ときどき、近くに新宿歴史博物館Click!や雙葉学園Click!、佐伯祐三一家の墓Click!がある四ッ谷駅には出かけるのだが、四ッ谷駅のある外濠の四谷御門(四谷見附)から牛込御門(牛込見附)にかけての周辺は、芝居に多く取りあげられた物語の宝庫でもある。
 以前、こちらでもご紹介したけれど、日本橋小伝馬町にあった牢屋敷の様子を詳しく取材した、黙阿弥Click!の『四千両小判梅葉(しせんりょう・こばんのうめのは)』(通称:「四千両」Click!)の主人公、浪人・藤岡藤十郎と野州無宿の富蔵が出会うのも、四谷見附外に富蔵が出していた屋台見世の“おでん屋”だった。千代田城・内濠の北拮橋門(現在の東京近美斜向かい)近くの塀から城内へ侵入し、幕府の金蔵に忍びこんで二千両箱をふたつ盗みだすという、当時の幕府や江戸市民が呆気にとられた実話の犯罪を主題にしている。
 河竹黙阿弥は、よほどこの盗賊事件が小気味よくて気に入ったものか、「四千両」以前に『花街模様薊色縫(さともよう・あざみのいろぬい)』(通称:「十六夜清心」)でも、同事件の筋立てをとり入れている。もっとも、幕末に初演された舞台では、大っぴらに大江戸Click!で起きた事件として描くことができず、時代を鎌倉幕府に置きかえて描いているが、さっそく幕府からの弾圧を受けて早々に上演禁止へと追いこまれている。
 実際の幕府金蔵破り事件は、1855年(安政2)3月6日(旧暦)の夜から起きている。では、その様子を藤川整斎が記録した『安政雑記』から引用してみよう。
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 都合五度程忍入 三月十三日夜小判弐千両箱壱ツ盗取 富蔵壱人ニ而持出し 土塀を乗越 藤十郎者外ニ相待居 富蔵者御金蔵之御〆り錠前復掛りを失念致 帰り候而 猶叉壱人忍入 叉候弐千両箱壱ツ盗取 是者藤十郎江隠し 土中江埋置 最初盗取候弐千両を富蔵義千百両 藤十郎江九百両配分いたし 跡にて盗取弐千両者富蔵壱人ニ而取候由 然ル所今月廿六日 両定廻り打込ニ而同人宅江踏込被召捕
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 結局、藤岡藤十郎と富蔵は捕縛されてしまうのだけれど、最初に盗んだ二千両箱を山分けする際、無宿の富蔵が1,100両を取り武家の藤十郎が900両というのも、ふたりの力関係を表していて面白い。その後、おそらく藤十郎側が富蔵へねじこんだのだろう、富蔵が1,265両で藤十郎が1,735両と、3,000両まで山分けしたところで捕縛されている。
 

 芝居「四千両」でも、富蔵は図太くてずる賢い性格をしているが、藤十郎は小心で臆病な武家として描かれている。ふたりの犯行が簡単にバレたのは、オバカな富蔵が千代田城の金蔵破りの話を、あちこちで自慢げに吹聴してまわったからだ。
 戦前における「四千両」の舞台は、6代目・尾上菊五郎の富蔵と初代・中村吉右衛門の藤十郎が当たり役だった。でも、黙阿弥は当初、5代目・尾上菊五郎と7代目・市川団蔵のために、同作を1885年(明治18)に書き下ろしている。すでに徳川幕府は崩壊していたので、舞台や時代を鎌倉へ移す必要はなく、事件に関わった人物たちもみんな実名で登場している。1953年(昭和28)に白水社から出版された、戸板康『芝居名所一幕見』から引用してみよう。
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 この「四千両」の主題は、安政二年にあつた将軍家の御金蔵破りである。黙阿弥の「十六夜清心」の中にも、それとなくほのめかしてあるが、何しろ千代田城の堅固な警備を破って、二千両箱二つを運び出したのだから、非常なセンセーションを起こした事件であつたことも、想像される。/あくまで図太い富蔵と、小心の藤十郎と、この対照的な二人の性格が、菊五郎、吉右衛門にピタリと合つて、書き下しの五代目菊五郎、先代団蔵の顔合せより、更に妙であつたと、古老は語つてゐたものである。
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 さて、炭谷太郎様Click!より先年、『役者』という刑部人Click!の小品画像をお送りいただいていた。描かれているのは、大正末から昭和初期にかけ6代目・尾上菊五郎とともに「菊吉時代」を築いた、おそらく初代・中村吉右衛門の顔だ。芝居好きで、ことに初代・吉右衛門の贔屓Click!だったという刑部人が、いまだ東京美術学校Click!へ入学する前に描いた、おそらく16~17歳ごろの作品とのことで、4号Fサイズの板に描かれている。
 この顔は、初代・吉右衛門がなんの役を演じたときのものだろう。総髪の武家らしいかつらなので、『天衣紛上野初花(くもにまごう・うえののはつはな)』(通称:「河内山と直侍」Click!)の、片岡直次郎Click!でも演じた際のものだろうか。板に描かれた『役者』の裏面には、刑部人の12歳年下である4~5歳ぐらいの妹、すなわち炭谷様の幼いお母様の肖像画が描かれている。
 「四千両」の舞台の背には、中央線の敷設によって外濠の石垣または土塁Click!が崩されているので、書割(かきわり)には半蔵門から桜田門あたりの情景が採用されることが多い。幕末の四谷見附外は、甲州街道や青梅街道へと向かう繁華な道筋になっていたと思われ、おでんにかん酒を売る富蔵は、日が暮れて人通りが少なくなったところで、あたりをはばかりながら藤十郎へヒソヒソと、御金蔵破りの相談を持ちかけている。
 現在の四ッ谷駅周辺は、新宿通りと外濠通りが交差する、とんでもなく賑やかなビジネス街または学園街となっているので、夜間でも路上でのヒソヒソ話は困難だろう。かん酒を飲ませるおでんの屋台は、いまでも四ツ谷駅のどこかに見世を出しているのだろうか。

 
 かろうじて、当時の面影を感じさせてくれるのは、四谷御門(見附)から市ヶ谷御門(見附)、さらに牛込御門(見附)へと線路沿いの土手上につづく、細長い遊歩道だろうか。でも、千代田城の石垣あるいは土塁は、中央線の上にまで張り出していたはずだから、この遊歩道からの眺望も、やはり江戸期の眺めとは大きく異なっているのだろう。

◆写真上:石垣がかろうじて残る、現在の四谷見附(四谷御門)跡。
◆写真中上:上左は、1913年(大正2)に竣工した四ッ谷駅前の四谷見附橋。上右は、千代田城の金蔵破りが記録された藤川整斎『安政雑記』。下は、戦後すぐの1950年(昭和25)ごろに撮影された四谷見附跡。中央線の土手沿いに見えている建物は、左から右へ雙葉学園、四谷消防署、そして麹町聖イグナチオ教会。
◆写真中下:上は、『四千両小判梅葉』の舞台で初代・中村吉右衛門の藤十郎(右)と6代目・尾上菊五郎の富蔵(左)。下は、同舞台の菊吉コンビによるブロマイド。
◆写真下:上は、東京美術学校の入学前に描かれたとみられる刑部人『役者』(おそらく初代・中村吉右衛門像)。下左は、初代・中村吉右衛門のブロマイド(幡随院長兵衛)。下右は、外濠の石垣または土塁が崩されたあとに設置された四ツ谷駅ホーム。