1945年(昭和20)8月15日に、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏をした直後から、下落合上空には米軍機が低空飛行で姿を見せるようになった。米軍は、下落合670番地の国際聖母病院Click!に「敵性外国人」Click!として抑留された人々がいることを把握しており、食糧や医薬品などの救援物資を投下Click!しはじめている。
 敗戦日をはさみ、東京の郊外がどのような状況になっていたのかを、勤労動員で工場の作業に狩りだされていた、当時は高校生(現・大学教養課程に相当)の証言を聞いてみたい。2015年(平成27)に、落合の昔を語る集いから刊行された『私たちの下落合』(増補版)に収録された、斎藤昭様Click!による「わが思い出の記」から引用してみよう。
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 もうその頃には、制空権は完全に日本側にはなく、グラマンというアメリカの小型戦闘機がわが物顔の低空飛行で飛び回り、うっかりすると機銃掃射を仕掛けてきたりすることもありました。パイロットの顔が肉眼で見えるほどの低空飛行で、これはひじょうに恐ろしいものでした。空襲を受けたとき、ふだんは威張っている軍の配属将校が真っ先に逃げるのが目について、仲間と笑ってしまったこともあります。/やがて八月十五日がやってきました。正午にラジオで天皇の重大放送があることが新聞で報じられていて、昼食の時間に山の中腹の小屋に全員が集められました。ラジオの性能が良くなかったせいか、天皇の言葉がところどころしか聞き取れず、ほとんどの人は何の放送だったのかはっきりしないようすでした。ただ「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」というところが印象的に聞こえたので、「戦争に負けたということかな」と友だちと小声で話し合いました。
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 ここでもまた、さっさと持ち場を放棄して動員された学生たちの退避誘導もせず、真っ先に逃げ出す配属将校の姿が記録されている。
 さて、敗戦直後から落合地域の上空へ姿を見せはじめた救援機だが、当初は焼け残った建物のどれが聖母病院なのかを、米軍のパイロットが正確に把握していなかったとみられ、東は山手線沿いの学習院昭和寮Click!から、西は目白文化村Click!(おそらく落合第一小学校Click!の校舎が目標)まで、広範囲にわたりパラシュートを装着してドラム缶に詰めた救援物資を投下している。敗戦直後の不正確な救援物資の投下については、以前の記事Click!にも書いたとおりだ。山手線の送電線にパラシュートがひっかかり、電車をストップさせている下落合の東端から、落合第一小学校が近くにある第一文化村のエリアまで、米軍機は広い下落合のおよそ4分の3ほどの範囲に、支援物資の詰まったドラム缶をバラまいている。
 この救援物資の投下は、同年8月28日から9月20日まで(日本時間8月29日~9月21日)、300機を超える米軍のB29あるいはB25を用いて実施された(機体も救援機仕様に塗装し直されている)、米軍将兵の捕虜または“敵性外国人”が収容されているPOW CampあるいはPW Campへ向けた、本格的な「救援物資投下作戦」よりも前に行われた、個別散発的な投下のように思われる。実際に、上記の米軍による統一的で大規模な作戦が実施される以前、たとえば野坂昭如『アメリカひじき』の記録にみられるように、敗戦直後(8月15日の午後)から米軍各部隊の“現場判断”で捕虜収容所などに対して行われた、救援物資の投下ケースが各地で見られるからだ。
 だが、日によっては救援物資のドラム缶に、パラシュートを装着しないでそのまま投下したケースもあり、そのドラム缶の直撃を受けて聖母病院の東200mと少しのところ、下落合570番地にある歯科落合医院(幡野歯科医院)Click!の子息が死亡するという事故も起きている。これは、上記の8月28日から9月20日(米国時間スケジュール)まで行われた、系統だった「救援物資投下作戦」の一環ではなく、イレギュラー的な救援活動のように思える。なぜなら、上記の大規模な作戦では救援物資の投下方法がマニュアル化され統制的かつ画一的に行われており、パラシュートなしでドラム缶をそのまま投下する事例は考えにくいからだ。また、米軍が正確に国際聖母病院の位置を把握したのは、少なくとも聖母病院側が黒っぽいシートへ「PW」と明るめのカラーで文字を描き、屋上へ拡げた同年8月28日(日本時間8月29日)前後ではないかと思われる。


 敗戦直後に行なわれた、救援物資が投下される様子を『私たちの下落合』に収録された、堀尾慶治様Click!の「目白文化協会のことなど」から再び引用してみよう。
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 戦後まだ一週間か二週間ぐらいの頃(八月二十八日といわれています)、午後突如米軍機の編隊が低空で飛来して来ました。何事かと見上げていると胴体の下部が爆弾倉のように開くのが見えて、そこから太く丸い筒状の物が多数投下され、それが地面に激突して飛び散りました。/恐る恐るそばにいって見ると、太くて丸いのはドラム缶を二つ縦につなぎ合わせて円筒状にし、その中に物資を詰め、前後に板で二重に蓋をしただけのものでした。遠くから見れば一トン爆弾かというくらいに見え、それが空から降って来たのですからビックリしたわけです。/木の蓋をしたくらいでは、地面に激突すればひとたまりもありません。ふたははね飛んでしまい、あたりには煙草のカートンボックス、チューインガム、ブレックファースト、ランチ、ディナーなどのレーションボックス(一人分ずつの食事が入った弁当のようなみの)等々が散らばっています。多少の英語は読めたので、一緒にいた十七歳前後の私達は夢中で拾いまくりました。投下のショックは結構すさまじく、屋根の上までガムやキャンディが乗っていました。
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 米国の国立公文書館が公開している資料の中には、下落合へドラム缶の救援物資が投下される様子を撮影したものが何点か含まれている。これらの写真は、コメント欄で今年(2015年)の3月27日に41satoyoさんからご教示をいただき、わたしが米国で公開されている公文書関連サイトから見つけたものだ。
 救援物資の投下は、敗戦直後から実施されていたと思われるのだが、公開されている写真は明確に国際聖母病院めがけパラシュートが装着されたドラム缶を、上空を旋回しながら投下している様子がとらえられている。これらの写真は、1945年(昭和20)8月28日(日本時間8月29日)に米軍機から撮影されている。少なくとも、救援機は上記の作戦要項に沿って救援物資を投下しており、ドラム缶をそのまま地上へ直接バラまいてはいない。



 このタイムスタンプを根拠にして、堀尾様の文章にもあるように救援物資の投下は1945年(昭和20)8月28日(日本時間29日)からとされているようなのだが、実際には米軍が聖母病院の位置を正確に把握した時点で、換言すれば聖母病院側が「PW」と描いたシートを大急ぎで制作し屋上へ拡げたタイミングで、低空飛行の救援機が同病院の様子を初めて撮影しているとみられ、実際の救援活動は地元の証言や各エリアの伝承などからもっと早く、すなわち敗戦の直後から実施されていたことが想定できる。
 写真を見ると、救援機は明らかに同病院の上空を旋回しながら、パラシュート付きの救援物資を計画的に投下しているのであり、学習院昭和寮のある近衛町周辺や落合第一小学校および第一文化村周辺に投下されたケースとは明らかに異なっている。
 米国公文書館が公開している写真には、もうひとつ重要なテーマが記録されている。それは、フィンデル本館の東へ伸びたウィング屋上の端が、えぐられたように少なからず破壊されている点だ。上空から撮影された写真のうち、2枚までがその様子をとらえている。(印) この東へ伸びたウィング屋上の破損こそが、艦載機(グラマン)あるいは硫黄島からのP51によって爆撃された、250キロ爆弾の命中箇所ではないだろうか。焼夷弾ではこのような破壊痕は残らず、明らかに爆弾が炸裂した痕跡だと思われる。
 フィンデル本館Click!のコンクリート壁や屋上は、要塞並みあるいは戦艦のバルジへ流しこんだコンクリート並みに60cmもあったので、250キロ爆弾程度なら跳ね返して館内の被害はそれほど大きくはなかった……という伝承とも符合してくる。上空からの様子なので正確なことは不明だが、少なくとも屋上東端のコンクリートが数十cmほどの深さまでえぐられ、陥没している様子が判然としている。
 つまり、米軍の戦闘爆撃機のパイロットは戦争末期、二度にわたる山手空襲Click!で焼け残った大きめな建物めがけ、ためらいなく積極的に爆弾を投下しているのであり(下落合に限らず東京各地でも同様だが)、その建物が病院だろうが学校だろうが教会だろうが、まったく区別していないことがわかる。事実、屋上に「PW」のシートが拡げられた時点で、初めてそこが“敵性外国人”の抑留者がいる国際聖母病院だと認識しているらしい、上記の救援の流れや投下の推移を見ても明らかだろう。


 米国公文書館が公開している写真は、東京では大森区入新居町(現・平和島)に設置された捕虜収容所の様子をとらえた写真が数多い。米軍が進駐後に、収容所内の様子をとらえた写真も数多く残されている。おそらく、聖母病院の食糧事情と大差なかったのだろう、捕虜になった米兵たちはガリガリに痩せており、米軍の医療班が治療にあたっている写真も保存されている。もし機会があれば、大森区の捕虜収容所についてもご紹介したい。

◆写真上:国際聖母病院(Seibo International Catholic Hospital)の現状。
◆写真中上:B29と思われる機影から、パラシュート付きドラム缶の救援物資が投下されたところ(上)と、地上で回収された救援物資のドラム缶容器(下)。いずれも、大森区入新居町(現・平和島)の東京俘虜収容所(POW Camp)にて撮影したもの。
◆写真中下:1945年(昭和20)8月28日のタイムスタンプが記された、下落合の国際聖母病院に対する救援物資の投下。聖母病院の屋上に目立つ「PW」の文字が表示され、米軍が同病院を正確に規定しえたあとの撮影で、これが最初の救援物資の投下ではないと思われる。また、矢印は東へ伸びたウィングの屋上東端に見える破壊箇所。
◆写真下:上は、1947年(昭和22)に撮影された聖母病院とその周辺。東は聖母坂で、北と西側は濃い樹木の緑で延焼の止まっているのが確認できる。下は、敗戦から5年後の1950年(昭和25)に撮影された同病院だが、いまだに東側は焼け跡のままだ。