下落合858番地に、安井息軒の孫にあたる最後の儒者といわれた安井小太郎が住んでいる。陸軍元帥だった川村景明邸Click!の小道ひとつ隔てた西隣りの家で、当時は下落合字本村と呼ばれたエリアだ。明治期までは「摺鉢山」Click!という小字が残った、下落合摺鉢山古墳(仮)Click!を想定している後円部の南西端に位置する敷地だった。いまの下落合でいうと、聖母坂を下りきった交番前にある、新目白通りとの交差点そのものが三計塾(=安井小太郎邸)の敷地だ。
 江戸後期になると、儒学系の学問は江戸幕府が林家を通じ初期官学として指定した、朱子による儒教解釈(通称・朱子学)への批判が一般化した時期にあたる。幕末に、幕府の昌平坂学問所(昌平黌)Click!に登用された安井息軒もそのひとりであり、彼は学問のための学問化した朱子学(偏学)を激しく批判し、より実用的な儒学(実学化)を提唱した中心的な存在だ。安井息軒は、原典の「四書五経」(不在の「楽経」を数えれば六経)や「論語」など、中国の古典を改めて読み解く『論語集説』や『管子纂詁』、『左伝輯釈』といった考証的な解説書を著している。
 また、安井息軒が特異な存在なのは、一方で中国の戦国時代において法治主義を唱えた法家思想と儒学とを融合しようと試み、江戸期から明治維新へと向かう過程で近代法学への下地を形成した点だろうか。したがって、安井息軒の弟子のなかで、明治以降に活躍した人物には政治家や軍人が数多い。たとえば、下落合の安井小太郎邸から北西へ100mほどのところ、下落合1218番地に住んだ陸軍軍人で政治家であり、学習院院長もつとめた谷千城Click!は息軒の愛弟子のひとりだ。
 これはわたしの推測にすぎないが、明治初期から下落合に住んでいた谷千城は、安井家の跡を継いだ安井小太郎を、下落合の近所に住むよう勧誘しているのではないだろうか。1911年(明治44)に死去する谷千城だが、自身の師の孫にあたる安井小太郎のうしろ盾として、安井息軒なきあとの三計塾を支えていたのかもしれない。『東京近郊名所図会』によれば、安井邸には江戸期から変わらずに「三計塾」の扁額が架かっていたようだ。
  ▼
 本村より小上に至る沿道は南に水田を控え、北は高地に倚(よ)れるを以て一見別荘地に適す。されば徳川邸の外ここに居を卜するもの二三あり、其の他なお工事に着手し居るを見る。安井小太郎氏の三計塾は徳川邸の前通りに在り。
  ▲
 そのような視点で、下落合の安井邸や谷邸の周囲を見まわすと、三計塾の開講から数えると総数が2,000人といわれる安井息軒の弟子たちが、ほかにも多く見つかるような気がしている。谷千城は、息軒が開いていた三計塾Click!を政治家の養成所だと位置づけていたようだ。ほかにも息軒の弟子には、陸奥宗光Click!をはじめ、品川弥二郎、三浦安、石本新六、明石元二郎、黒田清綱、井田譲、島本仲道、雲井龍雄など、明治以降の政治家や軍人たちの名前がかなり多い。これは、息軒が政治や軍事に関心を寄せ、多くの実用的な書物を残したことによると思われる。
 
 

 淀橋区への編入を機会に、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)の「人物事業編」から、安井小太郎の項目を引用してみよう。
  ▼
 従四位勲四等  安井小太郎  下落合八五五
 碩儒安井息軒先生を祖父として安政五年を以て出世す、夙に漢学を修め明治二十年帝国大学文科大学哲学科を卒業、爾来第一高校、学習院、東京高師、文理科大学、北京大学等に歴任して薀蓄を傾け、今尚大東文化学院、駒大教授、二松学舎督学たり、資性温穆、真摯なる学究的態度、典雅なる人格は己に定評のあるところ、世人の尊敬を一身にあつめてゐる。(中略) 因に氏は曩に御恒例御講書始の儀に進講者たる名誉を担はれてゐる。
  ▲
 さて、日向国(宮崎県)宮崎郡清武村の飫肥藩から江戸へとやってきた安井息軒は、江戸市中を転々とする引っ越し魔だった。しばらくすると、三計塾を開設・経営しているのだから、ひとつの場所に落ちついて塾生を集めるのが合理的だと思うのだが、江戸期から明治期にかけて息軒は都合20回以上の転居をしている。その足跡を追いつづけたのだが、途中でイヤになってあきらめた。転居先20数ヶ所というのは判明しているだけで、おそらく短期間だけ住んでいた住居も含めると、転居回数はもっと増えるのではないか。



 暮らしが貧乏で生活が苦しかったせいもあるのだろうが、江戸へやってきた当初は家族を宮崎に残したままの“単身赴任”だったため、転居が身軽にできたせいもあるのだろう。住みなれた五番町から、上二番町へ転居した時点で三計塾を開くのだが、このとき初めて宮崎郡清武村の実家から妻の佐代夫人を呼び寄せている。このあたりの事情は、1914年(大正3)に執筆された森鴎外の『安井夫人』に詳しい。
 まず、江戸へ出てきた息軒は昌平黌へ通うために、飫肥藩伊藤氏の千駄ヶ谷にあった下屋敷に住んでいる。だが、すぐに外桜田にあった同藩上屋敷に移り、蔵書が多く公立図書館のような役割りをはたしていた芝増上寺の金地院へと転居。以降、五番町→上二番町(「三計塾」開設)→小川町(神田)→牛込見附外(神楽町)→麻布長坂町(永坂町)→外桜田(上屋敷)→番町袖摺坂→隼町→番町→麹町善国寺谷→下谷徒士町(御徒町)→外桜田(上屋敷)→半蔵門外(麹町一丁目=海嶽楼)→外桜田(上屋敷:明治維新)→千駄ヶ谷(下屋敷)→王子領家→代々木(彦根藩下屋敷)→外桜田(上屋敷)→土手三番町……というようなめまぐるしさだ。この中で、漏れている転居先も数多くあるのかもしれない。
 安井息軒は、おそらく明治維新の激動が見えていたのだろう、66歳のときに幕府から陸奥の領地6万4千石の代官に任命されるが受けず、そのまま江戸で隠居生活を送っている。三計塾の安井家は、息軒の娘・須磨子が産んだ長女夫婦に一度は継がせたが、ふたりともほどなく早世したため、改めて須磨子の息子である小太郎が跡を継ぐことになった。安井家=三計塾が下落合へとやってきたのは、おそらく明治の中ごろになってからのことだろう。ちなみに、安井小太郎の著作には『論語講義』や『日本儒学史』などがある。
 
 
 安井息軒というと、「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮時にあり」の文字どおり「三計」があまりにも有名だ。いまでも、「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦(春)にあり」という表現が、そのまま慣用的につかわれている。わたしがいちばん苦手な、起きぬけで寝ぼけた「朝」や花粉症の「春」に、重要な「計」など立てられるわけがないので、とても儒学などまともに学べそうにはない。

◆写真上:聖母坂下の交番前、下落合858番地にあった安井小太郎邸(三計塾)跡の現状。
◆写真中上:上左は、幕末の代表的な儒学者・安井息軒の肖像。上右は、その孫にあたる下落合に住んだ安井小太郎。中左は、安井息軒の愛弟子だった同じく下落合の近所に住んだ谷干城。中右は、1870年(明治3)に刊行された安井息軒『管子纂詁』。下は、安井息軒が教えていた昌平黌(昌平坂学問所)のいまに残る江戸期のままの築地塀。画面の右手奥に見えているのは、ニコライ堂(東京復活大聖堂教会)の大ドーム。
◆写真中下:上は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる安井小太郎邸と谷干城邸の位置。中は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる安井邸。地番変更で、安井邸は下落合855番地となっている。下は、湯島聖堂(昌平黌)の大成殿。
◆写真下:安井息軒が暮らした江戸の町々で、それぞれ千駄ヶ谷の飫肥藩下屋敷(上左)、芝増上寺境内にある金地院(上右)、海嶽楼と呼ばれる2階のあった半蔵門外の麹町(下左)、牛込門(見附)外の神楽町(下右)。いずれも、尾張屋清七版の江戸切絵図より。