先年、八島太郎展実行委員会の山田みほ子様Click!より、八島太郎(岩松淳)Click!に関連する貴重な資料類を再びお送りいただいた。すでにご紹介しているが、テレビ東京で2010年(平成22)3月12日(金)に放映された、八島太郎をテーマとする『世界を変える100人の日本人』のDVDは、生涯にわたり徹底して反戦思想を貫いた彼の軌跡を描いたドキュメンタリーとしてとても貴重だ。
 すると、しばらくして飯野農夫也Click!のご子息であり、飯野農夫也画業保存会Click!の飯野道郎様よりご連絡をいただき、同保存会と八島太郎展実行委員会の山田様とがつながった。Webならではの、このような連携やコミュニケーションのダイナミズムがとても面白いのだが、さらに、豊島区のトキワ荘通り協働プロジェクトの小出幹雄様Click!からは、長崎町大和田1983番地(のち豊島区長崎南町3丁目)にあった造形美術研究所Click!がプロレタリア美術研究所Click!へと推移する中で、同研究所に設置されたマンガ講座Click!について紹介するエッセイをお送りいただいた。
 豊島区の長崎地域は、戦後を代表するマンガ作品が創作された中心地というばかりでなく、戦前においても師弟関係を前提とする“私塾”ではなく、日本初の専門学校形式による環境でマンガ講座が開設されていた、マンガ家とはゆかりの深い地域なのだ。それらの事蹟が、改めて今日的な視点で脚光をあびるのが素直にうれしい。小出様の原稿は、手塚治虫ファン誌といわれているらしい月刊「広場」に掲載される予定とうかがっている。
 そして、同研究所(1932年より東京プロレタリア美術学校へ改称)でポスター講座とマンガ講座を担当していた講師が岩松淳(八島太郎)Click!であり、同研究所の事務所に住みこみ管理業務を担当していた画家・飯野農夫也とは、「漫画論」をめぐって頻繁に手紙のやり取りをしている。飯野は画業のほか、1937年(昭和12)からマンガの研究誌である『漫画研究』(茨城漫画派集団)や『漫画の国』(日本漫画研究会)などへ批評を寄稿する、マンガ研究家ないしは評論家としての側面ももっている。
 飯野が岩松淳(八島太郎)について書いた、「続々形式の獲得――『漫画家修行』と岩松淳」が収録された、1994年(平成6)出版の『1930年代――青春の画家たち』(創風社)から引用してみよう。この当時、岩松淳は「漫画の国」や「東京パック」などを舞台に作品を発表しつづけていた。彼の『漫画家修行』は、「漫画の国」に連載されている。
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 岩松氏の「漫画家修行」には腹をかゝへて笑はせられた、仲々笑ひがとまらなくて弱った。私は五月号までしか見てゐないけれども、他日、この「真実追求マニヤ」とも云ふべき好少年が成長してやがて中学生になり、画学生になり、プロ漫画家になって縦横の活躍をするだらふことを考へそゞろに愉快を禁じ得ないのである、(中略) こゝまで客観的につきつめる態度に何よりも敬意を感ずる、この少年の環境、少年の性格、周囲に対する純真な批判がそくそくと我々の胸に迫る。これによってみるとこの少年の学んだ小学校は、かなり活気があったらしい、私の村の小学校は今ちゃうどこの位のやうに見受けられる、私が学んだ頃はこの南海辺の小学校より非常に非常に遅れてゐた、商船に入るやうな少年も居なかったし、詩歌雑誌を作る先生も居なかった、只私も村の名流の一族の子であったから、先生に重箱持って行った経験や、先生達がよく家で飲んだことがあるのでこの少年にすこぶる同情が持てる、少年にとっては実際こんなことはすこぶる不可解な、くそ面白くない仕業なのである。この南海辺の村は私の村より貧富の差が甚だしかったやうだ。
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 この批評文は、飯野が茨城で発行されていた『漫画研究』に掲載したもので、彼は同号を岩松淳(八島太郎)あてに送っている。おそらく、批評の対象となっている連載マンガ『漫画家修行』は、岩松が少年時代を送った鹿児島でのエピソードを作品化したものだと思われるが、憲兵隊Click!によって物理的に破壊されたプロレタリア美術研究所(東京プロレタリア美術学校)時代からの旧知の間柄であるせいか、飯野の表現にはどこか気やすさが感じられる。
 飯野農夫也は、岩松淳の作品を継続して読みつづけていたらしく、同時期に制作された一水会用のタブローや挿画なども含め、「漫画の国」の『漫画家修行』についても「ぎこちなさ」を克服して、こなれた表現に進化したと大きく評価している。その背景には、飯野が指摘するように膨大なスケッチやデッサンを繰り返し集積することによって得られた、「動的なリアリズム」とでもいうべき活きいきとした画面表現を、岩松淳はすでに獲得していたのだろう。つづけて、同書より飯野の批評を引用してみよう。
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 これは岩松氏の唱へる諷刺画論の実証的な作品であらふ、そして恐らくは客観的な観照の上に立った唯物論漫画としての歴史的な価値を持つものであらふ、私はまだ岩松氏の諷刺画論の全貌に接し得ないが、『もう一つの問題』で言ふやうに漫画――諷刺画が進歩的漫画へ直ちに通じる道であるなら、私はその意見に与し得ないのであるが(中略)このレアリスチックな笑ひは是認出来る。/加藤悦郎氏が嘗て私に「岩松は漫画家でなくあれは学者だ」と言ったのを思ひ出した、それは漫画家と言ふものゝ素質について云ったのであらふが、かく言ふ加藤氏の認識論には誤があるし、そこに加藤氏その人の後退性がある。岩松淳は天性的な漫画家である、(後略)
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 だが、飯野農夫也は岩松の『漫画家修行』を読みつづけることができなかった。「漫画の国」に特高Click!の検閲係からの圧力がかかり、同作は執筆禁止の処分を受けた。そればかりでなく、岩松淳(八島太郎)は同誌へ文章を寄稿することさえ禁止されている。


 この批評に対し岩松は、「諷刺画が進歩的漫画へ直ちに通じる道である」という飯野の「仮説」は、言葉の規定が不十分でありより詳しく論じてほしいとしたうえで、飯野あての手紙で次のように書いている。
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 感想なり論文なりでも、うれしいこと、怒らないでおれないこと、かなしいこと、ともかくすべてをリアリチックに述べきることが第一だと思ってゐます。/これは自分の自己批判から来てゐることなのです。指導しようとして、実質がこれに伴はないものは、実際滑稽だし、そういふ経験を残すことは、もう御免ですからねえ。/すなほに、「進歩しつゝある」自分の姿を正確に正直に押し出しきること、これが一番自分にとっても必要であり、他にも最大に学び得るものだのだと思ひます。/私の「長編」はもう描けない事になりました。理由は、貴君は想像できるでせう!/それから貴君のリアリズム論は、「異議がある」といふ事が提出されてるだけだから、その事を具体的に述べられないことには、私からは何も申上げられません。/「一つの問題」の中で、私はリアリズムの三つの条件を述べてゐます。その一つを抜きにして、過去のリアリズムを受取ることも出来ねば、今後自分の漫画-風刺画家としての生活を実質的に打建てることも出来ないと思ってゐます。もう一度くり返し読んで下さる事を御願ひします。
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 岩松惇(八島太郎)による漫画論の“本論”や、連載された『漫画家修行』の作品自体に目を通していないのでわかりにくいのだが、マンガの世界Click!でもある時期の絵画や文学と同様に、何度となく繰り返された「リアリズム」をめぐる論議が、この当時までつづいていたのがわかる。それは、「人間」一般をどのように捉えるかというような抽象的なテーマではなく、目の前にある現実(社会)の枠組み(システム)の中へ組みこまれて生きる(生きざるをえない)人間を、どのような関係性の上でとらえ、位置づけて描くのか?……という意味での、「リアリズム論」をめぐる議論だったのだろう。

 
 先の手塚治虫ファン誌といわれている月刊「広場」に、小出様のエッセイで岩松淳(八島太郎)のネームが登場するのは、改めて非常に大きな意味を持つと感じている。憲兵隊や特高による弾圧の嵐の中、マンガで「反戦」を訴えつづけた戦前の岩松淳(八島太郎)と、戦争でなにもない焼け野原から出発し、「反戦」マンガを多く描きつづけた戦後の手塚治虫Click!とが、同じ長崎(椎名町)地域において1本の経糸上でつながるからだ。ふたりは、戦前と戦後の時代こそちがえ、プロレタリア美術研究所とトキワ荘Click!という、わずか150mほどしか離れていない同じ地域のごく近所で仕事をしていた。そして、年を経てから撮影されたふたりの面影は、期せずして、どこか似ている。

◆写真上:1974年(昭和49)に、米国のアトリエで制作された八島太郎『春』。
◆写真中上:上は、山田様よりお送りいただいた2010年(平成22)3月12日にテレビ東京で放映された『世界を変える100人の日本人-八島太郎』のDVD。下左は、1935年(昭和10)の「東京パック」に掲載された岩松淳(八島太郎)「平和の取引」。下右は、1974年(昭和49)制作の八島太郎『秋』。
◆写真中下:上は、1963年(昭和38)12月26日に八島太郎から山田家へとどいた手紙の一部。下は、1956年(昭和31)に米国を訪問した椋鳩十の直筆「ヤシマ、タロウ」。原稿を読むと、一水会に所属していた須山計一Click!の紹介で椋鳩十は八島太郎を訪ねている。
◆写真下:上は、1963年(昭和38)の空中写真にみるトキワ荘とプロレタリア美術研究所跡の位置関係。下は、マンガが共通項の八島太郎(左)と手塚治虫(右)。