現在の山手線が走る目白駅Click!の谷間には、江戸期に農業用水用の溜池があった。現在の学習院キャンパス内にある血洗池Click!も、もとは農耕用の溜池だと思われるのだが、この血洗池と江戸期の絵図(たとえば正徳年間)に描かれた溜池とが、同一のものかどうかがイマイチしっくりこない。古い絵図と現在の血洗池のかたちが、大きく異なっているのもそう思えるゆえんなのだが、溜池の近くを下っていた「溜坂」と呼ばれた道筋が、江戸期の資料と明治以降の資料とでは東西が逆になっているからだ。
 たとえば、1716年(正徳6)に作成された「高田村絵図」には、溜池の高田村側(東側)に通う坂道が描かれているが、溜池の西側は下落合村の道筋しか描かれていない。寛政年間(1789~1801年)に金子直德によって描かれた『呆山堂宗周図書』の挿画にも、目白崖線の麓がS字型に屈曲した、溜池の東側に通う溜坂と思われる坂道が描かれている。そして、金子直德が寛政年間に記録した『若葉の梢』(『和佳場の小図絵』)の現代語訳版、海老沢了之介による『新編若葉の梢』(新編若葉の梢刊行会/1958年)の本文でも、溜池の東側に溜坂が通っていることになっている。同書から、溜坂の記述を引用してみよう。
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 溜坂は、高田村砂利場耕地の用水の水溜の池の東側にある坂で、堀の内妙法寺へ行く道でもある。
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 現在の高円寺駅近く、かなり距離のある杉並の堀之内まで通う道筋だという解説が妥当かどうかは別にして、明確に溜坂は溜池の東側だと規定されている。ところが、金子の『若葉の梢』の解説者である海老沢了之介は、章扉の地図まで作成して溜坂は現在の血洗池の西側に通う坂道、つまり学習院キャンパスの西側に接し、山手線と並行して下っている現・椿坂に近い道筋のことだと規定している。
 もし、江戸期からつづく溜池=血洗池であるとすれば、学習院の建設によってキャンパス内に取りこまれ消滅してしまった溜坂が、血洗池の東側に存在していた……としなければおかしなことになる。ところが、海老沢がそうは解釈しなかったところが、ちょっとひっかかる課題なのだ。なぜなら、幕末の嘉永から安政年間(1847~1860年)にわたって幕府が制作した『御府内沿革図書』では、この溜池が“消滅”してしまっているからだ。



 『御府内沿革図書』には、農業用貯水池はもちろん、大名や寺社の敷地内にある池まで細かく採取されている。池袋村にある、小さな丸池さえ逃さずに収録しているにもかかわらず、丸池よりもかなり大きかったはずの、高田村の溜池がまったく採取されていない。もちろん、単純な採録漏れの可能性もあるが、溜池よりも小さな池や屋敷内の庭園池までが採取されているのに、大きな溜池を見逃したとは考えにくいのだ。この時期、高田村では溜池に対してなんらかの“施工”(場所の移動や整備事業など)が行われていて、同図書の調査員が収録をためらったのではないか……そんな想像までかき立てる。
 そして、高田や雑司ヶ谷の事績に精通し、多くの証言者からの聞き取り調査(当時は幕末生まれの古老もいたかもしれない)も行っている海老沢了之介が、あえて血洗池の西側の坂を溜坂だと規定しているところに、強いひっかかりをおぼえる。海老沢の規定をそのまま素直に解釈すれば、江戸期には溜池の東側にあった溜坂が、明治以降には溜池(血洗池)の西側へと動いている、見方を変えれば、農業用水としての溜池の位置が、少なくとも江戸中期にあった位置から、溜坂の東側へと移動している……ということにもなりはしないだろうか?
 このあたり、1880年(明治13)に作成された、もっとも早い時期の1/2,000地形図で採取されている血洗池東側の坂道2本のうち、この当時(明治初期)はどちらが溜坂と呼ばれていたのか?……というような、いくえにも重なり、からみあった課題が見えてきそうな気もするのだが。
 さて、この溜坂には江戸期に起きた「怪談」にもとづく笑い話が残されている。下高田村の歩行役(かちやく=交代で担当する通信文の配達人)が、村の緊急の御用状を下落合村へとどけるために、夜中の八ツ(午前2時前後)に溜坂を下っていると、いきなり大暴風雨に遭遇してしまった。雷鳴がとどろき、まるで滝のような大雨の中を濡れねずみになって歩いていくと、気温が急低下したものか震えるほど寒くなってきた。目白崖線の斜面なので、あたりに人家はなく真っ暗で、雷の稲妻が光るたびに村の歩行役はますます心細くなっていった。
 

 そのうち、歩行役のあとを誰かが尾けてくる気配を感じ、彼が急げば背後の気配も急ぎ、立ち止まれば気配も止まり……と、怪しげな雰囲気になってきた。背後の足音が、とうとう間近に迫ってきたので、彼は恐るおそる振り返ってみたが暗闇でなにも見えない。溜坂の不気味な気配から早く逃れようと、彼が道を急ごうとした瞬間、大音響とともにすぐ近くへ雷が落ちて、彼は打ち倒されてしまった。その直後の様子を、前掲書の『新編若葉の梢』から引用してみよう。
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 雷鳴は少し静まったが、笠を掴み、押しつけているものがある。その間、半時ばかりじっとしていたが、何事もないので、こわごわ手を延ばし、笠を押えている怪物の腕をつかんでねぢひじこうとしたところ、掌が針で刺されたように痛いので、声を叫んで助けを呼んでいるうちに、だんだん夜も明けて来た。よくよく見れば、竹の子笠の輪もとび切れ、道傍の栗の大木が枝ながら裂け折れて倒れかかっていたのだった。雷に押えられたと思って、力いっぱい握りしめていたのは栗の毬(いが)であった。夜道などする人に、この話を聞かせたこともあり、こころが心を迷わせて、愕き逆上したものである。まこと面白い話である。
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 深夜なので、空模様がわからなかったと思われる歩行役は、ちょうど積乱雲の真下を御用状を手に出かけてしまったものだろう。午前2時ごろ出発し、ごく近くに落雷して半時(約1時間)ほど倒れたままでいたら、あたりが明るくなっているので、季節は夏に近い時節の出来事だろうか。

 
 1897年(明治30)ごろの記憶として書きとめられているが、砂利場一帯の水田に灌漑用水を送っていた溜池(明治期なので血洗池のこと)の水門鍵を管理していたのは、当時の高田村村長だった新倉家Click!と定められていたことが、海老沢了之介の解説に見えている。「鍵番」と呼ばれた溜池の管理者は、1年間の管理料として7円の手当を支給されていたようだ。明治後期の1円を、いまの物価にたとえて2万円ぐらいとすれば、年間14万円ほどの収入になっていたらしい。

◆写真上:学習院のキャンパスに残った、灌漑用水の溜池=血洗池。
◆写真中上:上は、1716年(正徳6)に作成された高田村絵図。中は、学習院大学が規定している緑に塗られたキャンパス範囲。下落合村との境界ギリギリまで飛びだしている溜池(正徳年間)を現在の血洗池と同一と規定しているので、かなり西側へ張りだし歪んだ形状をしている。下は、寛政年間に金子直德が描いた溜池周辺絵図。池の東側に、S字型の坂道が描かれている。
◆写真中下:上左は、1880年(明治13)に作成された1/2,000地形図。血洗池と思われる溜池の東側には、2本の坂道が確認できる。上右は、1910年(明治43)作成の1/10,000地形図にみる血洗池周辺。学習院の敷地内になった道筋は、すでに消滅している。下は、海老沢了之介が作成した地図で血洗池の西側の坂(現・椿坂)を溜坂と規定している。
◆写真下:上は、目白通りから椿坂への入り口。下は、椿坂の現状。