1997年(平成9)に不忍画廊から出版された『松本竣介の素描』を、椎名町のギャラリーいがらしClick!からお借りして眺めていたら、落合風景の作品が何点か含まれているのを見つけた。これらの素描作品は、松本竣介・禎子夫妻Click!が主宰していた戦前からつづく綜合工房から、1977年(昭和52)に刊行された『松本竣介素描』には収められていると思うのだが、展覧会や図録などではあまり見かけない作品だ。
 松本竣介Click!の作品は、自在なデフォルメや構成が多用されていて、ピタリと下落合の描画ポイントを特定するのが難しいケースが多いのだが、この作品は建物のディテールや周辺の風景がしっかり描かれているので、場所を特定するのが容易だった。1944年(昭和19)すなわち敗戦の前年に制作された本作は、『上落合風景』とタイトルされているが、松本がスケッチブックを広げているのは下落合側だ。しかも、1944年(昭和19)現在のモチーフとなった風景そのものが、B29の偵察機によって上空からとらえられている。
 また、『上落合風景』には同年ごろに制作されたもうひとつの素描作品、『子供のいる風景』というバリエーション作品が存在している。この作品に描かれている背景が、『上落合風景』で描かれた風景モチーフと同一のものだ。松本竣介Click!はアトリエをあとにすると、島津家Click!が設置した四ノ坂の階段を下り、刑部人邸Click!と林芙美子・手塚緑敏邸Click!の間から中ノ道(現・中井通り)へと出た。このとき、庭木の手入れをしていた手塚緑敏Click!と挨拶を交しているのかもしれない。松本竣介のアトリエを頻繁に訪れた手塚とは、以前より親しい間柄だった。
 松本竣介は、中ノ道から西武電鉄Click!の中井駅へと出るが、駅の周辺は改正道路(山手通り)の工事Click!で殺伐とした光景だっただろう。そういえば、中井駅の北側から大規模なタタラ遺跡Click!が発見されたのを思い出したかもしれない。戦時中なので、タタラ遺跡はほとんど調査もされずに道路工事で破壊されている。彼は寺斉橋Click!を渡らずに、手前の整備されたばかりの川沿いの道を左折した。そして、大正橋をすぎて先が線路で行き止まりの工事現場に入り、西武線鉄橋が見える位置までくるとスケッチブックを開き、川沿いに立ちながら写生をはじめた。
 手前には妙正寺川が流れ、左手には西武線鉄橋を入れて、正面には大きめな江戸小紋を生産する染物工場の裏手を中心に描き進めている。染物工場の特徴的な屋根や2階建屋、干し櫓、煙突などを入れ、妙正寺川へ穿たれた工場の排水口を、まるで眼のように描き入れている。もうお気づきの方も多いと思うが、この染物工場は1920年(大正9)に創立され、いまも健在で営業をつづけている江戸小紋Click!「二葉苑」Click!の裏手だ。
 1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から、二葉創業者のひとりであり当時は工場主だった、小林繁雄の紹介文を引用してみよう。
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 小林繁雄 上落合三二八
 其の質実なる性格態度は軽薄なる現代社会を超越す、居常至誠を以て事に当り、公私を問はず克くその職分に尽力す、之れ同氏が郷黨(きょうとう)の信頼をあつむる所以である、氏は長野県の出身、夙(つと)に業界に身を投じて、機微に通じ大正九年下落合の地に染工場を創設し、同十三年現在地に設備を拡充すると共に移転し、以て今日に至る、現に職工二十人余を容して本町産業界に溌剌たる能率を挙げつゝあり 一面公的には昭和四年警備委員に推されて其の向上発達に寄与するところ多し。(カッコ内引用者註)
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 松本竣介は戦前から、特高Click!に目をつけられていたと思うのだが、耳が聞こえないハンディキャップが幸いしたせいか、きびしい追及は受けていないようだ。「雑記帳」Click!を刊行している際、自宅へ若い特高が訪ねてきているが、その後、呼び出しや嫌がらせを受けた記録はない。戦況が逼迫し、日本全体が緊張感に包まれていた1944年(昭和19)現在、妙正寺川のほとりで工場を写生する画家がいたら、必ず近所の人々の目にとまり、また特高の尾行がついていたとしたら検束されかねない状況なのだが、彼は無事にスケッチを終えている。
 さて、『上落合風景』に描かれた下部の描写が気になる。手前(松本竣介がスケッチブックを持って立つ川端)の曲線は、本来、妙正寺川の河畔が描かれるべきであり、すなわち、対岸のカーブと並行している川筋の曲線が表現されてしかるべきだ。しかし、なにやら妙正寺川のほうへ張り出した地面、または土砂の山のような曖昧な川岸が描かれている。その謎が氷解したのは、1941年(昭和16)に陸軍の航空隊が撮影した同所と、1944年(昭和19)にB29の偵察機が撮影した同所とを比較してからだ。
 1941年(昭和16)現在、妙正寺川のクネクネと蛇行した川筋をできるだけ直線状にする整流化工事は、西武電鉄の下落合駅から西へ200mほどのところ、もともとは佐々木久二邸Click!の邸内プールだった「落合プール」Click!のあたりまでしか進捗していない。しかし、1944年(昭和19)になると、整流化工事は大幅に進捗し、東は松本竣介の『上落合風景』に描かれた西武線鉄橋まで、西は寺斉橋の下流にあたる大正橋あたりまでが工事を終えている。そして、落合地域で最後に残った区間が、ちょうど松本が描いた二葉苑の裏手あたりの川筋だった。

 

 すなわち、松本竣介は妙正寺川に残された最後の整流化工事の現場、下落合3丁目1858番地(現・中落合1丁目)の路上あたりへ足を運んで、対岸の上落合1丁目328番地(現・上落合2丁目)に建っている二葉の染物工場を描いていることになる。だが、喧騒感のある工事現場とはいえ、戦争が激しくなった時期でもあるので、すでに作業員の姿もほとんど見られず、あたりはひっそりとしていたのではないだろうか。だからこそ、誰かに見とがめられることもなく、工場を写生しつづけることができたのだ。
 画面手前に描かれた地面の様子が不可解なのは、そこが住宅や道路が存在しない赤土で埋め立てられた古い川筋近くの地面であり、あちこちに盛り土や資材の残滓が見られたであろう工事現場そのものだったからだ。手前の不可解なカーブは、旧・川筋を埋め立てた赤土の残土であるのかもしれない。その埋め立てられた広い“空き地”の様子は、松本竣介のもうひとつの素描『子供のいる風景』で確認することができる。
 『子供のいる風景』では、同じ二葉の工場建屋が右手に描かれているが、西武線の鉄橋だけでなく、やや引き気味の位置から同線の線路までがとらえられている。家族連れが遊ぶ線路際の三角の“空き地”が、妙正寺川の蛇行を整流化したあとの埋め立て地だ。『上落合風景』と『子供のいる風景』で異なる点は、後者に二葉の工場から妙正寺川へと下りるハシゴが描かれている点だ。もちろん、染めの工程で発生する水洗いClick!をしに、川底へと下りるために設置されたハシゴだろう。また、鉄橋の向こうには下落合の丘(目白崖線)の連なりが、かなり大ざっぱに描写されている。画角からいえば、徳川邸Click!のある西坂や聖母坂Click!のあるあたりの丘だ。
 松本竣介が、このふたつの素描を制作してから10年ほどがすぎたころ、独立美術協会Click!の片山公一Click!がほぼ同じような位置から、同様に染物工場と妙正寺川をモチーフにしたタブロー『上落合風景』を描いていることは、すでにこちらでご紹介している。

 
 余談だけれど、戦後に松本竣介と親しく交流した洋画家・吉岡憲は、上落合1丁目に住み一時期は近くの染物工場で働いていたことがある。彼はのちに、電車に飛びこんで自裁してしまうのだが、吉岡憲もまた「下落合風景」を数点描いている。でも、それはまた、別の物語……。

◆写真上:1944年(昭和19)に制作された、松本竣介の素描『上落合風景』。
◆写真中上:上は、松本アトリエをたびたび訪れた手塚緑敏(左)と松本竣介。下は、素描『上落合風景』の描画ポイントから見た現状。
◆写真中下:上は、『上落合風景』と同時期に描かれた松本竣介『子供のいる風景』。中は、描画ポイントの比較で1941年(昭和16)の空中写真にみる整流化工事前の鉄橋付近(左)と、1947年(昭和22)の空中写真にみる同所(右)。下は、まさに『上落合風景』と同時期で整流化工事のさなかに撮影された1944年(昭和19)の同所。
◆写真下:上は、大正橋から見た描画ポイントの西武線鉄橋付近。下左は、1997年(平成9)に出版された『松本竣介の素描』(不忍画廊)。下右は、大正期の染物工場「二葉」。(同社公式サイトClick!より)