大正の中期、箱根土地株式会社Click!が下落合で目白文化村Click!の造成に着手すると、ほぼ同時期に目黒駅の近郊では田園都市株式会社による洗足田園都市Click!の造成がスタートしている。以前に一度、こちらでも現地をおおざっぱに歩いてレポートを記事にしているのだけれど、目白文化村と洗足田園都市は期せずしてシンクロした郊外住宅地の開発なので、もう少し細部に注目して書いてみたい。
 大正期の東京郊外としては、初めて本格的な文化住宅地の開発となったふたつの街は、1922年(大正11)6月に目白文化村の第一文化村が販売を開始し、1ヶ月ほど遅れて同年7月に洗足田園都市の売り出しが追いかけるようにスタートしている。おそらく、箱根土地(株)と田園都市(株)は、お互いの開発構想や造成地を強く意識していたと思うのだが、両社のコンセプトは大きくちがっていた。箱根土地が、山手線の目白駅からやや離れた丘上や斜面の敷地に、米国の「ビバリー・ヒルズ」Click!的なコンセプトのもとで“文化村”をイメージしたのに対し、洗足田園都市は目蒲線(現・目黒線)洗足駅の設置を前提に、駅を中心とした沿線住宅地を構想している。
 いわば、英国のレッチワースを規範として開発を進めているのだが、田園都市(株)という社名そのものもレッチワース開発の英国ディベロッパーと同一のものだ。また、当初から商店街の形成を意図した敷地を、駅の周囲へ設置しているのもレッチワースと同じだ。目白文化村の場合は、落合府営住宅Click!(一部の土地は堤康次郎Click!による東京府への寄贈Click!)によってあらかじめ形成された、目白通り沿いの商店街あるいはダット乗合自動車Click!の路線に依存しており、商店街や交通は目白文化村自体の開発計画には含まれていない。
 史的な土地柄も、双方は大きく異なっている。洗足田園都市は、その名のとおり田園地帯にイチから開発された“文化村”だが、目白文化村はもともと江戸時代から郊外に形成されていた清戸道Click!(現・目白通り)沿いの繁華街=椎名町(江戸郊外で「町」のつく呼称はめずらしい)のエリアに造成されている。ちなみに、椎名町は現在の西武池袋線の椎名町駅から南へ300mほどのところ、下落合と長崎地域の境界あたりに形成されていた。また、明治になってからの下落合は、郊外別荘地として華族やおカネ持ちが大屋敷や別邸を建てたエリアであり、すでに純粋な田園地帯とはいいがたい開発が漸次進んでいた。
 田園都市(株)は、鉄道および駅を基軸として一貫した住宅地を造成しているのに対し、箱根土地はそのときのブームにのった一般受けするような、いき当たりばったりな開発を繰り広げているように見える。箱根土地(株)は、目白文化村の販売が終わるころには「学園都市構想」のもと、武蔵野鉄道へ駅舎を寄付し東大泉Click!(現・大泉学園)の造成に着手、つづいて同じコンセプトや手法を用いて中央線沿線の国立Click!開発をスタートしている。一方、田園都市(株)は洗足田園都市の第1期販売につづき、多摩川台(のち田園調布Click!と呼称)の造成、1924年(大正13)に大岡山へ東京高等工業学校(現・東京工業大学)が開校すると、洗足田園都市の第2期販売へと事業を展開していく。
 ただし、目白文化村に比べて洗足田園都市は、山手線の目黒駅からかなり離れていたせいか、実際に土地が売れても邸宅を建設するスピードは緩慢だったようだ。1926年(大正15)現在では、敷地の59.2%しか住宅が建設されていない。目白文化村のほうは、相対的に山手線・目白駅から近かったせいか(それでも徒歩10~20分前後はかかる)、土地投機ブームClick!の対象となった第三文化村と第四文化村の一部を除き、かなり高い確率で敷地には住宅が建設されている。洗足田園都市の敷地に、住宅がすき間なく建てられるのは1935年(昭和10)前後になってからのことだ。これは、より市街地から遠く離れた多摩川台(田園調布)についても同じことがいえる。

 
 
 
 洗足田園都市には、目白文化村には見られない特徴がある。それは、田園都市(株)と住民組織である「洗足会」とが、土地の購入あるいは住宅建設について基本的な規約(条件)を決めていることだ。それは、現代の住宅地が抱える課題を先どりしたような先進的なテーマで、少し前にご紹介した城南田園住宅地Click!の規約にも通じる内容だ。以下、その4つの骨子を、1987年(昭和62)に鹿島出版会から刊行された『郊外住宅地の系譜―東京の田園ユートピア―』所収の、大坂彰「洗足田園都市は消えたか」から引用してみよう。
 ①本土地を住宅以外の用途に充てないこと。
 ②土地の引渡しを受けたる時から一ヶ年以内(のち一ヶ年六ヶ月)に建物の築造に
  着手すること。
 ③近隣に対し、悪感迷惑を惹起すべき程度の煤烟臭気音響震動其他之に類する事
  物を発散せしめないこと。
 ④会社の承諾を得るに非ざれば一区分地を二個以上の宅地として、割譲又は使用
  せざること。
 この規約の④は、洗足に少し遅れて開発された多摩川台(田園調布)で適用されたものであり、のちに洗足田園都市へとフィートバックされた条件らしい。また、②は明らかに投機目的の不在地主を排除する条文だ。
 洗足田園都市が、現代の住宅事情を先どりしているのは、最長10年の住宅ローンが設定できたことだ。したがって、当時の「中流」といわれた月給制による勤め人(サラリーマンの管理職以上)でも、なんとか新築住宅を購入できたことになる。また、建設する住宅の品質や景観の見栄えを落とさないために、6つの「建築協定(条件)」も設定している。
 ①他人の迷惑となる如き建物を建造せざること。
 ②障壁は之れを設くる場合にも瀟洒典雅のものたらしむこと。
 ③建物は三階以下とすること。
 ④建物敷地は宅地の五割以内とすること。
 ⑤建築線と道路との間隔は道路幅員の二分の一以上とすること。
 ⑥住宅の工費は坪当り約百二、三十円以上にすること。

 
 
 
 先日、8年ぶりに洗足田園都市の街を歩いてきた。2006年(平成18)に歩いたときは、おそらくコースが悪かったのだろう、初期の住宅をあまり見つけることができなかったが、今回はあらかじめ空襲で焼けた敷地と、そうではない敷地とを細かく色分けして、あらかじめアタリをつけて出かけたので、当時からの建築をいくつか発見することができた。もちろん、この8年間に解体されてしまった住宅も多いのだろう、古い建物を想定した場所で空き地や駐車場、真新しい住宅もいくつか見かけた。結果的には、西洋館の多くは建て替えられてしまったようで数が少なく、和館のみが補修を重ねられて当初の姿を保っているような状況だった。
 目白文化村よりも現代的であり、先進的な開発プロジェクトだった洗足田園都市だけれど、時代が下るにつれて大きな課題が浮上することになった。鉄道駅を中心に四方へ宅地を開発するということは、区や町のエリア=境界をまたぐ可能性が高いことになる。つまり、ひとつの住宅地としてのまとまり(一体感)が希薄になるのももちろんだが、それぞれの区や町で生活インフラや行政サービスの格差が生じてきてしまうという問題だ。
 洗足田園都市は、いまの行政区分でいうと目黒区と品川区、大田区にまたがった住宅街で、新宿区下落合(現・中落合・中井2丁目含む)のエリアのみに造成されている目白文化村や近衛町Click!とはまったく異なる。したがって、戦前から通信線の設置や道路の舗装、ガスの配線など、さまざまな生活インフラの整備やサービスが不規則・不定期に行われ、戦後は町会(洗足/小山/旗の台)も別々バラバラの状態になった。連続した住宅街の真ん中で、舗装道路が突然途切れるような、おかしな状況もあったらしい。
 また、環七が街の南西部をえぐるように貫通しているのも、ちょうど環六と十三間道路Click!が目白文化村を分断したのにも似て、統一感のある住宅街の風情を大きく削いでいる要因だろうか。住民組織である「洗足会」が、町会がわりに機能していたのは戦前までで、戦後はその存在が限りなく希薄化しているようだ。

 
 


 しかし、洗足田園都市の規約や建築協定のもつ意義がかなり薄まったとはいえ、どこか住民の方々の意識の中に、それへの“こだわり”のようなものが透けて見えるのは、改めて街を散策してみて強く抱いた印象だった。新築の住宅でも、まったくこの地域の史的な側面を無視したような建物は数が少ない。ましてや、住宅地の真ん中にいきなりビル状のマンションを建てて平然としているような、街のアイデンティティや景観、住環境をまったく無視した開発には、どこかでなんとか歯止めがかかっている風情に見えた。

◆写真上:洗足田園都市にいまも残る、造成当初からと思われる西洋館。
◆写真中上:1922年(大正11)から建設されはじめた洗足田園都市の住宅で、あめりか屋Click!の仕事も少なからずあるようだ。上掲の『郊外住宅地の系譜』より。
◆写真中下:比較的古いと思われる、現存する洗足田園都市の住宅群。
◆写真下:上は、同じく洗足田園都市の現状。中は、1931年(昭和6)に建設された洗足会のクラブハウス「洗足会館」(左)と現状の建物(右)。洗足会館は空襲にも焼け残ったが、最近解体されて新たな建物になっている。下は、戦前の1936年(昭和11/上)と1948年(昭和23/下)の空中写真。鉄道沿いを洗足駅を中心に爆撃され、延焼が四方へ拡がっていった様子がうかがえる。