きょうは、東京の(城)下町Click!一帯を襲った東京大空襲Click!から70年めの節目にあたるので、これまで何度となく繰り返し記事Click!に取りあげてきたけれど、改めて米国防省などが公開した対日戦資料にもとづいて書いてみたい。もちろん、東京の山手地域を襲った二度にわたる空襲Click!からも70年がたち、これらの空襲を実際に体験し、詳細な証言ができる方も徐々に少なくなっている。
 わたしの親父は、1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!に遭い、伝承されていた関東大震災Click!の教訓からだろう、大川(隅田川)とは反対方向へと逃がれ、東日本橋(旧・西両国)の実家Click!を震災以来、再び焼かれている。その直後、大学近くに借りていた淀橋区諏訪町Click!の下宿に避難したところ、運が悪いことに今度は同年4月13日と5月25日の二度にわたる山手空襲Click!にも遭遇した。ただし、学生時代の下宿は2軒北側の敷地で延焼が奇跡的に止まり、戦後はそこから大学やアルバイト先に通えている。その親父もすでに他界して、空襲当時の体験談を改めて聞くことができない。
 1990年代に入ると、米国防省あるいは国立公文書館が戦時中の対日戦に関する資料類を、次々と情報公開法にもとづき公表している。そこには、日本の各都市に対する爆撃の詳細や、軍事目標を中心とする「精密爆撃」から、都市全体を丸ごと焼き払う「無差別絨毯爆撃」へと作戦の推移する様子が克明に記録されている。これらの資料が20年近く前から公開されているにもかかわらず、日本の都市爆撃について「貴重な文化財がある都市は、米軍が空襲を避けた」という、まことしやかな“神話”をいまだに信じている方がいるようだ。「米軍は病院の爆撃を避けた」という“神話”Click!と同様に、戦後占領政策の一環として、GHQの対日世論工作員が意図的に巷間へ流布したと思われる、できるだけ日本人の抵抗や反感を抑え、占領政策をスムーズに進めるための「虚偽宣伝」が、後世まで非常にうまく浸透した成功事例なのだろう。
 空襲がほとんどないか、きわめて少なかった古くからの街々は、そもそも生産性を低下させる軍事的な目標が存在せず優先順位が低かったか、あるいは特別な攻撃目標として別の爆撃リストへ登録されており、通常の爆弾や焼夷弾による「無差別絨毯爆撃」が意図的に避けられていたことが、米国で公開された資料類から判明している。たとえば、「空襲が避けられた」はずの奈良市は、市街地への無差別絨毯爆撃の順番が80番めであり、その順番がめぐってくる以前、1945年(昭和20)8月13日の爆撃順位が63番めと64番めとされる、長野県の松本や上田への空襲を最後に、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏=敗戦を迎えてしまっている。
 また、「多くの貴重な文化財が尊重されて、爆撃目標から外され保存された」はずの京都市は、同年6月26日に市街地の一部(東山地区)が通常爆撃の被害を受けているものの、その直後から新潟、広島、小倉、長崎と並び、原爆投下の最有力候補地として意図的に攻撃がひかえられ、開発が最終段階に入った原爆目標都市として「温存」されていただけだ。原爆による爆撃効果や被害状況を正確に測定するためには、できるだけ都市を「無キズ」のままにしておかなければならなかった。


 さて、マリアナ諸島に第21爆撃軍が進出した1944年(昭和19)11月から、日本本土への空襲が本格化していくが、当初は沿岸部の工業地帯や東京や名古屋の中島飛行機製作所Click!など、兵器や工業製品を生産する軍事目標への攻撃が主体だった。この爆撃を米軍資料では「精密爆撃」、あるいはヨーロッパ戦線での対ドイツ戦における初期の空爆手法にならい「戦略爆撃」と呼称している。つまり、爆撃機が正確かつ精密に攻撃するのは軍事目標のみであり、一般市民が住む市街地への爆撃はできるだけ避けるという、当時の「戦争モラル」的な思考のうえに立脚している「倫理観」だった。この精密爆撃を推進していたのが、米陸軍航空隊総指揮官アーノルドのもとで第21爆撃軍司令官だったハンセルだった。ところが、1945年(昭和20)1月に精密爆撃にこだわり、それなりに大きな成果をあげていたはずのハンセルは更迭され、ドイツ空爆で戦果をあげたルメイが第21爆撃軍司令官に就任すると、徐々に市街地への無差別絨毯爆撃が主流になっていく。
 絨毯爆撃とは、ドイツ爆撃でB17爆撃機を一列縦隊で飛行させて、市街地へ隙間なく爆弾や焼夷弾を投下させた手法だ。ルメイは、着任当初はハンセルが立てた計画を踏襲してB29による精密爆撃を行なっているが、最初に大規模な市街地無差別爆撃が行なわれたのは、1945年(昭和20)1月23日の名古屋への空襲からだった。ただし、このときは攻撃予定の軍事目標が雲に覆われて見えず、「やむをえず」名古屋市街地を爆撃したことになっていて、いまだ市街地への無差別絨毯爆撃そのものが目的ではなかった。この軍事目標上空が悪天候で爆撃ができず、代わりに近くの市街地を爆撃する手法は、その後も引きつづき踏襲されていく。
 それが、計画段階から軍事目標への精密爆撃ではなく、ハッキリと都市への無差別絨毯爆撃そのものが目的となり、市街地全体を焼き払って焦土化する作戦に切り替わったのは、同年3月10日の東京大空襲からだ。つまり、当初よりジェノサイド(大量虐殺)をねらった無差別爆撃というテーマからとらえるなら、東京大空襲を出発点とし、その延長線上に広島と長崎への原爆投下があることが明らかだ。換言すれば、日本の工業地帯を爆撃しても、都市部での家内制手工業が中心の日本では生産力の低下が顕著ではなく、徐々に市街地への空襲をエスカレーションさせていった……という従来の説明(米軍によるあとづけの“理屈”だと思われる)はウソで、3月10日の東京大空襲を境に空爆そのものの目的や質が、まったくガラリと変わってしまったのだ。


 工業生産力を低め、ひいては国力を急速に衰えさせるためには、6大工業都市域(東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・八幡)にある軍事目標への攻撃だけで十分だった。事実、日本の生産力は急カーブを描いて低下し、もはや青息吐息の状態で戦争継続は不可能であり、破産は誰の目にも明らかだった。前年1944年(昭和19)8月には、おもに資材調達が困難な側面から軍需省が「物的国力の崩壊」を素直に報告している。だが、それでも軍事目標への精密爆撃にとどまらず、市街地への無差別絨毯爆撃へ切り替えられた裏側には、「一億総特攻」や「一億玉砕」などと「本土決戦」を叫ぶ、国家の破滅へ“墓穴”を掘りつづけた軍部の存在があり、硫黄島の攻撃で大きな損害を受けつつあった米軍にとっては、日本本土への上陸作戦は膨大な犠牲を強いられる戦闘になるだろうと、リアルに想像させるだけの“材料”を与えてしまったことにもよるのだろう。
 そして、当然のことながら、ヨーロッパ人とは異なり得体のしれない思想や宗教観、価値観を備えたアジア人である日本人への、恐怖心をともなう蔑視思想が表裏に作用して、ためらわずに平然と焦土化作戦を遂行させることになったのだと思われる。そこには、これもあとづけの“理屈”として、「戦争を早く終わらせるためには……」という、これまで延々と繰り返されてきた米国のジェノサイド正当化の言葉=結果論がともなうことになった。東京大空襲は、もちろん病院も教会も学校もいっさい区別なく、一夜のうちに10数万人が焼け死んだ皆殺し作戦だった。
 1945年(昭和20)3月10日午前0時8分、日本側の発表では約130機、米軍資料では334機のB29による東京大空襲が開始された。このとき、少しでも多めの焼夷弾や市街地に散布するガソリンを積みこむために、多くのB29が搭乗員を減らし機銃を外して弾薬を搭載せず、東京上空には超低空で侵入している。1機のB29あたり、爆弾搭載能力ぎりぎりの6トンもの焼夷弾を積載していた。この様子を、1995年(平成7)に草思社から出版された『米軍が記録した日本空襲』所収の、『米陸軍航空部隊史』から孫引きしてみよう。
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 先頭のB29大隊は“準備火災”を発生させることを目的としたナパーム充填のM47焼夷弾(七十ポンド)百八十発を携行した。この“準備火災”は相手の消防自動車陣の注意を集めるための火災であった。これらの照明弾投下機の後から続いて爆撃する他の機は五百ポンドのM69集束弾二十四発を運んだ。照明機の投弾間隔は三十メートル、他の機のそれは十五メートルと決定された。後者の間隔によって一平方マイルあたり最小限二十五トンの密度を与えるものと想定された。
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 1平方マイル=2.5平方kmあたり25トンのM69集束焼夷弾、B29が334機として2,000トン超もの焼夷弾が、東京の下町へ降りそそいだことになる。空襲は、午前0時8分から2時30分までつづき、2時間余の間に隅田川両岸は関東大震災のときと同じような大火流Click!に包まれた。
 
 
 対ドイツ戦において、精密爆撃から無差別絨毯爆撃へと踏み切った司令官ルメイの言葉が残っている。1994年(平成6)に光人社から出版されたE.B.カー『戦略・東京大空爆―1945年3月10日の真実』(訳・大谷勲)から引用してみよう。
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 君が爆弾を投下し、そのことでなにかの思いに責め苛まれたとしよう。そんなときはきっと、何トンもの瓦礫がベッドに眠る子供のうえに崩れてきたとか、身体中を火に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているにちがいない。正気を保ち、国家が君に希望する任務をまっとうしたいなら、そんなものは忘れることだ。
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 これを読む限り、自身が立案し実行した無差別絨毯爆撃が、地上でどのような惨禍を生じていたか、彼には十分に想像・把握できていたと思われる。前任指揮官のハンセルにはできず、後任のルメイには容易に踏みきれたその差とは、はたしてどのあたりにあったのだろうか。米軍資料を読み漁ってみても、方針を急転換したその背景はいくらでも想像できるが、明確な記録としては残されていない。

◆写真上:1944年(昭和19)11月より本格的な本土空襲を開始した、対空砲火を受けるB29の編隊。『米軍が記録した日本空襲』(草思社)の装丁より。
◆写真中上:上は、空襲前に撮影された東京の中心部。下は、戦後に撮影された同市街地。下落合(中落合/中井含む)の西部が、かろうじて焼け残っているのが見える。
◆写真中下:上は、東京大空襲の前にB29偵察機によって撮影された東京市街地=(城)下町一帯。下は、空襲から間をおかない時期に撮影された同所。本所・深川地域は、焼け野原が拡がりほとんどなにも残っていないが、日本橋は松島町や人形町あたりが焼け残っている。だが、この写真で焼け残っている街々も敗戦までの間に次々と爆撃され、その多くが消滅した。わたしの実家があった東日本橋の、千代田小学校Click!(現・日本橋中学校)あたりに、米軍が「×」印をつけているのがちょっと気にかかる。
◆写真下:上左は、東京大空襲の犠牲者のうち105,000人分の遺骨・遺名が眠る東京都慰霊堂。一家全滅のケースなど、証言者さえ存在しない行方不明者はいまだ数が知れない。上右は、1995年(平成7)出版の『米軍が記録した日本空襲』(草思社)。下左は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲で炎上する渋谷駅(画面下部)の周辺。下右は、同年5月25日夜半の第2次山手空襲下の東京市街地(場所は不明)。ともに、空中で破裂して発火したまま点々と落ちていくM69集束焼夷弾の光が見えている。