭きとり用の掃除用タオル(雑巾状のもの)を巻きつけ、それを押し転がしていくことで、いちいち腰をかがめなくても床面を掃除できる、効率的で便利な道具だった。押していくにつれ、雑巾の汚れていない部分が順ぐりに出てくるので、すべての面が汚れきるまで拭きつづけることができる。板敷きやリノリウム張りなどの床には最適で、少し広めの応接室や居間などで使われていた。
 ただし、壁面に腰高の板壁がなく、床からいきなり白色の漆喰壁のような室内構造だったりすると、ローラーに巻いたタオルの汚れ、あるいは手拭きの場合は雑巾の汚れが当たり、白い壁を汚してしまうので、床と壁の角部分は細い棒に雑巾を巻きつけてこするか、指先による手作業でていねいに拭わなければならない。
 コルク床の場合は、掃き掃除と雑巾の乾拭きによる通常の清掃に加え、石鹸をつけて洗う大掃除のあと、1年に一度、ニスを塗り直すのが当時の習慣だったようだ。特に、汚れのひどいところはニスも剥げやすいので、場合によってはその部分だけ年に数度の塗り直しが必要だったらしい。コルクの床というと、特有の弾力性を活かしたやさしい床を想像してしまうが、当時はあくまでも床材としてニスで固められて使用されており、その上をスリッパか室内履きで歩くのが前提だった。
 また、リノリウム材を用いた床も造られたが、事務所や店舗に多く導入されたものの、住宅ではあまり人気がなかったようだ。リノリウムは通常の清掃に加え、表面を保護するためにモップで油を塗布しなければならず、いまだ和服生活が多かった大正期では、着物の裾が床面の油で汚れるために敬遠されたと思われる。


 洋間に絨毯を敷いているときは、布団たたきと同じような形状の絨毯たたき(②)で、表面をたたいてホコリを浮かせたあと、専用につくられた③の絨毯ぼうきでホコリを集め、輸入された「カーパットスッパー」(ママ:カーペットスッパー?)と呼ばれる④の掃除器でゴシゴシ吸いとるのが、当時の一般的なクリーニングだった。今日では、電気掃除機ひとつで(場合によっては掃除ロボット1台で)、床面も絨毯もカンタンに掃除が済んでしまうが、当時は何段階にも分けて掃除しなければならない、負担の大きな作業だった。洋室が数部屋ある住宅では、面倒なので部屋ごとに隔日で掃除をするなど、主婦や女中の負担を減らす工夫をしていた。
 おカネ持ちの家では、同じく海外から輸入された⑤の「真空掃除機」(電気掃除機とは呼ばれなかった)を導入するケースもあったが、なによりも高額な舶来製品であること、吸引力が今日のように強くなく手作業のほうが仕事が早いこと、そして郊外住宅地では電気事情がいまだ不安定で停電が多かったこと……などの理由から、結局、あまり普及しなかったらしい。また、郊外住宅で雇用する女中も、真空掃除機など見たことのない女性が多く、機械を扱うのに不慣れなことから、操作をまちがえて故障の原因になるなど、真空掃除機はあまり人気が出なかったようだ。
 ちなみに、当時の⑤真空掃除機は120~130円もしたが、②絨毯たたき、③絨毯ぼうき、④輸入品の「カーパットスッパー」(ママ)を用いる洋間掃除の場合は、すべて合わせても20円前後で済むため、女中や書生を置く家もめずらしくなかった当時としては、機械に頼らず人力で掃除する家庭が多かったのだろう。もうひとつ、真空掃除機が高価なわりには故障しやすいという、別の課題もあったのかもしれない。


 床面のみならず、ドアや窓、腰高の壁などの手入れは、毛織の雑巾を使って乾拭きされていた。タオル状の毛織布の両端を縫ってリング状にし、汚れたら洗ってそのまま物干しざおに輪を通して乾かすような使われ方をしていた。毛織布を用いるのは、板壁や窓枠に使われた木材の光沢を出すためだと思われる。また、風呂場のタイルや洗面所、便器などの硬質陶器は、工業用塩酸を15倍に薄めた希塩酸をつけて洗うことが多かったようだ。いまだ、トイレや浴室の専用洗剤など存在せず、汚れ落としには希塩酸や重曹が活躍した時代だった。おそらく主婦や女中たちは、今日のようなゴム手袋も普及していなかったので、手の荒れにずいぶん悩んだのではないだろうか。
 台所にも、食器や流し用の台所洗剤などない時代なので、ふつうの石鹸では落ちないガンコな汚れの場合は、万能磨粉(いまでいうクレンザー)を使って掃除していた。特に、水道の蛇口や引き出しの取っ手、ドアノブ、窓のカギなどに多く用いられていた金属、銅や真鍮の金具を磨くときにも、万能磨粉はよく使われたようだ。
 また、玄関や土間、外壁などコンクリートやレンガ、石組みなどで造られた部分は、いまでも見られる⑥の外ぼうきや⑦のデッキブラシが当時から使われていた。チリやホコリは外ぼうきで掃き、汚れた箇所にはたいがい水をかけ、デッキブラシでごしごしこするやり方だ。また、風呂場や玄関まわりで、コンクリートに埋めこんだタイルなどがある場合は、その部分だけ濡れ雑巾でていねいに拭かれていた。
 洋間に比べて和室の掃除は、特に掃除道具が進化することもなく、昔ながらの手法がそのまま行われていた。畳は和ぼうきで掃いたあと、雑巾で乾拭きする作業が日々つづけられた。障子や窓は、布製ではなく和紙を使った紙製のハタキで、チリやホコリをはたいている。柱や長押(なげし)は、白木綿の袋に炒った糠(ぬか)を入れ、毎日光沢が出るまで磨かれた。さらに、和室の縁側など板張りの廊下は、掃き掃除や拭き掃除が終わったあと、“おから”を白木綿の袋に入れて毎日根気よく磨く作業が行われている。
 わが家は、ほとんどの部屋が洋間なのだが、1間だけ、床の間のない唐紙と障子のシンプルな和室(6畳)を造った。ときには、畳へ横になってゴロゴロしたくなるかもしれない、炬燵に入ってヌクヌクしたくなるかもしれない……などと想像してこしらえた和室なのだが、ほとんど使わないまま、現在は子ども夫婦の寝室になっている。しかも、カーペットを敷いているので、洋間とあまり変わらない部屋になってしまった。
 

 もし和室の掃除が、昔ながらの面倒な手作業のままだったとしたら、おそらくすべてを洋間仕様にしていただろう。大正から昭和初期の、手がかかる煩雑な掃除事情を詳しく知るにつけ、戦後の優れた掃除機器の進化や掃除ロボットの登場は、住環境の特に維持管理面においては、想像以上に大きな変革や効率化をもたらしているのだと改めて実感した。そして、それらの先端デバイスは、今後、たとえば「掃除ロボットが働きやすい部屋や窓、外壁、屋根」というように、住宅自体の姿まで徐々に変えていくのかもしれない。

◆写真上:すっかり紅葉し、もうすぐいっせいに葉が降りそそいでくる大ケヤキ。毎年腰が痛くなるので、落ち葉掃きロボットが発明されればすぐにも欲しい。
◆写真中上:上は、1928年(昭和3)発行の『主婦之友』2月号に掲載された当時は目新しい掃除道具。下は、1921年(大正10)刊行の『住宅』1月号に掲載された人着の食堂。
◆写真中下:同じく1921年(大正10)に刊行された『住宅』1月号に掲載の、当時は最先端だった洋風住宅の居間(上)と寝室(下)の室内デザイン。
◆写真下:上は、同号掲載の玄関ホール(左)と応接室(右)。下は、大晦日が近づくにつれ大掃除でアッという間に迎える下落合の夕暮れ。